第六十二話 藍より青し

 ——壱——

 三日間に渡った天野宗歩と四宮金吾の対局に、とうとう決着がついた。


「負けました」

「ありがとうございました」


 駒台に手をつき投了の意を告げた金吾に対して、宗歩がすっと頭を下げる。

 二人は対局終了後、引き続いて感想戦を始める。

 

 感想戦――


 それは対局者が最初から一手ずつ振り返り、互いの読みを披露し合うことである。

 将棋において、実際の対局と同じくらいに重要なものだった。


「鳥刺し戦法には恐れ入りました。この戦法は四宮様の考案なのですか?」と宗歩が切り出す。

「いや。そうではない。江戸で一度見たことがあるのだ。それを俺が長年研究してきたに過ぎぬ」


 金吾が鳥刺し定跡を生まれて初めて目にした対局。


 それは江戸にいた頃に偶然見た、あの大橋宗英の対局だった。


 大橋宗英は、数多くの秘定跡を開発し、広く公開している。

「飛車先の歩交換に三つの得」

「角交換に五筋の歩を突くな」

 など、現代にも通ずる将棋の格言を見出したのも、この宗英だと言われている。



「そうでしたか……。鳥刺しまさに恐るべしですね。これまでの感覚を破壊された気分です」

「しかし、うまく端を突かれてしまったな」

「いえ、実際にあれが上手くいっていたかどうかは……」


「では、ここは……?」


 金吾は一番気になっていた自分の着手を盤上に復元してみせて、宗歩に意見を伺った。

 将棋指しにとって、一度指した将棋を復元するなど児戯に等しい。

 宗歩は、その盤面を見て、顎に手を当てながらしばし考えた。


「そうですね。率直に言ってその手には違和感を覚えました」


 宗歩は、そう言いながら盤面をすらすらと進行させて見せる。

 本譜には実際に現れなかったまったく別の展開が繰り広げられていく。


 そのすべての変化手順が、四宮金吾の不利になるような局面ばかりだった。

 宗歩は自らの読みの深さと広さを実際に示して見せることで、相手にそれが悪手であったことを理解させる。

 

「ふむ……。なるほど、すでにこの段階で悪くなっていたのか……」

「はい。そう思います」

「では、この△五六歩の対応は、どうすればよかった?」

「本譜の▲同飛ではなく、▲6六桂」


 パチン!


 宗歩は金吾の駒台に手を伸ばして桂馬を取り上げて、盤上に置く。


「これで、正直困っていたかと」


 宗歩は、その後の変化手順についても、盤上の駒を動かさずに符号だけで述べ始めた。

 金吾もそれに呼応するように頷く。

 目の前の二人の言葉だけのやり取りが、周囲の者にはさっぱり理解できない。

 だが、金吾は宗歩が推奨したその一手をまじまじと凝視し、最後に一つ溜息をついた。


「▲6六桂……か。いや……だが、それは……もはや俺の将棋ではないな」


 将棋には、「最善手」と言うものが確かに存在する。

 だが、いくら他人から「この手が最善手である」と示されても、その手を指す気がしないということもまた事実である。

 極端に言えば、そんな手を指すのであればもはや自分には将棋を指す意味がない。

 と、言ってしまっても良いだろう。

 

 手を思いつく、思いつかないという問題ではない。


 それは、美学の問題だった。


 なぜならば、人間はこの理詰めの世界に「意味」を見出せる唯一の存在だからだ。


 そう。


 人間にとっての最善手――


 それは決して一つではない。


「ですから四宮様ならば、おそらくこの手は指されないだろうなと」

「感じていたのか?」

「はい。うふふ」


 宗歩が、茶目っ気たっぷりに金吾に微笑んで見せる。


「そこまで読んだ上での、五六歩……か。まったく完敗だな」

 金吾もまた宗歩にそう言って破顔してみせた。

 

 将棋は、勝ち負けを争うものである。

 だが、ひとたびこの感想戦が始まれば、もはやそこに勝者も敗者も存在しない。

 互いに振り絞った知恵を惜しみなく共有し、手を取り合ってより高みへと目指すこと。


 将棋を指す者にとっての究極の目的——


 それは、無限にも見えるこの複雑な盤上遊戯において、「二人だけの真理」を共に見出すことにある。


 棋は対話なり――

 

 宗歩と金吾の二人は、まるで恋人の睦み事のように明け方近くまで語り合い続ける。

 その傍らでは、観戦者たちがひどい落胆と疲れの表情を見せたまま、この「飛燕の間」をぞろぞろと退出していった。


 ——弐——

(四宮金吾が、天野宗歩に負けてしまった……)


