第六十五話 必殺技

「ひっさつわざぁぁぁぁぁ!」


 ごろごろごろごろごろごろごろーーーーーー!


 阿波脇町にある旅籠の二階。

 その廊下の上。

 天野宗歩が、物凄い勢いでそこを転がり回っている。

 勘違いしないで欲しい。

 彼女のこの奇行そのものが『必殺技』、なのではない。

 この回転は、彼女のはちきれんばかりの衝動がそうさせているだけに過ぎない。


 一体何事かと、宿の主人が階下からその様子を覗き込んできた。

 天野宗歩は長期間滞在してもらえる上客。

 それだけに、主人としても多少のことには目をつぶってやるつもりだった。

 だが、さすがに廊下を転がり廻る将棋指しというのは今まで聞いたことがない。

 ひょっとして天野宗歩は将棋の指し過ぎで頭がおかしくなってしまったのか、と宿の主人はむしろ心配にすらなってきた。

 そんな不安げな表情を顔に浮かばせる主人に向けて、弟子の市川太郎松が階段の手すりからひょっこりと顔を見せた。


「どうもすんません。こっちは大丈夫ですから」

 

 と、太郎松が主人に対して申し訳なさそうに頭を下げる。


「はぁ、そうですか。でも他のお客様もいらっしゃいますので、何卒お静かにお願いしますね」


「うぉぉぉぉぉ!! 私も必殺技が欲しいぃぃぃよぉぉぉ!!」


 そんな主人の忠告など聞く耳を持たぬとばかりに、宗歩は激しく横転しながらそのまま廊下のどんつきにぶつかった。

 その反動を活かして、今度はごろごろと太郎松のいる方へ戻ってくる。

 

 もうさっきからずっとこの状態だったのだ。

 正直、此奴はこうなるともはや手が付けられない。

 太郎松は宗歩のことを昔からずいぶんと知っている。

 将棋の天才でありながらも、その性格は激しいものがある。


 だが、ここは公衆の面前。

 そうも言っている訳にはいかないのだ。


 ガシ!


 こっちに転がってきた宗歩の首根っこを、太郎松がその両手でぐわしと押さえつける。


「ぐえ!」


 足で踏んづけられた猫みたいな奇声を宗歩が発する。


「いい加減にしろ! 得意戦法ならいっぱいあるんだろ? もうそれでいいじゃねぇか」


 天野宗歩はこと将棋に関しては大天才。

 居飛車、振飛車なんでもござれ。

 器用に何でもこなすその姿は、まさに才能の固まりと言って良いだろう。

 だから、これ以上の『必殺技』なんてお前には必要ないんじゃないか、と太郎松はそう言いたかったのだ。


「違うのよ! 太郎松! あんた全然わかってない! 得意戦法とかそういう地味なやつじゃなくて、もっとこう……なんだ……、あ、そうそう! そうよ! 『天野宗歩と言えばこれ!』、みたいなそういうやつが欲しいのよ!」

「『みたいなそういうやつ』っていったい何だよ……。ぜんぜん意味わからんぞ」

「あのね、寅吉がずっと前に言ってたの。『宗歩さん、これからの時代、皆の人気者になるには必殺技が絶対に必要デゲスゼ』だって!」

「あいつの言うことを鵜呑みにすんじゃねぇよ! どうせまた適当な戯言か狂言に決まってんじゃねぇか!」


 寅吉というのは大坂にいる宗歩の弟子で、平居寅吉のことだ。

 南蛮から漂流してきた異国人なのだが、将棋が好きになって今では大坂の町に滞在(潜伏?)している。

 彼は古今東西の物語が好きなようで、これまでも宗歩に暇を見つけては色々あることないことを吹き込んでいたのだった。


 そもそも、なぜ宗歩がこれほどまで「必殺技」なるものに執着しているのかというと――


 四宮金吾との対局に辛くも一勝した宗歩は、その三日後に再び第二局目を迎えていた。

 その結果も、右香車落ちで宗歩の勝ち!

