第七十話  妹弟子、見参!(後編)

 ――壱――

 四半刻後(約30分後)


 あっけなく勝負がついた。


「くっ! ま、負けました……」

「はい、ありがとうございました」


 八十手待たずして、菊の完全敗北。

 宗歩に全く歯が立たず、良い所なしの完封負けを喰らって、菊は腰が砕けてその場にへたり込んだ。


「ちょ……っと、滅茶苦茶強いんだけど…………」

 

 菊が宗歩の方を震える指で指さしながら、擦れ声を絞り出す。


「なんだお嬢ちゃん、威勢の割りには意外と大したことねぇのな」と太郎松が横から茶々を出す。

「くっ……。う、うるさいこの唐変木! 従者は黙ってなさいよ!」

「なっ、と、唐変木、それに従者だぁ!? ほんと口の悪い女だなぁ……。あ、そうだ。お前勝負に負けた訳だし、一回お灸でも据えてやろうか?」


 太郎松が手の指を重ね合わせて、ボキボキと骨を鳴らし威嚇する。


「ひ!? ひぃぃ……」


 あれほど威勢の良かった菊だが、ここにきて一気に気勢が削がれてしまった。

 なんとか宗歩に一矢報いようと必死に虚勢を張っていただけだったのかもしれない。


「まぁまぁ太郎松、もうそこらへんで勘弁してやりなさい。それにこの娘だが、筋は結構いいと思う。さすがは我が師が見込んだだけのことはある」

「そ、そうよ! 宗歩様が私に勝ったからって、従僕のあんたがいい気にならないでよね!」

「おいぃ!? なんでそっち二人でつるみ始めてるんだよ!」


 その時だった。


「ううぅ……!」


 突然、菊が苦しそうに腹部を押さえたのだ。


「ど、どうしたの、菊さん! もしかして具合でも悪いの!?」


 ぐぅーーー。


「お、お腹すいたぁ……。私、もう二日何も食べていない…」

「まぁ、それは大変だわ! 太郎松、下に行って何か食べ物を分けて貰ってきて頂戴!」


 菊の惨状に驚いた宗歩が、油断して女の言葉遣いへと戻ってしまった。

 突然宗歩が変調したことに、菊は強い違和感を感じる。


「……『だわ』? 『頂戴』? え、どういうこと……? まさか、ひょっとして……」


 バタン!


 激しい空腹のあまり、菊が前のめりに突っ伏す。


「あ、あぶない!」


 慌てて宗歩が菊に向かって両手を伸ばした。菊は眼前にいた宗歩の懐の中へふわりと納まる。


 ふにぃ。


(ああ、とても暖かくて……)


 男とは思えないほどに、柔らかいこの肉の感触。

 

「ああ!? 菊さん! ねぇ、しっかりして!」

「あ……天野……宗歩……って……お、女……だったのぉ……?」


 菊がそのまま意識を失った。


 ――参――

 菊が空腹の末に倒れてしまってから、二日ばかり経ったある日のこと。


「おい」

「ねぇ、宗歩お姉さま。ここはどうやって指せば良いのかしら?」

「うーん、そうね。あ、これでどうかな」

「まぁすごい! そんな妙手があるのね」


 宗歩と菊が和気あいあいととても楽しげに将棋盤を囲んでいる。


「……おいぃ!」


 太郎松がけたたましく吼えた。

 先ほどから何度も菊に呼びかけているのに、ずっと無視され続けていたからだ。


「……なによ?」

「何でお前がこの部屋で宗歩と楽しそうに将棋指してるんだよ? 用は済んだんだろ? さっさと江戸に帰れよ」

「別にいいじゃないの、私たちみんな同門でしょ?」

「だからって、当然のように居座るなよ! もう二日目だぞ! 宿代も馬鹿にならんのに……」

「ふん、ケチな男ねぇ。あ、私、お腹すいちゃったわ、そろそろ昼餉にしましょうよ。太郎松、早く準備してきて」

「お前は野良猫かよ! 食い物渡した途端に、宗歩に懐きやがって」

「ちょっとぉ、誰が泥棒猫ですって? ほんと失礼しちゃうわね」

「んなこと言ってねぇし! 野良猫だよ」

「ば、化け猫ですって!? ひ、ひどいわ!」

「ひどいのはお前の聞き間違いだよ!!」


 なぜか宗歩は、二人の掛け合いをニコニコしながら聞いている。


「……聞けばあなた、宗歩お姉さまの弟子だって言うじゃないの」

「そ、それが一体どうしたんだ……?」


 菊が突然に太郎松に向けて話を切り替えしてきた。そのせいで太郎松はたじろいでしまう。

 

「だったら、私にとっては甥みたいなものじゃない。そもそも私はあの大橋宗桂様直々の弟子なのよ。それに比べてあなたはしょせん宗桂様の孫弟子なんでしょう?」

「なぬぅ!? お、俺の方が年齢も段位も上なんだぞ! せめて太郎松お兄様と呼べ!」

「いやよ!」

「ぐぬぅぅ……」


「まぁまぁ、お菊ちゃんも太郎松もそんなことで喧嘩しちゃだめよ」


 太郎松と菊の応酬を側で見守っていた宗歩が、にこやかな顔のままで二人をようやく諌めた。

 宗歩にとって、菊はかけがえのない女の同門なのだ。

 これまでずっと男の世界に生き続けてきた宗歩は、彼女に自然と親近感を持ち始めていた。

 

