第六十八話 花より団子
――壱――
備中国は、備中松山藩など複数の諸藩が分割して治める国である。
その中でも倉敷は、天領つまり幕府の直轄地。
北部には山岳地帯が広がり、南に目を向けると瀬戸内海が広がっている。
その海から引かれた運河が倉敷まで直接届いており、米など周辺の物資が集まるため、この町はいつも活気で沸いていた。
そんな町の中心を走る目抜き通り。
この大通りに面する小さな飯屋の前で、二人の男が暖簾をくぐろうとしていた。
店は昼過ぎということもあり、客足もまばらな様子。
「親父さん、ここ借りるぜ。それと、飯と茶を持ってきてくれ! 腹が減ってしょうがねぇ」
「奥、空いてますよ」と親切そうに薦めてくる主人に、いがぐり坊主頭の男が大きく被りを振った。
ここがいいんだとばかりに、軒先に雑然と並べられた床机にどかりと座り込んだのだ。
それに呼応するかのように、もう一人の男も静かにそこに腰かける。
「飯を食べに来たわけではないのですが」
こっちの男の方は、長い髪を一つに縛った細身の美丈夫。
華奢な身体付きではあるが、その身の丈は高い。
年は二十過ぎくらいに見える。
だがその若さに似合わず、髪には少しだけ白いものが混じっていた。
「いいじゃねぇか。丁度腹減ってたんだよ、俺」
坊主頭の男が、優男に向かってそう反論した。
優男の方は、何も答えずただお茶を口に含むだけ。
そうして往来を行き交う人々に視線向けて、何かを探すようにじっと眺め始めたのだ。
通りを行き交う女たちが、目が合った彼の姿を見染めて、思わず目配せを送ってくる。
妖艶な女形のごときその立振舞いに、女は誘惑されたものと勘違いするのだ。
だが優男の方はこれに愛想なく会釈するばかりで、連れない素振り。
まったく罪な男である。
しばらく、そのまま時間が過ぎた。
さきほどから坊主頭の男が、店の主人の用意した飯と魚と漬物と汁を一気に口にかき込んでいた。
この男は優男よりもさらに年若く、おそらく十代後半といったところだろう。
乱暴な口調から少々がさつな印象を与えてしまうのだが、つぶさにその顔を見れば、こちらも優男に勝るとも劣らないほど目鼻立ちが整っていた。
坊主頭でもなければ相当の美丈夫であったろう。
役者か旅芸人と間違いそうにもなる二人だか、いずれも藍染の作務衣を着ていた。
そこからして、どこかの工房の職人であろうか。
「
「うげ……、俺、まだぜんぜん食い終わってねぇし!」
「あなた何しにここに来たのです?」
「だってよぉ、せっかく町に来たっていうのに偵察なんてよぉ、ぶつぶつ……」
「しっ!」
長禄と呼ばれた男の口に、優男が手を当てて黙らせた。
偵察の目的である人物が、自分たちの目の前を歩き過ぎようとしていたからだった。
天野宗歩――
宗歩の方は、彼らには全く気づかずに倉敷の大通りをそのまま通り過ぎてゆく。
「
長禄は、目の前を過ぎ去りゆく宗歩の背中を睨みつけながら、優男にそう尋ねた。
「ええ、どうやらそのようですね。ふふ、なるほど母者の言う通りです」
この優男の名は、淇洲と言った。
隣に座る長禄の兄ではあったが、実際に血は繋がっていない。
同じ師匠を持つ「兄弟弟子」または「義兄弟」とでも言ったところだ。
「天野宗歩ってさ、噂に聞いてたよりもずいぶん華奢な奴なんだな。俺は『逆立った赤髪で目から火花を出す、ものごっついおっさん』がやって来るって聞いてたんだけどなぁ……」
「それは一体誰からの報告ですか?」
「えっ!? と、
長禄の返答を聞いて、淇洲がため息交じりに肩を深く落とす。
「……ふぅ、まったく。あなたは十歳の子供の話を本気で信用したのですか?」
「い、いや、でもさ……」
董仙というのは、まだ十歳になったばかりの少女である。
孤児だった彼女を淇洲と長禄の住む村の長が、以前どこかで拾ってきた。
淇洲と長禄もまた同様に孤児であった。
董仙と同じく村の長にどこかで拾われてきたのだ。
親のいない孤児は、村の大人たちによって大事に育てられた。
董仙は、女児だったからか村の皆から特に愛されており、今では村の小間使いとして雑用をしていた。
そんな幼い少女、董仙が村の誰かから聞いてきた信憑性のない与太話を、この長禄はそのまま鵜呑みにしてしまったらしい。
真面目で誠実な淇洲は、こうしていつも長禄の呑気さに手を焼いている。
「いいですか、長禄。まず人を見かけで判断してはいけません。天野宗歩は、あの阿波の四宮金吾を退けた恐ろしく強い将棋師なのですよ。決して油断できません」
「あ、ああ、確かにそうだな。なら、すぐにでも母者と長兄に報告するか?」