 こうして四国名人との対決は天野宗歩の二連勝で幕を閉じる、はずだった。

 そう、はずだったのに……。


「四宮様、私でよければ江戸の将棋家に『免状』を推薦いたしましょうか?」


 終局後に宗歩が金吾に向かってそう提案したのが、そもそもの事件の発端だったのだ。


 ——四宮金吾を、大橋本家の五段格へと推薦しても良い。


 この提案は、金吾が五段の宗歩と「同格」に値するということを意味していた。

 在野棋士が将棋家の門人を通じて、段位免状を発行してもらえるよう依頼してくることは多い。

 門人の方も斡旋に応じることはままとしてある。

 なぜなら、将棋家と名人のみが発行できるというこの『段位免状』。

 それは将棋家の重要な収入源だったからだ。

 正直なところ、幕府から頂戴できる俸禄というのは実際大したことはない。

 なぜならば、将棋家の身分は武士ではなく御用町人扱い。

 それでも貰えるだけありがたいじゃないかと言うかもしれない。

 だが二十石二十人扶持というその俸禄の低さの割には、将棋家に課せられたお役目は相当に負担が大きいものだった。

 日本全国の支部を運営して在野の棋士を監督したり、度重なる幕府の行事に参列を求められるなど財政的には到底不可能な話だったのだ。


 だからこそ、段位免状の発行は多額の謝礼金と引き替えに行われるが常だった。


 天野宗歩は、これまで地方で巡業している最中に、段位免状の斡旋を依頼されてもやんわりと断ることにしていた。

 大坂で勝手に弟子を取ってしまったこともあり、伊藤名人とむやみに接触することをできるだけ避けたかったからだった。

 だから、少なくとも宗歩にとっては今回の金吾への提案は異例中の異例の対応だった。

 それほどまでに、天野宗歩が四宮金吾の棋力を高く評価している証だったのだ。

 

「金吾よ、これは名誉なことではないか。大橋本家の五段格であれば他藩の将棋指南役にも決して見劣りをせぬぞ。なに将棋家への謝礼金を心配しているのなら、我々がなんとか工面しても良いのだぞ」


 対局を観戦していた徳島藩の家老の一人がそう金吾に促した。


「いえ。せっかくではございますが、拙者は辞退させていただきます」

「な、なんだと!?」


 その言葉を聞いて宗歩も家老も驚く。


「な、なぜだ? このような機会めったに無いのだぞ!」


 ご家老の真っ当な言葉に、宗歩もこくんこくんと大きく頷いた。

 『五段免状』を取得するためには、本人の将棋の実力もさることながら、人脈作りなど多大な苦労と幸運に恵まれなければ手に入れることができない時代だった。

 恐らくこの全国を見渡しても五段免状を所持している「将棋指し」というのは、正直なところ十人もいるかいないかだったのだ。

 確かにその分、将棋家への献金は相当な高額に達するには違いない。

 だが当時は、「初段免状があれば田舎でなら飯が食える」とさえ言われていた。

 権威がものを言うこの時代において、柳営将棋家からの五段免状の威力は相当破格のものだったはず。


 なのに——


「ご家老、そして天野殿。将棋とはそもそも段位や家格で指すものでは決してございませぬぞ。拙者は生涯『無段』で良いのです」


 金吾のその言葉には一切の迷いが見られなかった。

 むしろ、天野宗歩とこうして真剣勝負ができたことで満足しているようかのように見えた。

 これが、『無段名人』と彼が呼ばれる所以である。

 後世の明治になって出版された書籍の中では、四宮金吾が全国の名だたる高段者に並んで堂々と『無段』として実際に紹介されている。

 

 金吾の態度に、宗歩の顔面が蒼白になった。


(な、なに……!? この敗北感!)


 だが次の瞬間には、宗歩の頬が突如として紅潮する。


 金吾の潔すぎるほどの言葉を聞き、宗歩は急に自分の考えが恥ずかしくなってしまったのだ。

 正直なところ、金吾がこれまで無段に甘んじていたのは、江戸から遥か遠い四国にいたせいだと勝手に考えていた。

 だから欲しくても免状が取れなかったものだと、思い切り勘違いをしていたのだ。


(私……皆には『名人とか段位に拘らないわ!』とか宣言してたけど、ぜんぜんまだまだじゃん! そう考えたら……、うわ! さっきの言葉、めちゃくちゃ恥ずかしい!)


「なぁ、天野宗歩殿」


 はわわわと顔を真っ赤にする宗歩に向かって、金吾がいきなり宗歩の名前を呼ぶ。


「は、はい!?」

「いつかまた——」

「ま、また?」

「お主とはどこかで会えれば良いな」

「——え?」

「俺と対局してくれて、本当にありがとう」


 金吾がにこりと微笑みかけて、それから宗歩にぐっと頭を下げた。

 その姿を見て、宗歩の顔がさらに真っ赤になる。

 今度はまったく別の意味で。


(めちゃくちゃ格好ええやないかーい!)