「はーい、お姉さまぁ」


 菊が急な猫なで声で、宗歩にごろにゃんと存分に愛想を振舞う。


「くそぉ……一体どうしてこうなっちまったんだ……」


 太郎松の苦難はまだまだ続くのであった。


 ――弐――

「ねぇ、お菊ちゃん。そういえば、江戸の将棋界は今どんな風な感じなの?」

「ええ!? うーん、そうねぇ――」


 菊の話によれば、伊藤宗看名人が齢七十を迎えようとしていた。

 棋力の衰えも隠せないようで、唯一の子息である金五郎も勘当の末に行方不明。

 名門伊藤家の先行きは不透明だった。

 宗看名人は、才能誉れ高い大橋本家の上野房次郎を、伊藤家の養子に迎えることでこれを挽回しようと画策していた。


「へぇー。あの房次郎が伊藤家にねぇ……」

「え、宗歩お姉さまってあの生意気なガキのこと、ご存知なの!?」

「う、うん。まだあの子がこんなに小さかった頃だけどねぇ。そっかぁ、あの房次郎が伊藤家に……大丈夫なのかなぁ」


 天野宗歩と上野房次郎は年齢が十も離れていた。

 そのせいで二人は同世代の好敵手と言うよりも、まるで師弟のような関係にあった。

 幼少の頃から宗歩を慕ってその背中ばかりを付いていた、房次郎少年。

 それが今や伊藤家の跡取りとして養子に迎えられるなんて。嫌でも宗歩の心中には隔世の感がよぎる。

 

「他には?」

「なんと言っても今、江戸で一番なのは分家の宗眠様ですわ!!」


 なぜだろう、菊の鼻息が急に荒くなった。

 分家当主の大橋宗与は七段止まりで、最近は御城将棋にも出仕していないらしい。

 そんな宗与に代わって、今は嫡子の宗珉が御城将棋に出仕しており、その棋力の成長にも著しいものがあった。


「あの分家の宗珉殿がそこまで出世されているのねぇ。結構意外だわ……」

「ええ!? そ、宗歩お姉さまって、大橋宗珉様のことご存知なの……?」


 宗歩が宗珉の話を持ち出した途端、菊の表情に陰りが見えた。

 宗歩と宗珉の関係が気になって仕方がないらしい。


「う、うん。まぁそれほどでもないけどね。年齢が近いこともあって定例会で手合わせが多かったのよ」

「ふ、ふーん……。そ、それで?」

「でもあちらは将棋家の嫡子様でしょう? 気軽に声をかけるのもはばかれたし、ほとんど喋ったことないの」


 気のせいだろうか。

 宗歩の話を聞いた瞬間、菊が妙にほっとした表情をしている。


「宗珉様はね、宗歩様がいずれ江戸に戻ってきたときに挑戦なさる気よ」

「そうなの? それは楽しみだわ」


 天野宗歩と大橋宗珉は、歳が二つしか違わなかった。

 二人は同世代の好敵手と言っても良い。

 だが出世の速さでは、圧倒的に宗歩の方に軍配が上がる。

 宗珉が少年の頃に詰物を解くことが出来ずに苦しんでいる姿を、宗歩はこれまで何度も目撃していた。

 目覚ましいほどの速さで昇段を重ねて他をごぼう抜きする宗歩とは対象的に、宗珉がその真価を発揮するまでには熟成の時間を要したのだ。

 そして今や大橋宗珉は、江戸随一の手練れにまで成長していた。

 菊の話を聞くに連れて、宗歩は宗珉に宿命めいたものを感じていた。

 恐らく二人は生涯に渡って戦い続けなければならないのだろうと。

 

「でも、どうして宗歩様は女であることを隠していらっしゃったの?」

「うん……私にもよくわからないんだけど、入門した時に師匠からそう命じられたのよ」

「ふーん……」

「それで師匠はお変わりない?」

「鉄仮面のこと? ええ、あの人全く表情を変えないわね」

「い、いや、そういう意味じゃなくて……、お元気かなと……」

「ああ、うーん、私もそんなに長く将棋家に出入りしていたわけじゃないし、詳しいことは分からないけど。宗珉様のお話では宗歩様が旅立ってからというもの、ここ数年あまり元気がないらしいわ」

「あ、そうなんだ……」


 その後も宗歩と菊が部屋でしばらく話し込んでいると、太郎松が外から用事を済ませて宿に戻ってきた。


「あ、おかえり、太郎松」

「お、おかえりなさい……」

 

 気恥ずかしそうに菊が太郎松にそう告げた。

 太郎松が外に出かけている間に、菊は宗歩に太郎松への態度をたしなめられていた。太郎松のことを邪険に扱わないよう約束させられていたのだ。


「お、おう。ただいま……」


 太郎松も、いきなり殊勝な態度の菊の変貌ぶりに驚いて、少々ぎこちない返事をする。

 「一体どういうことだ」とばかりに宗歩の方をちらりと太郎松が見やった。

 無言で頷く宗歩を見て、瞬時に了解した。

 

「宗歩、明日噂の駒作りの村にいくぞ」

「え!? とうとう村の場所がわかったの?」

「ああ、ここから北にしばらく向かったところにあるそうだ」

「へぇー。意外と近かったのね。私の駒、直るといいなぁ」

「え、駒? どういうこと?」

「うん。私の大切な駒がね、ほら割れちゃったの」


 宗歩は菊に真っ二つに割れてしまった駒を見せてあげる。

 宗歩の悲痛な表情が痛々しい。


「う! こ、これは……」


 無残な姿の駒を見て、菊も何も言葉が出てこない。


「宗歩、実はその駒作りの村なんだがな、ああ、柾目村って言うらしいんだがよ、その村について一つだけ気になった話を聞いた」

「え、なに?」


 太郎松がぐっと息を吸い込んで、胸に溜めた空気をはぁっと吐き出す。


 ゆっくりと宗歩に、こう告げたのだ。


 ――なんでもその村には、昔から鬼が住んでいるらしい。 

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