「そうですね……。いえ、もう少しだけ、後を付けましょう」
淇洲と長禄は、床几の上に小銭を置いてそのままどこかへ消え去ってしまった。
――弐――
倉敷から七里ほど北上したところに小さな寒村があった。
その村の名を、「
北には険しい深山幽谷が連なっており、山すそに沿うように二十ほどの民家が立ち並んだ山間の集落であった。
その真ん中を突っ切るようにして、山の麓から渓流がそのまま伸びている。
水の流れはやがて川となり、倉敷の方までずっと続いていた。
では反対に山の方へとそれを辿ってみよう。
山中に入ってしばらくすると、渓流が細い沢となってそのまま蛇行を繰り返していく。
沢を遡るように山をだらだら登っていくと、中腹あたりに神様が祀られた祠が見つかる。
普段ここに人が訪れるようなことなどまずないのであろう。
神域と呼ぶに相応しい静寂と静謐。
その名も「
その祠の正面に、珍しいことに人影が二つほど見えた。
一人は、いかめしい巨漢の男である。
精悍で険しいその顔つきにして、全身が色黒で筋骨隆々。
対峙する者に、すべからく戦慄と畏怖を覚えさせる一種異様な雰囲気さえ放っている。
それは、まるで鬼のようであった。
この男もまた、淇洲や長禄と同じように作務衣を身に纏っている。
もう一人の方は、美しい女だった。
巫女の姿をしているが、その袴の色が「朱」よりもずっと仄暗い「緋」だった。
この社の神官か何かであろうか。
少々風変わりな女の出で立ちからして、お社の祭神が特殊な存在であることが伺われた。
女の顔の特徴は、切れ長の両目とその口から偶に覗かせる鋭い八重歯。
絶世の美人である。
だが、女にしては相当な長身だった。
隣に立つ巨漢の男と並んでいても全く見劣りしない。
豊満な胸にくびれた腰、すらりと伸びた長い手足。
一言で言えば日本人離れした体形の持ち主だった。
そして、年齢がよく分からない。
老婆のようであり、年増にも見えるが、若くも見える。
玉蟲のように見る角度によって、彼女の様相が千変万化するのだ。
「母者。淇洲と長禄に倉敷まで偵察に行かせたのは本当か?」
「ああ、そうじゃ。天野宗歩が倉敷に着くと、昨晩に村の者から報告があったのでな」
「そうか、とうとうこの時が来たか……」
「うむ。この村にとっては正念場となろう。
「はっ!」
女に「鵞堂」と呼ばれたこの男は、先ほど倉敷の町で宗歩を監視していた淇洲と長禄の兄である。
長兄として彼ら弟弟子を取り締まる存在であり、村の工房の職人たちの中心的な存在でもあった。
そんな鵞堂は、ずいぶん前からひどく憂鬱な気分だった。
「……母者」
「なんじゃ?」
「今年の木材の調達があまり芳しくないのです」
「ふむ、薩摩も御藏もか?」
「はい、いずれも良いものが十分に用意できず、工房にいる調達役が相当苦労しております」
「そうか……、じゃがやはり黄楊でなくてはならぬ。他の木材ではどうにもならんからの」
「では、いかがいたしましょう?」
「ふむ……」
江戸幕府擁する将棋師と諸国に散らばる在野の将棋指し。
彼らは二百年の間、ときに対立し、ときには見せかけの協調をこれまで続けてきた。
だがそんな「将棋師」と「将棋指し」以外にも、「将棋の達人」と呼ぶべき者が、実はもう一つだけ存在していたのである。
この村は、そんな二大勢力の間に立つ第三の勢力であった。
決して表舞台に出ることがない、だが火花散らす盤上において無言でその存在感を誇示し続ける者。
そう、それこそが「駒師」である。
この柾目村は、「駒師によって作られた村」だったのだ。
柾目村の駒師は、これまで将棋師と将棋指しどちらか一方に肩入れすることを嫌ってきた。
上質の駒を売り物にする彼らにとって、その値打ちを両者で競り合ってもらわなければ困るからだ。
かつては、とある作品が将棋家の高段者と在野強豪の間で競り争われた末に、法外な値段が付いたとさえ言う。
一方が勝ち過ぎることなく、だが負け過ぎることもなく、重要な顧客である両勢力が均衡を保ち続けることこそが、この村の繁栄にとって理想な状態と言えた。
この村で生まれ育った鵞堂には、そんな歴史がこのままずっと続くかのように思われた。
将棋の天才児、天野宗歩が誕生するまでは。
若くして江戸を旅立った「麒麟児」天野宗歩は、京都、大坂、四国の在野強豪を次々と睥睨し、とうとうこの備中倉敷までをも飲み込もうとしている。
かつて、江戸将棋家の将棋師がここまで勢力を拡大させたことはなかった。
将棋家と在野棋士の均衡する勢力図が、今や一変に様変わりしようとしていたのだ。