「そそそ、そうですね! また是非どこかで対局いたしましょう」


 宗歩は、本当にいつかどこかで金吾と再会できるような気がしていた。

 きっとそのときは敵ではなく、味方として――


 天野宗歩は、後世「実力十三段」とまで称されるが、その実際の段位は七段止まりだった。

 明治の文豪幸田露伴は、その理由を自著「将棋雑話」において、宗歩の師匠が八段であったためそれに配慮してあえて七段に留まっていたと説明し、その謙虚な姿勢こそが宗歩の英傑の資質であるとも評価している。

 ひょっとすると天野宗歩は、その若き頃に四宮金吾の高潔な生き様に触れて、立身出世よりも将棋の神髄を追求する姿勢を彼から学び取ったのかもしれない。


 ――弐――

 まぁそんなわけで、天野宗歩は対局場からすごすごと宿へと戻ってきた。

 帰ってきた彼女はそれからというもの、宿で彼女を待っていた市川太郎松に向かって四宮金吾の素晴らしさを説き続けている。


 四宮金吾がかつてないほどに強敵であったこと。


 彼が将棋の研究にどれほどまでに真摯だったかということ。


 そして勝負師として常に真剣に徹し、敗北した後も素晴らしく潔かったこと。


 彼こそが「真の将棋指し」であり、尊敬に値する男だったのだ、と。


「なぁ? お前さぁ……」


 いつまでも終わらない宗歩の熱を帯びた演説に、さっきからずーっと黙って聴いていた太郎松が、とうとうその口を挟んだ。


「な、なによ?」

「あのさぁ。そうするとだなぁ、お前は結局勝負に勝ったのか?」

「……え?」

「それともあいつに負けたのか? 一体どっちなんだよ?」

「……………………」


 実は宗歩と太郎松は、今回の対局の一部始終を大坂にいる平居寅吉に報告しなければならなかった。

 なぜなら寅吉は、宗歩が伝えるその報告をもとに面白可笑しい物語に書き下ろして、大坂市中に「瓦版」を配布する予定だったからだ。

 そう、天野宗歩の西国巡業を応援してくれた大坂の人々に向けて、彼女は自分の活躍を宣伝しないといけない立場だったのだ。

 将棋家に寄って立たない在野の将棋指しとして、天野宗歩は皆にまずは認めてもらう必要があった。

 そうしなければ、そもそも今回の旅の目的が達成されることはないのだ。


 そのためには、とにかく対局に勝てば良いというわけではない。


 皆の記憶に残るような「名局」を伝えなければならなかったのだ。


 ところが、たった今宗歩が太郎松に向けて語ったこと。

 それを、そのまま大坂の人々に伝えてみたとしよう。

 太郎松は、率直にこう思った。


 え? 天野宗歩、結構苦戦してんじゃね?

 

 ていうか、「鳥刺し戦法」めちゃ格好良くね?


 どっちかっていうと「剣聖」四宮金吾のほうが人気出るんじゃね?


(ま、まずいぞ! このままでは私の人気がまったく上がらん!)


 宗歩もこれに激しく同意した。 

 そしてひどく悶絶する。


 これは少々まずいぞ、と。


 私は、はるばる四国まで一体何をしにやって来たのかしらん、と。


 なんとか寅吉に頼んで今回の対局内容を改変してもらわねば!、と。


 その後、大坂にいた寅吉は、宗歩と太郎松のしょっぱい報告を受け、その創作に相当な苦心をする羽目になる。

 七転八倒した素人作家「平井寅吉」が、自前の西洋の刀剣に関する知識を駆使することを思いつく。

 そうすることで、将棋が全く分からない人にとっても天野宗歩と四宮金吾の対局に臨場感を持たせることができると目論んだのだ。

 なんとか目途がついた時、彼はようやくその肩の荷が降りた気分だったそうだ。

 後日大坂の人々も、この風変わりな将棋の観戦記を読んでそれなりに満足してくれたらしい。


 まぁ、それはさておき。


 そういうわけで、次こそは今回のような接戦は許されなかった。

 今度こそ、「天野宗歩、まさにここにあり!」と呼べるような圧倒的な対局内容が求められる。


「ううぅ。た、確かに私、将棋は勝てたんだけど……、正直内容の方は相当苦戦だったかも。金吾さんの『鳥刺し戦法』もまともに喰らっちゃったし……」

「ははーん、『将棋に勝って勝負に負けた』ってとこか? それに最後の下りの部分が不味いな」

「へ?」

 

