後日譚 氷川清話
「青は藍より出でて、藍より青し。氷は水これをなして、水より寒し」
元治元年(1864年)七月。
天野宗歩と四宮金吾の対局から約三十年後のことである。
江戸の大名屋敷が連なるこの八丁堀に、徳島藩蜂須賀家の屋敷もあった。
蜂須賀斉裕、昨年に江戸幕府の初代陸軍総裁に就いたばかり。
普段はこの屋敷の中で静かに暮らしていた。
安政の大獄以降、世の中は相当にきな臭くなっていた。
幕末の動乱の始まりである。
そもそも「尊皇攘夷」と「公武合体」論争は、海防政策にその端を発している。
斉裕は、先代将軍の子とはいえ庶子であり外様藩主だった。
こうして幕府に必要とされたのも、皮肉なことにその海防軍事の経験を買われてのことに違いない。
その証拠として斉裕のもとには、毎日のように多くの幕閣が訪れては日々激しい議論を重ねていた。
この日も、斉裕は多忙を極める執務の合間に、座敷で休息をしていた。
そこに、ひとりの男が訪ねてきたのだった。
「御免」
壮年に達したかに見えるその男が、自室で書物を眺めていた斉裕に向かってそう声をかけた。
斉裕は、落としていたその顔をゆっくりと持ち上げる。
男の背丈はやや小さかった。
だが、その所作には一切の無駄が無く洗練されている。
身体が鍛え抜かれていることが、容易に伺い知れた。
力強い両の眼は、その男の意思の強さをはっきりと物語っている。
「
「総裁、何を読まれているのですか?」
「これか? ふふふ」
斉裕はそのまま答えずに、書物を安房守と呼んだその男に手渡した。
男は斉裕の目の前に正座をしたまま、その本を受け取る。
大事そうにぱらぱらと一枚ずつ紙をめくっていった。
「ほう、異国の書物ですか。しかもかなり古い。大層珍しいものをお持ちでございますな」
興味深く本を眺める男を、斉裕はそのまま黙って見ていた。
この男は、斉裕と年齢が二つほどしか違わなかった。
生粋の江戸旗本の生まれで、紆余曲折あって今は幕府海軍の要職に就いていた。
斉裕はこの男の始めて見たときから、その名前を一字取って「江戸の麒麟児」と高く評していた。
先入観や偏見にとらわれない見識、それに忌憚がない歯に衣着せぬ物言い。
今のような乱世においては、このような男が絶対に必要とされるはずだった。
男の名は、勝麟太郎という。
後年に蜂須賀斉裕の後を継ぎ、将軍家以外から幕府陸軍総裁に就くことになる傑物である。
勝は、海防政策に携わってきた斉裕を頼って、こうして暇を見つけては屋敷を度々訪れていたのだ。
この二人は特に気が合ったらしく、頻繁に会合した。
特に最近では、世間で声高々に述べられることが多い攘夷論について議論を交わすことが多かった。
咸臨丸に乗って実際に米国を見てきた勝隣太郎にしても、阿波国の海防整備を通して西洋技術に精通していた蜂須賀斉裕にとっても、攘夷論が現実的でなく稚拙な感傷にすぎないという点においては完全に一致していた。
そんな二人は、幕府がそう長くないことについても、やはりまた完全に一致していたのだった。
「ところで……。おい、
斉裕はそう言って、中庭の方向を指差した。
勝が斉裕の部屋に入ってきたときからずっと、中庭で静かに待機する浪人風情の男が一人いたのだ。
「ああ、あの男ですか。先日私を斬り殺そうと氷川の屋敷にやって来たので、そのまま説き伏せて弟子にしました」
信じられないようなことをあっさりと言ってのける勝に、斉裕が呆気に取られた顔をする。
「……なんと。まったくお前は面白い男だな。それで一体何者だ?」
「本人の話では北辰一刀流の使い手で、土佐の脱藩士だそうです。用心棒にも良いかと」
確かに最近は特に物騒な世の中になっていた。
幕府の高官がいつどこで斬られるかわからない、そんな時代に変わっていたのだ。
「土佐者……。そうか、それでは余の故郷ともずいぶん近いな」
「ああ、そう言えば斉裕様は阿波でございましたな。土佐とは隣国の」
「そうだ、懐かしい。四国の青い海を思い出してしまった。おい、勝安房よ。余は是非あの者と話がしてみたい」
「結構ですよ。おい、竜馬! こっちに入って来い。お殿様がお呼びだ!」
勝が、庭にしゃがんでいた若い男に向かってそう呼びつける。
わざわざ斉裕のことを「お殿様」などと勿体つけて言うあたりが勝らしい。
男が斉裕とどう対峙するのか、ここで見極めようとしているのだろう。
竜馬と呼ばれたその男は、部屋の中にずいと入ってきて、そのまま静かにおし黙っていた。
一つに束ねた癖のあるもじゃもじゃの髪の毛。
それを乱暴に手で掻き毟りながら、こちらを真っ直ぐに見据えている。
その身なりはお世辞にも良いものとは言えない。
だが、その風貌は泰然自若。
