第六十一話 戦乙女

 夜八時を回り、対局場「飛燕の間」はすでに暗闇に包まれていた。

 行灯の明かりに照らされた四角い盤上を、天野宗歩と四宮金吾が凝視している。

 

 バチン。

 

 ▲3三歩成!

 

 およそ六時間の長考の後。

 その気の遠くなるような長い逡巡の末。

 四宮金吾が、天野宗歩の端攻めを手抜くことをとうとう決意する。

 

(この端攻めは、間に合わぬ。虚兵だ)

 

 金吾は己の研究を信じて、果敢にも攻め合いを選択したのだ。

 

 △同 角 ▲2二歩 

 

 九筋からの宗歩の端攻めを、ぎりぎりまで引きつけて反撃するつもりだった。

 その一方で、金吾は二筋方面からの仕掛けを見せる。

 

 △9六歩

 

 宗歩も金吾のその読みに呼応するかの如く、端の歩を一歩前進させる。

 互いに絶対に譲らない。

 どちらの攻めが速いのか。

 それはとどのつまり、どちらの読みが勝っているかを意味している。

 

 ▲2一歩成!

 

 宗歩の桂馬をぼろっと奪い取る金吾の強手。

 だがその手を見てもなお、宗歩には動じた様子が一切見られなかった。

 今度は金吾の方が疑心暗鬼になる番だった。

 

(この者は、いったいどれほどまでに深く読んでいるのだ……)

 

 △4四角 ▲7六銀 △3三歩 ▲1四歩

 

 金吾が、さらに宗歩の左香車のない一筋に手をつけ始める。

 これで宗歩の左翼陣はすでに崩壊しつつあり、予断を許さない状況になる。

 

 宗歩の端攻めが速いのか、それとも金吾の攻めが届くのか。

 その状況は一進一退。

 すでに夜更けともなるこの時間になってなお、「飛燕の間」を立ち去る者は誰一人としていなかった。

 皆がこの対局の行く末に固唾を飲みながら、じっと見守っているのだった。

 

(金吾、そうだ。お前の研究を信じ続けろ。鳥刺しを信じろ!)

 

 蜂須賀斉裕が、心を込めて金吾の勝利を祈る。

 

 ここで、宗歩が鬼手を放つ。

 

 バチン!

 

 △5六歩

 

 金吾の飛車の横利きを遮断する「歩」である。


 一歩千金。


 たった一つの歩で戦局をひっくり返す。


 それが、天野宗歩である。

 

 「ぬぅ・・・…」

 

 この一見悩ましくも怪しい手筋に、金吾が再び盤上に沈みこんだ。

 「歩のただ捨て」である。

 もしこの歩を金吾が飛車で取れば、二筋三筋方面への飛車の攻め筋が一旦逸れる形となる。

 それは——金吾の攻めの速度が緩むことを意味していた。

 だが、この歩をこのまま放置すると飛車の横利きが遮断されてしまう。

 それは——宗歩の端攻めに金吾が耐えられないことを意味していた。

 

 正解は二つに一つ。

 

 金吾は、次の一手こそが勝敗を決める岐路となることを、瞬時に理解する。

 

 すーっと息を飲んだ。

 

(まさに、ここが正念場か……)

 

 少しだけ盤上からその顔を上げて、宗歩の表情を垣間見た。

 驚くべきことに、彼女は笑っていたのだ。


 まるで将棋を慈しむように、その美しい微笑みを盤面に落としているのだ。

 金吾の存在などまるで忘れているかのように。

 このひりひりする局面を宗歩はむしろ楽しんでいる。

 

 金吾は、宗歩のその狂気じみた対局姿にいっそ神々しさすら感じてしまった。

 もはや「鳥籠に封じられた鳥」などではない。 

 そう。

 まさに、それは「棋聖」とも呼ぶべき存在だった。

 

(うふふ。さぁ、この戦いを最後まで楽しみましょう)

 

 なぜだろうか。

 この瞬間、金吾はかつて斉裕から教わった、ある異国の神話を突然思い出す。

 異国には神に仕える巫女でありながら、勇敢に戦う戦士がいたそうだ。


 その戦う姿は、神々しくあり、また美しくもある。

 

 人々は彼女たちをこう呼んだ。

 ——戦乙女ヴァルキリー


 将棋とは、男だけが指すものでは決してない。

   

(なんという……。お前はこの局面すらも喜んでいるというのか……。ならば!)

 

 バチィン!

