第七十三話 緋鬼姫 その弐

 昔々どこかの山奥に鬼が住んでいました。


 この鬼はかつて人間だったようです。

 けれど、その時の記憶は残っていませんでした。


 薄汚れた衣装を身纏っているところからすると、かつてはどこかの貴族の娘だったようです。


 それだけが、この鬼の唯一の手掛かりでした。

 いつ生まれたのか、どこからやって来たのか、自分でも皆目見当がつかないのです。

 けれど、鬼の心中にはわけもなく悲しみだけがひどく満たされていて、いつもその目からは真っ赤な血の涙が溢れているのでした。


 くる日もくる日もたった独り、鬼はただ山中で悲嘆に暮れているばかりでした。


 もういっそ誰か自分を殺して欲しい。


 いや、自分でこの命を断とうかしら。


 そんな風に苦しみながらも、この鬼は決して死ぬことができませんでした。


 なぜなら永遠の不死だったからです。


 鮮やかな緋色を帯びた紅葉が咲き誇る、深い秋の季節のことでした。


 夜――


 夕陽がとっぷりと沈んで、山に生える草木が闇を身に纏ったその瞬間。

 鬼の心中に眠っていたはずの感情が、ふつふつと沸き立ってくるのです。


 そう、怒りと憎悪が。


 とめどなく胸に込み上げてくるような衝動のせいでしょうか。

 鬼の姿は、鮮やかな朱色へと染まり始めました。


 そして――


 彼女は静かに山を降り、とうとう人を襲い始めたのでした。


 紅い涙を流しながら人を殺めるその姿は恐ろしくもありますが、どうしようもないほどに悲しくも見えます。


 全身がどす黒い返り血で染まった彼女は、まさに緋そのものでした。


 そんな彼女の姿を見た人々は、恐れながらこう呼ぶのです。


 緋鬼姫――と。


 そんなある日のことでした。


 この緋鬼姫が、都から派遣されてきた武人にとうとう成敗されてしまいます。


 不死身の彼女は、遥か遠く離れた山中の洞穴へと封じ込められてしまいました。


 五百年間たった今でもその洞穴の奥からは、悲しく啜るような女の泣き声が聞こえてくるそうです。


                 (渡瀬荘次郎調べ 山麓村於 古老より)

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