第二話
「リィミィ君。キミの海外留学の希望だが」
光龍四十年、帝都。
中央学府の長たる老竜は、女獣竜に抑揚のない声で告げた。
「諦めてくれ。すまない」
「理由は、お聞かせいただけるのでしょうね」
謝りながらもそこに申し訳なさは感じない。視線も判を押すばかりの書類に向けられたままだ。また、そうした態度はいつに始まったことではなく、非常勤の講師であるリィミィの中では彼への賢者としての敬慕などとうに消え失せている。
「席がすべて埋まってしまった。学生の中でも希望者数多でね。特に真竜種の若く優秀な若者たちが見たがっているんだ。学府としては、未来ある彼らをこそ優先し、広い世界を見てもらいたい」
「その大半は物見遊山のつもりでしょう。この私が綿密な打ち合わせのうえ、ようやくあちらの学園と提携が実現したんですよ? これでは恥をさらすだけでまるで意味がない」
人と竜、いずれを選ぶべきか。それを思案しているのは大陸内部の人間ばかりではない。はるか先の大海の先の諸国もまた、どちらに手を結ぶべきかを考えているのだ。
留学に赴く生徒たちの一挙一動もまた、その査定に大きく関わってくる要素であるはずだ。現に、人間達もまた正式な使節として竜たちの二倍三倍の速度と人数で、異国へ送り込んでいるではないか。
無駄に加齢するばかりでこの老いぼれは、内側の勢力関係とおのれの立場にしか興味がないのだ。
「それに、今の言いぐさ。まるで私に先がないように聞こえましたが」
「他意はない」
学長は干からびたビワのような鼻をひくつかせて嗤った。
それが合図のように、扉の前に立っていた事務方が彼女のすぐ背後まで寄ってきていた。それを鋭敏な聴覚で捉えながらも、リィミィはまっすぐに目の前の老竜へと向け続けた。
彼は、書類から手をはなした。
真摯に対話をする気になったかと思えばそうではなく、古書の切れ端をつなぎ合わせる作業にうつっただけだった。
本来は学長の仕事ではない。ただヒマを持て余して、手慰みににやっていることらしい。
「ただ、キミだってとうに身を固めても良い歳だろうに。獣竜の技師は重宝がられるが、学問で身を立てた者など聞いたためしがない。だから半端な学者の真似事などほどほどにしておいて、そろそろミィ家に新たな血を入れるべき頃合いではないのかね?」
なるほど、とリィミィは自分でも驚きたいまでに、冷えた声を発した。
理解した。ただし、相手の言い分がではない。納得などしていない。
ただ、相手の無理解と、今後一切の歩み寄りがかなわないことを、理解した。
ただ、反論する実績も材料もない。老竜の言葉は、道理の通った正論には違いなかった。
彼女はろくに梳いてもいない頭を押し付けるようにして下げて、執務室をあとにした。
〜〜〜
彼女は一応は考える。今後の身の振り方を。
――どうすれば、海を渡れる? どうすればヤツらを見返せる? 私の論の正当性が証明される?
それは今日にいたるまでに、何度となく自問してきたことだった。
だが返ってくるのは、いつも同じ言葉だ。
後ろ盾なくして渡海したとてどうなる? ミィ家を潰す気か?
見返す? そんな卑しい虚栄心のために、自分は学んでいたのか。
証明する? その実践の機会や実績がなければ、机上の空論のままだ。だが、それは獣竜の自分には永遠に回ってくることはないだろう。
あの老いぼれの言うとおり、所詮自分のそれは、証明されることのない技術や情報をひたすらに紙に書き留めるだけで、誰の興味も惹かないごっこ遊びでしかないのだろう。
そして半ばそれを諦めて、様々なしがらみから一歩踏み出そうとしないあたりも含め、自分の限界なのだろう。
—―辞職の手続きと荷造りでもしておくか。
ため息とともにみずからの寮室のドアを開けた瞬間、リィミィは身を強張らせた。
そして彼女と同じように小柄な身を硬直させた少年がいた。
部屋に入るまで、獣竜の感覚をもってしても、その捉えられなかった。ひとつだけ残された右目の、異様な怯えてぶりから見てわかる。おそらく、極限まで気配を消す術に長けているのだろう。
今回はそれが災いして、突然の接近と発見を許してしまったようだが。
――だが盗人ではない。
なんとなしに、リィミィは感じ取った。
弾かれたように、少年は平伏した。
だが逃げはしない。名乗りもしない。
みずからが小銭目当てで侵入した泥棒ではないと、無言で弁明しているのだ。
そもそも、この部屋に値打ちのあるものなどあるはずもない。
本は学府の廃品だし、新聞紙や雑誌の切れ端は数年前の海外のもので、紙屑同然の管理状況だったものだ。
そして少年が胸にかき抱いている自身の論著もまた、学長達に言わせれば、無価値なものらしい。
その所作は学生とは思えなかったが、よほどの冨家に飼われているのだろう。少年の着衣は相当に良いものだった。当然、竜に従僕として仕えている以上、多少の不自由はあるだろう。だが、わざわざ盗みを働かずとも、血色は良いし、十分に扶養されているように思える。
「お前、何者だ」
リィミィは問うた。平伏するばかりで少年は答えない。主人に迷惑がかかることを恐れたのだろう。あるいはそれによる懲罰か。
「べつに怒っているわけではない。ただ、訳を知りたい。そんなものを読んで、どうする気だったのかをね」
そうやんわり告げても、少年は答えない。
リィミィは、根気のあるほうではない。事態が膠着したことを察すると、攻め口を変えた。
「……ではこうしよう。理由だけ答えてくれたら、素性は問わない。他の篇や書を貸してやっても良い」
顔を上げた少年の、右目の色が変わっていた。当然、恐れや警戒は払拭しきれてはいないが、目の前にいる学者自体に対する好奇がそれが上回った。そんな顔つきだ。
――こいつ、生意気にも私を見定めている。
と、リィミィもまた、隻眼の少年に興味を持った。
そして両者は、無言のうちに契約を成立させたのだった。
「面白いから」
少年はおもむろに口を開いた。
「面白い?」
リィミィは口をかすかに歪めた。
講義を受けられる身分でもなく、自分よりも実践できそうにもない無学な人間の小童が、それを理解したとでもいうのか。
さすがに礼を欠く言葉だったから、あえて口にはしなかったが、顔には出ていたらしい。
少年の目に、昏い怒りのようなものが点いたのをリィミィは見た。
「生産者との直接の連携。強化された産品生産による経済発展。海運貿易の強化。市場の独占」
竜の文字で書かれたその原文を、何ら行き詰ることなく読み上げ、かつ要点をつまみ上げた。
ふたたび固まったリィミィを、少年は隅々まで探るような目つきで尋ねた。
「これを人間たちがやったら、竜は、この大陸はどうなるの?」
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