 

 ▲同 飛

 

 金吾が5六の「垂れ歩」を飛車で取った。

 先ほどまでの攻め合いではない。

 飛車の横利きを維持したままに、徹底的に宗歩の端攻めを受け切る方針へと変更したのだ。

 

 聖剣を横向きに構えて、来たるべき宗歩の猛攻を真正面に迎え撃つ。

 

 △9七歩成!

 

「来る!」

 

 ヒュン! ヒュン! ヒュン!

 

 ▲同 香 △9六歩 ▲同 香 △同 香 ▲9七歩

 

 宗歩の香車やりによる立て続けの猛攻を、金吾が必死にその剣で食い止める。

 

「ぐおぉぉぉ」

 

 ガキィーン!

 

 槍と聖剣が真正面から衝突した瞬間、けたたましい金属音が鳴り響いた。

 

 「おお、受け止めたか!」

 「宗歩の端攻めが止まったぞ!」

 「耐えた。金吾の勝利だ!」

 

 観戦者達が意気揚々と気勢を上げ始めた。

 

 だが、その瞬間――

 

 バチン!

 

 △6四香打

 

 なんと、宗歩が二本目の香車やりを六筋に打ち込んだのだ。

 

 「な!? なんだと……」

 

 予想外の一手に、たまりかねた金吾が驚愕の声を上げてしまった。

 だが、それも無理はない。

 九筋方面とは全く別の筋に、突如として二本目の槍が出現したのだから。

 

 今まさに、紅蓮の衣に身を包んだ天野宗歩の左右の手。

 か細い華奢なその両手に、二本の香車ランスがしっかりと握られていた。

 

 双槍の構え。

 

 チャリ

 

 ▲5五銀 

 

 金吾が、刃こぼれした剣を両手で握りしめて、ぐっと腰を落とす。

 

(この剣が持つか……。いや、そもそも俺自身が耐えられるのか……)

 

 宗歩が、膝の上で人差し指を小刻みに叩き始める。

 

 たん・たん・たん。

 

 盤面を凝視したままに、最後の寄せまでしっかり読みを入れているのだ。

 その読みに合わせるかのようにして、無意識に指が調子リズムを取っている。

 

 タン・タン・タン♪

 

 その姿は、まるで華麗に舞い踊る剣舞のようにも見える。

 軽快に歩調ステップを踏み重ねながら、器用にクルクルと双槍を回転させる宗歩。

 

 まさに死の舞である。

 

「はぁっ!」

 

 ブン!

 

 △4五銀 ▲4四銀

 

 宗歩が目一杯の力で、右槍を横薙ぎする。

 それを回避しようとして、金吾の体が思わず仰け反った。

 

 シュン!

 

 △5六銀 ▲5三歩成 

 

 金吾の体勢が大きく崩れたのを見て、宗歩がいきなり跳躍ジャンプする。

 

「なに!?」

 

 空中でくるりと小さな体を一回転させ、その勢いに乗って左槍を一直線へと伸ばす。

 金吾の心臓を貫こうとする突撃だった。

  

 ガキン!

 

 金吾の剣が、宗歩の連撃をぎりぎりの所で受け止めた。

 だが防戦一方の金吾に、限界知らずの宗歩の攻め手がどんどんと加速する。 

 

 △5七歩 ▲6八金寄

 

 パリーィン!!

 

「ぬあぁ!」

 

 金吾の聖剣ディフェンダーが、真っ二つに折れてしまった。

 これまで双槍の挟撃を耐えてきたが、ここに来てとうとう限界に達したのだ。

 

好機チャンス!)

 

 宗歩の目が紅色に一気に染まる。

 

 その瞬間だった。

 

 バチィィィィン!

 

 △9八飛

 

 金吾の玉将の脇腹近くに、新たな「飛車」が打たれたのだ。

 

「ぐぬぁ!」

 

 金吾の顔が途端に苦しそうな表情へと変わる。

 至極当然である。

 上空から降り注ぐかのような飛車と香車による槍の雨。

 さらに金吾の本陣を横串に突き刺すかのような飛車の閃光。

 

 縦横無尽の四本槍による猛撃に、金吾の四肢は今や貫かれ、引き裂かれようとしていた。

 

(あああ……。これは、まさに神の槍だ……)

 

 この局面を観戦していた蜂須賀斉裕が、あの時のことを思い出した。

 金吾と一緒に見た、あの異国の武器に関する書物。

 その書物には、遥か昔から異国アイルランドに伝えられてきた神々の武器が記されていたのだ。

 

 神が創りし槍――

 

 遥か彼方、世界の果てにあるという「紅の海」。

 その真紅の海に住む獣の骨で神が作ったとされる一本の槍。

 名もなき英雄の手に渡ったその槍は、幾千もの閃光を雨のように降り注がせた。

 その力は凄まじく、神をも滅ぼすほどだったとすら、その書物は伝えている。

 

 そう。

 

 その槍の名こそ――槍神ゲイボルグ

 

(も、もう無理だ……。余は、もう見ていられない!)