 太郎松が嫌味そうに宗歩の口調を物真似する。


「『なんなら将棋家の段位を推薦してあげますわよー』って、上から目線で四宮金吾に絡んだことだよ。将棋家の権威をちらつかせてしまっちゃあ、みんなの反感買っちまうかもしれないなぁ」

「ぐぬぬぬ……」


 確かに宗歩としては金吾を高く評価したからこその推薦話だった。

 だが仮にも金吾は宗歩よりだいぶ年上、しかも徳島藩の武士でもある。

 若干二十歳過ぎたばかりの若造の態度としては、少々生意気過ぎた嫌いもあった。


「大坂の人って、江戸のそういういけ好かない感じ、大っ嫌いだからなぁー」

「ふえぇぇ、ど、どうしよう!?」

「ひょっとしたらお前、大坂に戻った途端に総スカン食らうかもしれんなぁー」


「………ぐす」


「……え!?」


「太郎松のばかぁぁぁぁぁ! うわぁぁぁぁん」


 突然、激しく混乱した宗歩が泣き出した。


(げげげ、まずい! 調子に乗って言い過ぎちまった!)


 宗歩の変貌ぶりに慌てた太郎松が、咄嗟に目の前の話題を別方向へ切り替えようとする。


「ま、待て、宗歩! 四宮金吾にあって、お前にはないものって何だろうな? もしかしたら、それさえわかれば解決するかもしれんぞ?」


 そうだ。

 機転の利く太郎松は、より建設的な議論を仕向けることで宗歩の気を引かせることを企てた。


「…………ぐす。えぇ……? わ、私にないもの? えっとぉ……なんだろう?」


(おおお! よしよし、とりあえずは泣き止んだか。いいぞいいぞ)


「そ、そうだなぁ。なんかあるだろう。ほら、考えて見ろよ?」

「うーん、金吾さんの度胸、潔さ、覚悟……かなぁ?」

「いやぁ、そんな曖昧なもんじゃねと思うぜ」

「え!? じゃ、じゃあ、なによ?」

「ずばり、得意戦法じゃねぇの? ほら、四宮金吾ってのはさ、『鳥刺し戦法』が得意だったんだろう?」

「得意戦法? だって得意も何も、ほら私って苦手な戦法とかそもそもないし。得意と言えばぜんぶ得意だし」

「むかつくな、お前!」


 けろっとした顔で嫌味なことをさらり言う宗歩に、太郎松が突っ込んだ。


「は! そ、そうか……。そうだったのね! 金吾さんにはあって、私には決してないもの。そう……、それは『必殺技』よ!」

 

 宗歩が全く聞きなれない言葉を発し始めた。


「ひ、ひっさつわざ? なんだよそれ?」

「必ず! 相手を殺す! 技! のことよ」

「そのまんまじゃねぇか!」

「ねぇ! 太郎松! 私も、金吾さんのように必殺技が欲しいわ!」


(あ、あれって必殺技だったのか……。ただの得意戦法じゃねぇのか?)


 どうも『必殺技』と『得意戦法』の区別がいまいち太郎松には理解しがたいのだが、宗歩にとって必殺技というのは得意戦法よりももっと強烈なものを指しているらしい。

 自分は確かに苦手な戦法もなく、あらゆる戦法を器用に指しこなす。

 だがそれは、言ってしまえば器用貧乏、中途半端、無個性とも言えよう。

 もちろん、宗歩の場合は高次元で両立させているのだから決してそんなことはないのだが。

 実際のところ、将棋にそれほど詳しくない人々にとっては、宗歩のこの凄さがうまく伝わりにくいのも事実だった。

 

「うん、決めた! 私、私だけの必殺技を作ることにするわ!」

 

 こうして天野宗歩は、「自分だけの必殺技」をこれから探求することになった。


 後世に語り継がれることになる、自らの代名詞ともなるべき戦法――


 それが誕生するのは、もう少しだけ先の話だった。


(冒頭に戻る)

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