 蜂須賀斉裕は、決着を見届けた後、黙って一人で「飛燕の間」を退出した。

 佐々木征四郎も、この時ばかりは何も言わずにそのまま見送った。


(若……。さぞやお辛いでしょうな……。ですが何卒ご辛抱くださいませ)


「飛燕の間」を出た斉裕は、休息を取るためにと奥座敷へそのまま通される。

 部屋の真ん中には周到にも寝床が一つ用意されていた。

 その上にごろんと仰向けになる。


 しばらくの間、何も考えられずにただ呆然としていた。

 果てしなく永遠にも続くかに見えた、あの対局。

 天井を見つめながら、斉裕はその一部始終を思い出す。


 身体はすでに疲労困憊だった。

 だが生まれて初めて「真剣勝負」を間近で見たせいだろうか。

 一向に冷めやらぬ興奮の方が遥かに勝っていた。


 布団の上でしばらく横になっていると、その興奮が少しずつ収まってきた。

 すると今度は、言葉にならない悔しさがにじみ出てきた。


(くそぉ!)


 どん!


 畳を拳で叩きつけた。


(やはり阿波は、江戸には勝てなかった……)


 身体の内から激しく込み上げてくる無念の情。

 かっと目頭が熱くなる。

 気づけば斉裕の双眸そうぼうから、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていた。


(悔しい、悔しい、悔しい……。うあぁぁぁぁ)


 斉裕は、これほどまでの悔しさを感じたことは生まれて初めてだった。


 だが、この悔しさはどこから来ているのだろう?

 なぜ自分はこうも悔しがるのだろう?

 勇気を出して、ざわめき立つ己の心に向かって静かにそっと耳を傾けてみた。


(ああ、そうか……。そうだったのか)


 斉裕は、生まれて初めてその感情の正体を理解する。


 自分は四宮金吾を応援しているようでいて、実は自分のことしか考えていなかった。

 ただ己の運命を呪いながら、その腹いせに金吾にその期待を背負わせていたのだ。


 自分の心に耳を傾けることで、初めて得られる感情がある。


 人はそれを「恥」と呼ぶ。


(果たして余は、金吾の様に自分の運命に立ち向かってきたのだろうか……)


 応えは、否だった。


 ——それが、一番恥ずかしい。


 そう、初めて思えたのだ。

 思えた途端、心がいっそ清清しく軽くなってきた。


 斉裕がそのまま仰向けになっていると、襖をまたいだ廊下の先から人の声が漏れてきた。


「なんとも、あの四宮殿が……。まさか駒落ちで負かされるとはな……」

「ああ、それもまだ二十一歳の若造などに。まったくこれでは阿波の恥さらしもいいとこではないか!」


 観戦していた家中の者たちが、金吾の敗戦にぼやいているのだろう。


「やはり所詮は、下級武士の無段ということか」

「かもしれぬ。 うだつの上がらない者――」


 バン!


 突然、廊下に面した襖が一気に開き、大きな音を立てた。

 会話を遮られた家臣たちが、目の前に立つ人物を見て驚きのあまり目を剥いた。


「おい! 貴様たち!」


 斉裕が、物凄い剣幕で家臣達を睨みつけていたのだ。


「こ、これは若!?」

 

 家臣の一人が不味いことを聞かれたという顔をする。

 

「お前たち……、今、何を話していた?」

「い、いえ……別に……」


 しどろもどろになる家臣達に向かって、斉裕が激高する。


「良いか、金吾は最後まで懸命に戦ったのだ! それを……称えるのならまだしも蔑むなど、もってのほかだ!」

「……」

 

 家臣達は、そのままうつむいて沈黙し続ける。

 斉裕は追及するように責めたてた。


「陰口など、卑怯者のすることではないか!」


 斉裕に卑怯者とまで罵られて、家臣の一人がようやく口を開いた。


「申し訳ございません……。ですが若には、我々の気持ちがご理解できませぬ」

「なんだと!?」

「江戸に敗北することが、我々には心底悔しいのです。何百年もの間、ずっと虐げられてきた我々にとって今回の一戦は重要なものでした。ですが、負けてしまった今となっては、こうして陰でぼやくぐらいしか、憂さを晴らす方法を知らぬのですよ……」


