第七十二話 柾目村へ

「あれが柾目村か……」

 

 夕焼けに浮かぶ茜雲の下。

 うねるように曲がりくねった里道を歩いていた天野宗歩が、ふと立ち止まってそう呟いた。


 陽が落ち強い風が吹き始めると、空の雲が箒で掃いたように筋状へと変化する。

 辺りはすでに夕刻へと差し掛かり、少々肌寒くなってきた。

 宗歩達が倉敷の町を早朝に出立して、約半日ほどが経っていた。

 街道から支道に入り、さらに細くなった里道をただひたすら北へと進んだ先。

 村というよりはやや小ぶりの里とも呼ぶべきその姿が、今ようやく宗歩の眼前に広がっていたのだった。


 駒師が住むという、柾目村であった——

  

「ねぇ、宗歩お姉様。あすこに大きな民家が見えるわね」


 池田菊が意気揚々と宗歩に向かって声をかけた。

 少しだけ小高くなっていた丘のようなところにわざわざ上って、彼女はそこから柾目村を見下ろしていたのだ。


「あ、本当だね。じゃあ、まずあちらに伺ってみようかな」


 宗歩も、菊と同じように丘に登って村の周囲を睥睨する。

 夕焼けに照らされ赤く染まった幾ばくかの民家が、少し寂しく映える光景だった。

 菊は、宗歩の腕に自分の腕を絡ませて、まるで飼い猫の様にじゃれついて見せる。

 父に先立たれ行き場を失っていた不遇な彼女ではあったが、奇遇にも真に心を許せる存在へと辿り着くことができたのかもしれない。

 天野宗歩という人物は、少々型破りなところがあるのだが、出会う人誰しもが彼女に好意を寄せてしまう、そんな恵まれた天性を持っているのだ。

 宗歩にしても、年の近い妹のような菊の甘えとも取れるじゃれつきが、こそばゆいこそすれ全く気にはならない様子だった。


 そんな和気あいあいの二人の背中を追うようにして、黙々と歩き続ける独りの男がいた。

 市川太郎松である。

 三人分の大きな荷物を背負い込みながら、とぼとぼと無言で彼女達に付き従うようその出で立ちは、菊の言葉を借りずとももはや「従者」と呼ぶに相応しい。


「……おい」


「お姉さまの将棋駒、あの村でちゃんと直るといいわねぇ」

「うん、私にとって本当に大事な駒だから」


「……おーい」


「でもその駒ってずいぶんと古いように見えるわ。もともとはどなたが使ってらしたのかしら」

「そうなんだ、気になるよね。でも私が師匠に聞いても絶対に教えてくれないんだよ」


「おおい!! 俺を無視するなよ! お前ら、絶対聞こえているだろう!!」

「なによぉ? さっきから五月蠅いわねぇ」


 菊が「二人だけの楽しい時間を邪魔するな」と言わんばかりに、鬱陶しそうに後ろを振り向く。


「あのさ……さっきから何回も聞いているんだが、なんでお前がここまでついて来ているのかな?」


 太郎松の口調はできるだけ優しいものではあった。

 だが、その苛立ちが全く隠せていない。

 

「あら? 別にいいじゃない。私だって立派な将棋指しなのよ。駒作りに興味があって当然じゃないのよ」


 つい先日も宗歩に窘められたはずなのに、こういった菊の太郎松への邪険な態度は、数日たってすっかり元に戻ってしまっていた。

 宗歩にしてもこれが菊の性分なのだろうと早々に了解したらしく、もうとやかく言うことはなかった


 型苦しくないこの自由闊達さこそが、宗歩門下の真骨頂とも言えよう。


 太郎松は、ちゃっかり自分の居場所を見つけた菊の抜け目のなさに呆れ果てて、その心中でちっと舌打ちをする。

 やっぱりこいつは猫のように気まぐれで生意気な奴だ、と。


「あのなぁ……、これは遊びでもねぇし、お大尽旅行でもねぇんだぞ」

「まぁまぁ、太郎松。確かに菊ちゃんの言う通り、駒作りの村なんて珍しいし、絶好の機会なんだから別にいいじゃない。それに彼女だけ倉敷のお宿でひとりお留守番てわけにもいかないでしょう?」

「ま、まぁ、そりゃ、そうかもしれんが……」


 唯一無二の味方のはずの宗歩にまでそう言われてしまうと、太郎松としても立つ瀬がない。

 これは少々分が悪いのではないか、と太郎松はほぞを噛む。


 女二人に男一人の旅道中。


 「両手に花」とはやし立てられれば、確かに仰るとおりかもしれない。

 

 だが今はまだ、九月の暮れにも満たない時節。

 

 秋が差し掛かった肌寒い季節ですらある。


 太郎松の花咲く「春」は、まだまだ遠いのであった。



「ねぇねぇ、おねぇちゃんたち、誰?」


 突然、目の前に少女がぽつんと立っていた。

 

 全く気付かなかった。


 宗歩の着物の袖をくいくいと引っ張りながら、こちらを見上げている。

 すわ、物の怪の類かと太郎松がいぶかしむ。

 倉敷で「柾目の鬼」伝説を耳にしてしまったせいだろうか。

 山中には人ならざる者が確かに存在する。

 太郎松はそう信じていた。


 数年前、飛騨山中での「さとり」現象以来である。


 あの不思議な体験をしてからというもの、太郎松は山中でのこういった怪異譚に相当神経質になってしまっていた。


(そう言えば初音と長三郎は元気かなぁ。なんでだろう、無性にあいつらに会いたくなってきたぞ……)


