第六十九話 妹弟子、見参!(前編)

――壱――

 天野宗歩と市川太郎松は、阿波国の撫養むや港から船で讃岐を目指した。

 天候にも恵まれて、まずは順調に讃岐港へと辿り着く。

 そこから瀬戸内海に浮かぶ島々を経由して、船を乗り継いでいった。


 天保七年九月三十日の明朝のこと。


 宗歩達は倉敷へと続く最後の街道を歩み続けていた。

 そして同日昼過ぎには中心部の本町へとようやく無事に到着するのであった。


 倉敷には商都大坂と比べるべくもないが、それでも大勢の人が賑わっていた。

 到着してすぐに宗歩は、阿波脇町のときと同様に本拠地となる旅籠を目指す。

 倉敷川の畔にあるこの本町。

 そこから東に貫くように走る本町通り。

 幅広いこの通りを抜けた先にある東町の外れに、寂れた旅籠が一軒あった。


 これが小林東伯斎が確保した下宿屋であった。


「おお、ようやく見つかったぞ。宗歩、ここだ、ここだ」

「ふぅ、少し疲れたよ」


 旅籠の暖簾をそろりとくぐりながら、宗歩は玄関口で威勢よく挨拶する。

 存外にも、宿の中は広くて清潔だった。


「ごめんください」


 宗歩の声を聞きつけて、年老いた宿の主人が奥からぬっと現れる。

 爺は上がり框につっ立ったままで、宗歩に向かって「いらっしゃい」と愛想なく述べた。


「あの――」


 こちらの事情を簡単に説明する宗歩。


「はい、どうぞ、どうぞ、こちらでございます」


 柔和な笑顔に突如豹変した主人が、いきなり二人をそのまま二階に連れて行く。

 そうして一番奥の部屋まで慇懃にも案内してくれたのだ。

 どうやらすでに話が通っているらしい。

 宗歩は、そんな東伯斎の顔の広さに驚きを隠せない。

 彼の手際の良さにはつくづく頭が下がる思いだった。


「長旅でお疲れでしょう。さっそく内風呂をご用意いたしましょうか?」

「ああ、それは助かります」


 主人は「それでは」と淡白に告げて、そのまま階下へと立ち去った。

 部屋に残された宗歩と太郎松はぐるりと中を見渡して、ふぅっと一息つき腰を下ろす。

 

「さてと宗歩、明日からどうするよ?」

「うーん、そうよねぇ」


 太郎松と二人きりになれば女の言葉使いに戻るのが、宗歩の常だった。


「今度の対局者の情報がまず欲しいわね」

「確かにそうだなぁ。なら俺が近所の将棋会所にでも行ってみるとするか?」

「うん、そうね――」

  

 中国名人、香川栄松。


 三備の雄や伯耆とも呼ばれる、西国在野の古豪である。


 大坂から届いた東伯斎の文によれば、かつてあの大橋柳雪でさえも、その昔に香川栄松と対局して辛酸を舐めたことがあるそうだ。

 その棋風は、四宮金吾のように特別な得意戦法を持っておらず、矢倉戦法などじっくり構えた将棋を好んで指す居飛車本格派のようだ。

 奇抜で自由闊達な気風の在野の将棋指しというよりも、まるで将棋家の将棋師のような棋風と東伯斎の文には締め括られていた。

 文を読み終えたとき、宗歩は魚の骨が喉に引っ掛かったような気持ち悪い気分になった。


 そんな香川栄松との対局の日まで、一月半ほどの猶予があった。

 もちろん、わざとそうしたのだ。

 阿波に向かったときは道中で不測の事態が起きて、大幅に到着が遅れてしまった。

 万一対局日を過ぎてしまっていたら、不戦敗の誹りも免れなかっただろう。

 そんな苦い経験を活かして、今回二人は余裕を持った出立を心がけたのだった。

 

「宗歩。じゃあ、大坂には俺から文を出しておくことにするぜ」

「ごめんね」

「なぁに、気にすんじゃねぇよ。お前は将棋のことだけ考えていりゃいいんだよ」


 太郎松は早速、部屋の文机で大坂の小林東伯斎宛に宛てた文をしたため始めた。

 骨子は以下の通り。

 予定よりもかなり早く備中倉敷に到着できたこと。

 阿波出立の際に大塩平八郎の遠縁を名乗る者から、頼みごとを引き受けたこと。

 そのため倉敷での対局後にはいったん大坂に戻りたいこと。

 