ひょっとすると、近い将来において天野宗歩の名のもとに二大勢力が統一されたその時、この脆弱な村の存続が危機に晒されるかもしれない。
将棋の世紀末がもうすぐそこまでやって来ているのだ。
「ぜぇー、ぜぇー。母者ぁー、長兄ぃー」
そのとき、登山道の藪からから一人の男児が突然現れた。
息を切らして、肩を上下に揺らしている。
この中腹まで一気に藪漕ぎしながら走ってきたのだろう。
まだ十四か五くらいの子供に見えた。
背はかなり低くて細身で色白、体つきからは少しばかり頼りなげで貧弱に見えた。
だが、その眼差しと笑顔はたまらないほどに愛くるしく、思わず山栗鼠を思い浮かべてしまう。
この少年もまたやはり作務衣を身に付けていたのだった。
「無劍か……。どうしたのだ、そんなに慌てて」
「今、淇洲の次兄から連絡が届いたよ。天野宗歩様が倉敷に足を踏み入れたんだってさ!」
鵞堂に無劍と呼ばれたこの少年は、義兄弟の末弟だった。
長男
次男
三男
四男
この村では、彼らのことを「柾目四兄弟」と呼んでいる。
村の中枢にある駒職人の工房。
そこを取り仕切る棟梁直属の弟子たちであった。
「鵞堂よ、木材不足の件は妾がなんとかするとしよう。お前は無劍とともに村に降り、倉敷から戻ってくる淇洲と長禄の帰りを待つのじゃ」
「はっ! 母者……いえ、棟梁はいかがなされるおつもりで?」
そう、この女こそが、この村の駒師を束ねる棟梁だった。
その名は、「
代々、この地を治めてきた棟梁にのみ継がれる駒師の名である。
「おそらく、近日中には天野宗歩がこの柾目村を訪ねてくるはずじゃて。妾はそれまでこの社で祈祷する」
「宗歩がこの村に……、何故、そう言えるのです?」
「なに、簡単なことじゃ。奴が阿波におったとき、柾目の間者から宗歩の弟子に、この村の存在を伝えてやったからのぉ」
「では、それを聞いた奴はこの村を訪ねてくると?」
「まず間違いないじゃろう。何せこの村は……将棋の駒を作る村じゃからな。奴ならば必ず立ち寄るはずじゃ。まぁ、そうでなければ無理矢理でも連れてくるだけじゃがな」
そんな安清の不穏な言葉を聞いて、突如横から無劍が口を挟んだ。
「あの……、天野宗歩様がここにやって来られたら、母者は一体どうされるおつもりですか?」
彼もまた、物心つくかどうかの年頃に両親に捨てられた孤児である。
道端で飢え死にしそうになっていたところを、この安清に運よく拾われたのだ。
大人しい性格でまだ未熟とはいえ、駒師としての才能は誰よりもずば抜けていた。
駒師の棟梁にのみ伝えられる秘儀は、一子相伝である。
この四兄弟の内、果たして一体誰がその継承者となるのか、この村の者達にとってみてもそれは相当微妙な問題でもあった。
「ふふふ、無劍よ。そんなに心配せんでもよい。なにも妾は天野宗歩を鬼のように取って喰おうとしておるのではない」
「で、では……?」
「あの者をな、妾の心眼で見極めようと思うとるのじゃ」
「心眼で見極める、ですか?」
「そうじゃ。さぁ、鵞堂、無劍よ。さっさと山を下りて準備を進めよ。この村の命運はお前たちに懸かっておるのだ。しっかり頼むぞよ」
天領の倉敷の山奥にある村「柾目村」。
この村の土地は、山間の傾斜地だったせいで米や作物が十分に作ることができなかった。
そのせいで遥か昔から、この地に住む者たちは天候に関わらず貧困に陥っている運命にあった。
だが、百年前のこと。
ある日突然、武士と名乗る一人の不思議な男がこの村にやって来た。
それがこの村での駒作りの始まりだったそうだ。
江戸時代も半ばに入って徐々に将棋が庶民層にも普及するにつれて、手作りの紙駒や書き駒ではなく、職人による手彫りの駒が江戸や大坂でも普及し始めた。
そこに目を付けたこの男が、柾目村に専門の駒作り工房を建て、芸術品とも言えるほどに美しい駒を作り始めたのだ。
彼の駒は大量生産こそできなかったが、諸大名や愛棋家に重宝されたそうだ。
その男の名は、「
貧しかった寒村を特産品で復活させたこの男こそ、この虎斑の社に祀られた「駒師達の神様」であった。
【宗歩好み!TIPS】『駒書体「鵞堂」』
明治時代の仮名書道の大家であった小野鵞堂(1862~1922年)の書から作られた駒書体。
※本作はフィクションのため、江戸時代に存在しなかった駒書体もたくさん登場させています。是非ともこの機会に駒書体の魅力を知っていただければ勘甚です。
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