 娘は茶色の小袖に、派手な真っ赤な帯を締めている。

 背丈は宗歩の半分ほどにも満たない。

 歳はおそらく五つか六つだろうか。

 何か珍しい獲物でも見つけた山鼠みたいに、宗歩の周囲をクルクル元気よく走り回っていて落ち着きがない。

 だが、くりっとしたその目玉が愛嬌があって溜まらなく可愛い。

 小動物のようだった。

 これは、どうやら物の怪の類ではなさそうだ。

 自分たちが歩きながら会話に夢中になっていたところに、裾に広がる土手からこの子が登って来たのを、きっと見過ごしてしまったのだろう。


「えっとこんにちは。お嬢ちゃんは柾目村の人かな?」


 警戒する太郎松とは対照的に、宗歩は少女の前にしゃがみ込んで優しく声をかけた。


「うん!」

「あのね私、天野宗歩っていいます。あの村にご用があってね、倉敷から訪ねてきたの」

「あまのとーふ? なにそれ、美味しいの?」

「い、いや、そうふだよ……豆腐じゃないよ」

「あまの、そうふ…………って、あああああああぁ!!」

「ぎょええええ!」


 突如として奇声のような叫び声を上げ始めた少女に、宗歩が思わず腰を抜かして驚愕する。


「あるぇ、おかしいなぁ……、天野宗歩って『鬼みたいな人だ』って聞いてたんだけどなぁ……ぶつぶつ」

「お、鬼ぃ……な、なんで、私がそんなことに?」

「ねぇねぇ、鬼ってさ、角が生えていて毛むくじゃらで金棒を持ってて、すっごい大きいんだよね。なんでだろう、あれれおかしいなぁ……」


 少女が頭を両手で抱えて困惑している。

 これはこれですごく可愛い。


「……えっと、その話って誰に聞いたのかな?」

「え!? 母者だよ! 『天野宗歩は鬼のように強いんだ』ってね!」


 自信満々の顔をしながら少女が宗歩に応えた。

 宗歩はそれを聞いてふぅーっと溜息をもらす。

 この少女は大いなる勘違いをしているのだ。


「……それ、たぶん違うよ」

「ええ!? どどどういうこと?」

「うーん、それって「見た目が鬼」なんじゃなくて、『将棋がめちゃくちゃ強い』っていう意味なんだと……」

「ほ、ほぇー!?」

「ま、まぁいっか。あのね、私この村にご用があるの。誰か大人の人はいないかなぁ?」

「え、大人……? それならいっぱいいるよ! 誰が良い!?」


 てっきり怪しい者と警戒されるかと思ったら、正反対の回答が飛んできた。

 選り取り見取りだから、好きに選べと言うのだ。

 この子は純真無垢で人を疑うことを知らないのかもしれない。

 宗歩は、この娘のことがますます可愛らしく思えてきた。

 

「そうだなぁ、じゃぁ柾目村で一番偉い人、かな」

「うーんと、うーんと、一番偉い人は……今はいません! ごめんなさい、売り切れです!」


 少女がぺこりと宗歩に向かって頭を下げた。

 非常に申し訳なさそうに、繰り返し繰り返しひたすらに謝っている。

 幼いながらも、意外にちゃんと躾けられているらしい。

 ちょっと謝り方が微妙に変なんだが、それでも宗歩は感心する。

 だがこのままでは、宗歩が少女に無理に謝らせているように見えてしまう。

 それはそれで非常に困る。

 

 そんなに謝らなくていいよ、宗歩が言うと少女は安心してにっこり顔を上げた。


「じゃあ二番目に偉い人はいるかな?」

「二番目・・・・・・あ、そうだ! 鵞堂がどうだったら、今工房にいるよ!」

「が、鵞堂さん? その人が村で二番目に偉い人なのかな?」

「うん! 鵞堂はね、とっても体が大きいんだよ! だから雅堂はきっと二番目に偉いと思うんだ!」


 なぜに体が大きいと二番目に偉いのか正直良くは分からない。

 なのだが、とにかく宗歩は柾目村での最初の手掛かりをこうして得ることになった。


「そ、そっかぁ……。じゃあ、その鵞堂さんのところまで私たちを案内してくれるかな?」

「うん、いいよ! こっちに付いてきて!」


 そう言うと、少女は村の方向へと体勢を変えて脱兎のごとく駆け出した。


「ああっ! 待って、ねぇあなた、なんて名前なの?」


 走り出そうとしている少女を引き留めるように、宗歩が声をかけた。


「え、私?」


 少女がぴたりと足を止めて、くるりと宗歩の方に振り向き直す。

 そして、宗歩の顔をまじまじと見つめたのだ。


「うん、そう」


 少女は、底が見えないほどに元気よく、こう名乗った。


「私の名前は、董仙とうせん!」


 天野宗歩門下、松本董仙。

 後世書家でありながら、棋力五段にまで上る異色の将棋指し。

 そして現代においてもなお、駒書体「董仙」としてその名を残す。


 これが天野宗歩と彼女、董仙との初めての出会いだった。 

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