 

 だっ!

 

 上座で観戦していた斉裕が、突如席を立ちあがって「飛燕の間」を飛び出した。

 ずっと側についていた佐々木征四郎が、慌ててその後を追いかける。

 

「わ、若! どこへ行かれるのですか!?」

 

 征四郎が部屋から飛び出してみると、廊下の片隅で斉裕が立ちすくんでいるのが見えた。

 その顔は悲痛に染まっており、目には涙すらも浮かべている。

 

「征四郎……。余は、もう金吾の苦しむ姿をこれ以上見とうない……」

「若……」

「余は、ほとんど江戸を知らぬ。余はこの阿波で育ったのだ。だから、余はれっきとした阿波人だと自分では思うとる」

「そ、そうでございます。若はこの蜂須賀の世継ぎでございますぞ!」

「だからこそ、金吾が負けるところを見るに忍びないのだ。四宮金吾は……余が誇る家臣なのだから……」

 

 二人の間に、しばらく沈黙が訪れた。

 

「……若。もしそうであれば、すぐにお戻りくださいませ」

「なに?」

「四宮金吾を誇り高き家臣とお思いであるならば! 何卒、彼の最後の瞬間をお見届けくださいませ! なにとぞ!」

 

 征四郎がその場に膝をついて、斉裕にそう進言した。

 これまで斉裕のわがままをずっと黙って聞いてきた征四郎。

 何時いかなる時も斉裕に楯突くことなどなかったその彼が、この時ばかりは違っていたのだ。

 

 斉裕もまた征四郎の姿を見て、彼の真意を汲み取る。

 

 蜂須賀は、確かに戦国の世を生き残ったのかもしれない。

 だからこそ外様とは言え、こうして今も家格を維持できている。

 

 だが、果たして本当にそれで良かったのだろうか。

 

 そう、あのとき——

 

 天下分け目の戦で散っていった数多の西軍の将達。

 

 彼らとは違って蜂須賀はなぜ西軍に赴かなかったのだろう?


 秀吉の最も古き家臣だったはずの蜂須賀家が、なぜ?

 

 それは……ひょっとすると生き残るための「逃げ」ではなかったのか?

 

 もしも自分こそがこの阿波の大将と言うのならば、今こそ江戸に立ち向かおう。

 

 それこそが——蜂須賀家当主としての贖罪なのだ。

 

「征四郎よ……、確かにお前の言うとおりだな……。負け戦の戦場から大将が早々に逃げ出すなど、恥さらし以外の何者でもない」


 斉裕が真っ直ぐに征四郎を見つめた。


「よし、余はもう逃げぬ! 最後まで金吾の勝負を見届ける」

「若!」

「だが死にゆく者をただ何もせず見ているのは、あまりにも愚かだと思う。無駄かもしれんが家中全員で最後まで金吾を応援することにしたい」

「ははぁ!」

 

 斉裕が征四郎とともに「飛燕の間」に戻ってきた。

 その間も金吾は、盤面に顔を落としてずっと考え続けていた。


 二日目の対局開始からすでに、三十時間ほどが経過していた。

 

 金吾は口を半開きにしたまま、「ああ」とか「うう」と言葉にもならない呻き声を上げている。

 すでに疲労困憊しており、鮮明だったその思考ももはや混濁しているのだろう。

 ひょっとすると意識があるのかどうかすら、もうわからない。

 将棋に詳しくない斉裕の目から見ても、金吾の状況は満身創痍そのものだった。

 

 だが、四宮金吾に諦めた様子は、微塵も無かった。


 彼は、それでもまだ闘おうとしているのだ。

 

「金吾! がんばれぇぇぇぇ!!」

 

 斉裕が目が覚めるくらいの大きな声量で声を張った。

 大音量の声援が「飛燕の間」に一気に轟く。

 主君の声に、家臣達が一瞬驚きの表情を見せた。

 

「おい、何をしている! 皆も若のように四宮殿に声援を送るのだ!」

 