 ここから文を送れば、遅くとも数日には大坂に到着する。

 二人は、何よりもまず大坂の状況を知りたかった。

 状況如何によっては、香川栄松との対局日までここで滞在するよりも、いっそ大坂に戻った方が良いと考えていた。



 三日ほど経ったある日、夕刻。


 宗歩は東伯斎からの返事を待ち詫びながら、独り部屋で盤上の前に座っていた。

 かねてからの懸案事項である、「必殺技」の研究。

 将棋にはまだまだ知らない戦法が無数に存在している。

 宗歩は定跡として過去に認められた手順を一つ一つ疑ってかかる。

 

 整備された道筋の上にも隠された脇道や思わぬ小石が転がっているのだ。

 彼女はそこに雪のように冷静な考慮を刻み込み、血潮のように熱い情熱を塗り埋める。

 そうして自分なりの形になるまでじっくりと、「新手」を作り上げていくのだ。


 沈思黙考――


 物言わぬ盤駒と対峙し続ける、深遠で孤独な戦いがまさにそこにはあったのだ。

   

「うーん、疲れたぁ」


 数時間同じ体勢で盤上を睨み続けていた宗歩が、急に音を上げる。

 宗歩が仰向けにごろんと寝転がりながら、腕をぎゅーっと伸ばす。

 旅に出てからというもの、こんなにゆっくり研究ができたのは久しぶりだった。

 羽を伸ばすわけではないけれど、この際ちょっとだけ気分転換を図ってもいいかなと思い始めていた。


 そんなとき、足元の障子がスッと引かれた。


「戻ったぜ」


 調査のために外に出ていた太郎松だった。

 行儀悪く寝転がったまま、宗歩は「おかえり」と返事する。


「首尾はどう?」

「いや、さっぱり」

「へぇー。結構有名なんじゃないの? 香川永松様って」

「ああ、この辺では有名も有名だな。会所でもその名前は知られていた。だけどここ数年はほとんど人前に出て来ないらしい」

「ひょっとして体調でも悪いのかな?」

「それならお前の挑戦を受けるはずがねぇ」

「確かに。ふーん、謎に包まれた将棋指し……かぁ。まぁ、まだまだ時間はあるし、ゆっくり調べようかしら」

「おうよ、将棋でも指すか?」

「うん、そうしよう、そうしよう」


 しばらくの間、二人が練習将棋を指していると、


「ごめんくださいませ」


 突然階下の方から人の声が聞こえてきた。

 誰かがこの宿に訪ねて来たようだった。

 客人だろうか?

 ぼろくて寂れたこの旅籠にしては珍しいな、と宗歩は思った。

 ここに泊まってからもう二日も経つのだが、こんなこと始めてだったからだ。

 

「へぇー、いらっしゃいまし――」


 宿の主人が玄関で出迎えると、そこに若い娘が一人ぽつんと立っていた。


「あの、ここに将棋の天野宗歩先生が滞在されていると伺ったのですが?」


 女はそれだけを言った。


 ――弐――

「お寛ぎ中に失礼します。天野先生。ご同門の方が玄関にお見えになられましたが……」


 部屋と廊下を仕切る障子の向こうから、宿の主人の声が聞こえてきた。

 瞬間、宗歩と太郎松が無言で顔を見合す。

 表情に緊張が走っているのが、互いにすぐ見て取れた。

 

「宗歩の同門……だと? 一体どういうことだ? 江戸の将棋家が何でこんなところに?」

「分かんない。だけどここがばれてるなら、ひとまず会ってみるしかないわね」

「……油断するなよ」


 将棋家がここにやって乗り込んできたからと言って、宗歩達が捕縛されるわけではない。

 もしも宗歩の存在が将棋家に取って都合悪ければ、単に破門をすれば良いのだ。

 いまだに宗歩を破門しないことが、将棋家が天野宗歩を必要としていることを裏付けていた。

 だが仮にそうであっても、こんな僻地まで訪ねてくること自体、そもそもの異常事態には違いない。

 