 斉裕だけが自らの運命から目を背けていたのではなかった。

 家臣達もまた同じだったのだ。


「……お前たちの気持ち。今の余には良くわかるつもりだ」

「若……?」

「阿波が江戸に負けたこと、余も大層悔しい。だが、それにも増して無力な自分であることが一番悔しいのだ」

「……無力でございますか? 若が?」

「ああ、余は無力だ」

「さようでございますか……」

「戦いに負けたことは、この雪辱をまたどこかで果たせばそれで良いと思う。だが、余は無力のままではいたくない。もう何者からも逃げぬつもりだ」


 家臣達を見据える斉裕のその目には、迷いは見えなかった。

 将軍の子でありながら、蜂須賀の当主となるべき者。


 斉裕が決意したもの―― 

 それはどちらかを選ぶのではなく、そのどちらも選ぶ勇気を持つことだったのだ。

 

「だから金吾のことを悪く言うな。一生懸命に戦った者のことをそんなに悪く言うな。頼む」

「若……申し訳ございませぬ。我々が悪うございました」

「考えようによってはあれほどまでに江戸の将棋師を苦しませることができたのだ。だから……お前たちも、もっと自信を持て!」

「は、ははぁー!」


 そこにはもはや、悩める十六歳の青年など、どこにもいなかった。


 今「将軍の子」は、徳島藩の主として自覚を持つに至ったのだ。


 古代中国の賢人はこう言った。


 ——学は以って已むべからず。青は藍より出でて、藍より青し。


 この故事は、遠い将来において本当に現実となる。



 およそ三十年後の文久二年(1863年)――

 第十三代徳島藩主の蜂須賀斉裕のもとに、江戸からある辞令が下されたのだ。


「蜂須賀阿波守斉裕を幕府陸軍総裁に任ずる」


 わずか六歳でこの阿波に封じられた「将軍の子」蜂須賀斉裕が、とうとう江戸幕府の中枢へ招聘されることが決定したのだ。

 斉裕は二十二歳で徳島藩主を継いでから、様々な藩政改革をこれまで成し遂げてきた。

 圧政を強いた先代の負債に苦しみながらも、彼は根を上げることなく辛抱強く家臣達や領民を説き続け、そして戦い抜いた。

 その中でも特筆すべきものが、徳島藩の軍制の改革である。

 阿波の国は太平洋に広く面している。

 そのせいで徳島藩は、異国船の漂着を他藩よりも多く経験していた。


(この巨大な黒船の存在は、近い将来において必ずや我が国の脅威になるだろう) 

 斉裕はいち早くそれを見抜き、西洋軍備の研究に長年の間勤しんでいたのだ。


 名も無き辺境の外様藩にも、必ずやその機会は訪れる。


 来るべき一戦に備えて――

 

 この頃になると、幕府も頻繁に江戸湾に出没する異国船の到来に危機感を生じさせていた。

 遅まきながらも、全国の諸藩に対して湾岸防衛を幕命として発行している。


 徳島藩はそれに呼応するかのように、他藩に先んじて海防軍事の近代化を着々と進めていた。

 藍の貿易を活発化させて何十年もかかって藩財政を立て直し、潤沢な軍資金を確保した。

 斉裕は、これを元手に藩内の要衝に複数の砲台を設置する。

 時代遅れの旧式装備から英国式軍制へと抜本的に改め直すことに成功したのだ。


 その斉裕の先見性は、当時幕府の防衛政策をけん引するほどまでになっていた。

 そうして、とうとうこの年。

 四十二歳になった蜂須賀斉裕は、幕府軍部の頂点、「初代陸軍総裁」として江戸に迎えられることになったのだ。

 二十二番目の将軍の子として生まれた斉裕にとって、他の兄弟達をごぼう抜きするほどの抜擢である。


 そして、斉裕が幼い頃から育った阿波の国から江戸へと旅立つ日がやってくる。


 徳島城下から撫養の港へ。


 あの日と変わらない爽やかな青空の下、紺碧の鳴門の海に浮かぶ軍船の上。


 海上には、かつてあの者と一緒に小船で渡った小島と渦潮が見えた。


 甲板に立った斉裕は、まぶしく照らす太陽を避けるように手をかざす。

 

 空を見上げた。


 ヒューッ。

 

 紅い駒鳥が、大空を自由に滑空していた。


(あっ!)


 その後をもう一羽。


 名も知らぬ蒼い羽の鳥が、追尾するように駆け巡っていたのだ。


(金吾か!)


 サァーッ。


 斉裕の向かう海の先、そのずっと先へ、二羽の鳥が飛翔する。


 そのまま霞んで消えていった。


 斉裕が、自分の手の中をじっと見つめる。


 青藍の羽織袴を身に付けた彼のその手には――


 一冊の書物が収まっていた。


 そう。


 その書物こそ——

 

 若き日に四宮金吾と一緒に眺めた、あの異国アイルランドの書物であった。


                        「第十一章 四宮金吾 完」

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