 たたみ掛けるようにして、征四郎が家臣達に向かって発破をかけた。

 

「お……、おお! そ、そうだ、四之宮殿、諦めるな!」

「おい、金吾! ここまで来たんだぞ! 最後まで粘れ! 頑張れ!」

「鳥刺し名人! 気合いを見せろ!」

 

 周囲の熱い声援に、天野宗歩の方が動揺する。

 

 だが、すでに金吾の手から聖剣は失われていた。

 飛車と香車の合計四本の槍による猛襲。

 もはや勝ちはないように見える。

 

 ▲7七玉

 

 ズシ……。

 

 それでも金吾は、雨のように降り注ぐ閃光の中を、かいくぐるように宗歩に立ち向かう。

 

 △7四歩 ▲5四角 △7三銀

 

 あれほど美しかった青藍の衣装は、すでに血まみれで真っ赤に染まっていた。

 

(せめて、あと一太刀……)

 

 慢心創意の金吾が、不意にその右手を見た。

 気づくと見覚えのない一本の刀が、その手に握り締められていたのだ。

 すでに刃こぼれもひどく、頼りない無名の刀だった。

 

 それは、「と金」。

 

 無段。

 

 田舎育ち。

 

 下級武士。

 

 何もない、四宮金吾はまさに「歩」だった。


 「歩」に生まれたことを恨んでも仕方がなかった。

 

 だが、この「歩」はいつの日か、強力な「と金」に成りうる。

 

 この盤上の「と金」こそが、四宮金吾そのものだった。


(ふふふ、まさかその「と金」がただの「歩」にしてやられるとはな……)

 

 金吾が自嘲染みた薄ら笑いを浮かべつつ、最後の力を振り絞る。


「ふん!」


 その一太刀を宗歩に向かって振りかざした。

 

 ブン!

 

 ▲6三と

 

 金吾が「と金」を、宗歩の玉将の目の前まで寄せる。

 もしも宗歩がこの「と金」を守りの金将で取れば、▲同馬として逆転していたかもしれない。

 だが、すべてを見切った宗歩は、その刃をかわそうとはしなかった。

 いやむしろ、一歩前へと金吾の方に近づいていく。

 

 △7五歩

 

 宗歩は自分に向けて振り下ろされようとしている刃を真っ直ぐに見据える。


 金吾がそのまま刀を一気に振り下ろした。

 

 ザン!

 

 ▲7三と

 

 銀将を取られながらの王手である。

 

 グサァ!

 

 宗歩の肩にその刀が刺さり込む。

 金吾の体重がずっしりとそこに圧し掛かり、そのままずぶりと彼女の細身の身体に突き刺さっていく。

 

「ぐあぅ!」

 

 一瞬苦悶の表情を浮かべる宗歩。

 だがその瞬間、だらりと金吾の右手がその刀から手離された。

 宗歩は、刀が肩に刺さったままの状態で、力尽きた金吾の身体をぐいっと手繰り引き寄せる。

 

 △同 桂 ▲7五銀

 

 そのまま金吾を優しく抱きしめた。

 金吾もまた何かを悟ったかのように、彼女の胸にもたれかかりじっとしている。

 

「はぁ……、はぁ……」

 

 青色吐息の中、それでも金吾は宗歩に何かを告げようとする。

 

「ううぁぁ……」

「もう、もういいんですよ。これで終わりです。ゆっくり休んでくださいね」

 

 ブスリ!

 

 △6七香成

 

 金吾の脇腹に。

 

 宗歩が右手の槍をずぶずぶと突き刺していく。

 

「ああああああぁ……」

 

 ▲同 金 △5四飛 ▲7四桂 △7二玉 ▲5五銀打

 

 金吾ががっくりと膝をついた。

 

「と、とどめを刺せ……」


 △6七銀成 ▲同 玉 △5八角 ▲5六玉 △6五金 ▲4六玉 


「……………………はい」


 △4五歩 ▲3五玉 △6九角成 ▲5四銀


 宗歩が、金吾の腹に刺さったままの右手の槍を手放す。


 そうして、一歩間合いを取るように後ろへ引いた。


 空間から新たな槍を手にした宗歩は、金吾の首を目掛けて——


 一気に横薙ぐ!


 ザン!


 最後は、十一手の即詰みだった。

 

 △3四金 ▲2六玉 △2八飛成

 まで、百十五手にて天野宗歩の勝ち。

 

 対局終了時刻は、明朝三時過ぎ。


 三日間にも及ぶ二人の長い死闘が、こうして終わった。

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