 太郎松の言葉に宗歩がこくんと一つ頷いて、

「えと、はいわかりました、ご主人。どうぞその御方をこちらまでお通しください」


 宗歩の言を聞き届けた宿の主人が、何も言わずにその場を去る。

 しばらくすると、主人と入れ替わるようにしてトタトタと軽い足音が徐々にこちらに近づいて来るのがわかった。


「天野宗歩様ですか?」

「はい、そうですが」

「開けても良ろしいでしょうか?」

「ど、どうぞ」


 宗歩の返事と同時に、遠慮なく障子がすっと引かれた。


 廊下に若く美しい女が立っていた。

 宗歩の知らない女だった。

 長旅をしてきたのだろう、その装束は決して綺麗なものではない。

 だがその眼差しからは、力強い意志が垣間見られる。

 女は、部屋で腰を下ろしていた宗歩と太郎松を見据えて、

「ひょっとして、あなたが天野宗歩、様?」


 耳ごごちの良い、軽快で澄んだ声色だった。


「え、ええ。はいそうですけど、えと、あなたは?」

「私? 私の名前は、菊よ」

「菊……さん?」

「大橋本家の門弟、つまりあなたの弟弟子ということになるわね」


 ——池田菊


 菊は伊藤金五郎への敵討ちを終えた後、江戸を旅立っていた。


 ――将棋家に仇名す天野宗歩を、私に追わせて欲しい。


 菊は、師匠の大橋宗桂にそう頼み込んだ。

 将棋家の教えに反して弟子を勝手に取り、将棋家からの独立を目指そうとする兄弟子の行方を追うこと。

 その行方を掴み、宗歩を糾弾して直ちに江戸へと帰らせること。

  

 意外にも大橋宗桂は何も言わずに菊のこの申し出を許諾する。

 道中での身の安全を考慮して、従者を一名だけ付けることを条件にして。

 

「はじめまして。天野宗歩――先生」


 菊が、不適な笑みを浮かべる。

 

「え、ほ、本家の……門人? いつのまに……」

「あなたが江戸を発ってから入門したの。知らなくても当然よ」


 宗歩がたじろいでいるのを見て、菊の口調がやや刺々しいものへと変化する。

 

「そ、そうなんですか……」

「なによ、こうして可愛い妹弟子が、遠路はるばる江戸からあなたを追いかけてやって来たのに。もうちょっと歓迎してくれての良いじゃないの」

「お、おぉ!? そ、そうですね、これは失礼しました。さぁ座布団をどうぞ」


 なぜか、宗歩の方が妹弟子の菊に向かって気を使い始めていた。

 最初に出会ったときとは打って変わって、さらに菊の態度が大きくなっていく。

 何にも物怖じしないこの性格こそが、菊の特徴だった。


「まったく、てっきり大坂にいるものと思っていたのに……ぶつぶつ」


 菊が将棋家から得た情報では、宗歩は大坂に滞在しているはず、だった。

 だが大坂に辿り着いた時には、すでに宗歩は四国へ旅立ってしまったばかり。

 さすがに菊としてもあてどなく海を渡るわけには行かず、将棋家の大坂支部長の吉田一輔の元を頼ることにした。

 彼の饂飩うどん屋を手伝いながら、天野宗歩の行方を追っていた。


 ある日のこと。


 流石は飯屋の娘だけのことはある。

 菊は店を手伝っているうちに、饂飩の打ち方も様になってきた。

 吉田一輔としても繁盛する店を甲斐甲斐しく手伝ってくれるこの若い娘が気に入ってしまい、息子の嫁にどうかと考え始めていたぐらい。


 吉田市舗と菊による浪花大坂での涙なしには語れぬ人情噺。


 これについては紙面の都合上割愛させていただき、またどこかの機会で紹介させていただくことにする。


 そんな菊が、宗歩の行方をとうとう掴んだのだ。


 市中で出回っていた珍妙な瓦版。


 それによれば、宗歩は阿波脇町から備中倉敷へと先日旅立ったらしい。

 菊は倉敷へ旅立つことを決心する。

  

「どうして、この旅籠の場所まで分かったの?」

「倉敷の町であなたの行方を追っていたら、親切に教えてくれた殿方がいたわ。町で結構噂になってるわよ、あなた」

「げげげ、すでに顔がばれている……な、なんで……」

「さぁ? あなたの顔を知っている誰かが吹聴して廻っているじゃない?」 

「そ、そうだ! 菊さん、あなたどうして、女なのに……将棋家に入門できたの? なんで……?」

 