それでいて、態度が堂々としているのだ。
幕府軍部の頂点にいる斉裕を前にしながら、それを一向に気にしていない様子だった。
——天衣無縫
斉裕はこの男の顔を見た瞬間に、なんだか懐かしい覚えがした。
(ああ、そうか……。この男はどこか、あの四宮金吾に似ているのだ)
その顔や姿というよりは、むしろその雰囲気。
あの生涯無段を貫いた「鳥刺し名人」を思い出させたのだ。
「おい、お前は土佐の者らしいな。名は?」
「坂本竜馬」
「竜馬……。ははは、まるで将棋の駒のような名前だな」
天野宗歩や四宮金吾と同じで将棋の駒を冠する男。
斉裕は、この男に対して少しずつ奇縁を感じていた。
「はぁ。わしの姉貴が将棋好きだったようじゃき。父に頼みこんでそう名づけてもらったそうじゃ、いや、です」
「ほほぉ、将棋が好きな女子とは。なんとも珍しいな」
「なんでもわしが生まれたすぐ後に、四国の名人と江戸の名人が勝負したそうで」
「な……?」
「それを知った姉が一度名前を付けたのに、ぜひにもそれにあやかって弟には強い駒の名前をと」
竜馬の話を聞いて、斉裕がはっとする。
「……お前、生まれはいつだ?」
「天保六年の十一月」
天野宗歩と四宮金吾の対局の約半年前だった。
「そうか……」
(ああ、なんということなのだろう)
斉裕は天を仰いだ。
たかが将棋、されど将棋。
一局の将棋が、こうして人の心を動かすことさえあるのだ。
(金吾よ……。お前の将棋は、あの対局は決して無駄ではなかったのだ)
斉裕は、ふと気になったことを竜馬に尋ねてみた。
「して、竜馬よ。お前は将棋を指すのか? やはり将棋指しを目指しているのか?」
「いえ、それがさっぱり」
「なんだ、そうなのか」
斉裕は、少し落胆した表情を見せた。
「わしには勝ち負けを競うのが正直好かんぜよ」
竜馬は淡々と話し続けた。
「剣の道も同じぜよ。わしは、勝先生に教わってようやく目が覚めた。人を殺めるのではなく、何かもっと別の方法で人を活したい、今はそう思うとるんぜよ」
これを聞いて斉裕は、わが意を得たりとする。
「そうか、ではよく聞け。今からお前に余が大事な話をしてやろう」
「はぁ」
竜馬が、斉裕に向かって姿勢を正す。
勝もまたその教えを請うべく傾聴の姿勢を取った。
「よいか、竜馬とやら。将棋にはな、結局のところ勝者も敗者もおらんのだ」
斉裕の弁を聞いた、竜馬が素っ頓狂な顔をする。
何を考えているのか表情からすぐわかる男だな、と斉裕は思った。
それが愚鈍でなく、むしろ好感にすら思えてしまう。
この男の魅力なのだろう。
「じゃが」と、竜馬が反論しようとすると、
「まぁ、とにかく聞け。将棋には決着がついた後に『感想戦』というものが必ずある」
「感想戦……」
「勝負が終わった後に互いに腹を割って話し合う。本当の最善手を一緒に見つける大事な仕事だ。将棋を指すことにおいて、それこそが最も肝心なことなのだよ」
斉裕は、かつての天野宗歩と四宮金吾の対局を思い出していた。
二人ともすでにもうこの世にはいなかった。
だが、彼らが戦ったあの時の棋譜はしっかりと残されている。
対局後の感想戦で、二人が見つけ出した最善手とともに。
棋譜は、棋士たちの魂だ。
その魂は永遠にこれからも語り継がれていく。
その中で人々の心と共鳴し、振るわせていくに違いない。
「そうか……。わしゃ、てっきり将棋ちゅうのは相手を負かすもんとばかり考えておったぜ」
「よいか、坂本竜馬よ。将棋では、昨日までの敵が今日の友となる。取った駒は憎むべき捕虜や人質でない。新たな心強い見方なのだ」
「取った駒は敵ではなく、味方……」
「そうだ。もしも今、お前が敵と考えている者も、明日になれば味方に変わっておるかもしれん。そのことをゆめゆめ忘れるではないぞ」
「はい」
徳島藩は、確かに幕末の歴史において、その名を残しはしなかった。
極端な倒幕や佐幕に与しない斉裕が、藩内の意見を一つに纏められなかったことがその理由の一つにあるとされている。
だが――ここにたった一つ、はっきりとした事実がある。
阿波は、明治の世になるまでの間、長州や薩摩、会津のようにその地を戦場に晒すことが無かったということである。
蜂須賀斉裕は、英雄としてその名を歴史に残すことよりも、最後まで故郷と祖国の本当の平和を求めて戦っていたのかもしれない。
勝者も敗者もない理想を求めて——
「宗歩好み! TIPS」
坂本竜馬は、勝海舟から最初「飛車角の化け物ような名前」と評されていた。
そして竜馬の妻の名前は、「お竜」と言う。
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