 激しく動揺する宗歩の姿を見て、菊は不思議そうに首をかしげる。


「はぁ、一体何言ってるのかしら? 女が将棋家に入門したって別に構わないんじゃない?」

「……ええ、それっとどういうこと……!? じゃ、じゃあ、何で私のときは? 師匠……」

「ねぇ、ちょっと、そんなことよりも!!」

「は、はいぃ!?」


 狼狽し続ける宗歩に菊が痺れを切らして、唐突に自分から強引に話を切り出す。


「ひとつ、私に御指導をお願いできるかしら、天野宗歩先生」

「指導対局ですか。それは別に構いませんけど……」


 その時、今まで黙っていた太郎松が菊に向かって激しく吼えた。


「おいおい、なんなんだ、お前は!? さっきから黙って聞いていりゃあよ! いきなり押しかけてきて『将棋を指してくれ』なんて無礼な話だろが! てか、お前、本当に大橋本家の門弟なのか? 証拠でもあんのかよ」

「はぁ、あなた何様? 宗歩様の従僕か何かかしら? ふふ。いきがってんじゃないわよ。これよ。これを見て平伏しなさい!」


 菊が懐に手を入れて一枚の紙切れを取り出し、太郎松に手渡した。

 

「なんじゃこりゃ、えらいきったねぇ紙切れだなぁ」

「うるさい! 一度自分で破り捨てちゃったのよ! でも……あの人が糊で直してくれたの」


 菊は太郎松から紙片を奪い取って、大事そうにぎゅっと抱きしめた。


「あの人? なんだお前恋人がいるのか? 子供がきのくせに結構ませてやがるなぁ」

「うるさい! うるさい! 私はもう子供じゃないわ、今年で二十歳よ! そんなことより、ほら見なさい。れっきとした将棋家の初段免状よ。ね、これで信じてもらえるでしょう? ほら、さっさと対局してよ!」

「だから、なんで命令口調なんだよ……」


 一方宗歩は、菊の高圧的な態度にも全く気にならない様子で、まじまじとその免状を検めている。


「へぇー、確かに伊藤宗看名人の署名と花押がありますね。ふむふむ、大橋本家門下の池田菊女さんか……。なるほど分かりました。そういうことならば私の妹弟子に相違ありませんね」

「ふふふ、ようやく分かってくれたのね! さぁ、いざ尋常に勝負よ!」

「遠路はるばるこのような所まで、よくぞ会いに来てくれましたね。ありがとう」


 宗歩が菊の手を握り締めながら、深々と頭を下げて礼を言う。


「え、ええぇ? な、なんか調子狂うわねぇ。私、天野宗歩ってもっと恐ろしい勝負師を想像していたんだけど……」

「ふふ、ここまで大変だったでしょう? まずはその礼を言わないと」


 男装するわけでもないのに女がどうやってここまで旅をしてこられたのか。

 宗歩にはそれが不思議だった。

 まず将棋家の免状を見せ巡業と伝えれば、関所は通れるはず。

 旅先ではどうやって旅費を稼いできたのだろうか。

 まさか、賭け将棋を……?

 いや、各地の将棋会所を訪ねてそこで指導対局をさせてもらったり、地方の将棋の大会に出て賞金でも稼いできたのだろう。

 だが、たとえ指導対局や地方の大会でも、無様な将棋を指してしまえば身分を騙ったと疑われて、身を危険にさらす可能性だって否定できない。

 免状一枚よりもむしろ、無傷でこの倉敷まで辿りついたというその事実こそが、この娘の腕前が信用足るべきものだと裏付けていた。


「な、なによ……。ふん、べつにお礼なんて必要ないわよ。だって、天野宗歩様、あなたは今から私に負けることになるのだからね!」


 菊が宗歩の手を振り払って、びしっと指差した。


「そしてあなたは、将棋家にこれ以上歯向かうことをここで諦めることになるのよ!」


 いきなりの宣戦布告を告げられた宗歩は、江戸で自分が今どんな評価をされているのかそれとなく悟る。


「将棋家に歯向かうって……。私、そんなつもり全然ないんだけどな……」


「さぁ、始めるわよ! よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします……」


 すっと宗歩は盤上に並べた駒から自分の飛車を落とす。

 五段と初段の段位差であれば、大駒の飛車を一枚落とす手合いとなる決まりだった。

 十分な戦力差に自信ありげな菊が、しなる手つきで駒を盤に打ち付けた。


 バチィィ!

                               (後編へ続く)

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