第六十四話 酔象駒の謎(後編)

 ――壱――

「お主、将棋の駒がそもそも何種類あるのか知っておるか?」


 顔面にお白粉を塗りたくった老人が、渡瀬荘次郎に向かってそう質問した。


 ここは、京都御所の南に位置する邸宅の大広間。


 派手な色の着物をお召しになられた「お殿様」が、その上座に座っている。

 背中の床の間には、立派ごーじゃすな花菖蒲が存分に活けられていた。


 この「お殿様」こそ、京の文化人を庇護する松平定朝様である。

 

 荘次郎は寺院を後にして、そのまま定朝の邸宅へと向かっていた。

 なぜなら今日は、定朝に研究成果を報告しなければならない日だったからだ。

 邸宅に着いて家中の者にその用向きを伝えると、すぐに面会が叶った。

 定朝に会うやいなや、荘次郎はさきほど寺院で発見したばかりの、あの「見慣れない駒」の一件について報告したのだ。


 その報告に対する定朝の反応が、冒頭の質問である。


「えーと、王将、飛車、角行、金将、銀将、桂馬、香車、歩兵の八種類……です」


 荘次郎は、当たり前のようにすらすらと回答して見せる。


「うむ。正解じゃ。じゃがな、もともと将棋の駒は全部で九種類だったのじゃよ」


 定朝が物知り顔になりながら、自慢げに話し始めた。


「ええ! そ、そうなんですか!?」

「それがほれ、お主の見たという『酔象すいぞう』という駒じゃな」

「酔象駒……。それは存じておりませんでした」

「ほほほ、そりゃはるか大昔のことじゃからな」

「そうすると、あの駒箱に収められていた駒は、相当古い物ということになりますね。一体いつ頃の品なのでしょうか?」


 戦国大名、朝倉氏が所有していたと伝えられる将棋駒。

 寺院でもよく調べてみてはもらったのだが、それがいつどこで、一体誰の手によって作られたものなのか、はっきりとは分からなかったのだ。


「さぁな。わしも若い頃に伝え聞きで聞いただけじゃからな。なにせ『酔象』駒が将棋盤の上から一体いつ消えたのか、なぜ消えたのか。誰にも正確なことが良くわからぬのじゃよ」


 消えてしまった酔象駒の謎——


 荘次郎は、その謎について強い興味を覚えた。


「そうなのですか……」

「まぁ研究ついでに調べてみると良いかもしれんな。じゃが、にしてもまた不思議な縁じゃのぉ」


 定朝がなにやら思わせぶりな顔をする。


「え!? どういうことですか?」

「いやなに、かつてあの大橋柳雪がな、この儂に向かって言ったことがあったのじゃ」

「な、何をですか?」


 ――柳雪は、将棋家の仲人ちゅうにんなりや


 ――宗歩は、将棋家の酔象すいぞうなりや。

 

「仲人、酔象……? そ、それは一体どういう意味なのでしょうか?」


 全く訳が分からない荘次郎が大きく首をかしげながら、定朝に問うた。


「うむ……」


 だがそれっきり、定朝の口が開くことはついぞなかった。


 その後、荘次郎は定朝に報告を終えて、そのまま邸宅を後にする。

 伏見へとぼとぼ歩いて戻るその道すがら。


(また、聞きなれない駒が登場したなぁ……。仲人駒。ああ、たしか、そんな駒が『中将棋』にあったような気がするぞ。よし、帰って一度調べてみるか)


 瓢箪から駒――


 意外なところから意外な物が飛び出す言葉の例えである。


 まさか、この好奇心旺盛な若者がひょんなことから天野宗歩の秘密に辿り着くことなど。


 このときはまだ、本人を含めて誰も知らなかったのであった。


 ——弐―—

 荘次郎が伏見の屋敷に戻ってきた。

 もう十月に入っており、すでに日もとっぷりと暮れ落ちていて、夜はすこぶる寒くなっている。

 じきに真冬にもなれば、京は大坂とは違って雪が積もることさえあるそうだ。


「お帰りなさいまし。荘次郎様」

「やぁ、お律さん。ただいま戻りました。ふぅ寒かったぁ」


 女中のお律が、屋敷の玄関口で荘次郎を出迎えてくれた。

 お律のこの笑顔を見ると、荘次郎の心が少しだけ温まる心地がした。

 

「松平様への御報告、いかがでございましたか?」


 荘次郎が履物を脱いで足を洗うのを彼女は手伝いながら、そう聞いてくれた。

 一人では煮詰まってしまう作業も、こうして話し相手がいるだけでずいぶんと気持ちが楽になるものだ。


「ええ。万事順調とまでは行きませんが、『ようやく先が見えてきたな』と褒めていただきましたよ」

「まぁ! それは何よりでございます」


 それを聞いて、お律が我がことのように喜んだ。


「今取り組んでいる山さえ越えれば、おそらくあと半年ほどでおおよその目途が付くでしょう」

「ならばここからが正念場、ということでございますわね」

「ええ、まったくです」

「あ、そういえば、先ほど天野宗歩様から文が届いておりましたよ」

「えええぇ!? ど、どこですかぁぁ!! 待ちわびていたんですよぉぉ」


 その言葉を聞いた瞬間。

 荘次郎は玄関で文字通りに飛び上がって、思い切り慌てふためいた。


(ああ、なんという僥倖。宗歩様のことを想っていたら、こうして都合よく手紙が届くなんて!)


 荘次郎は、嬉しくてまさに天にも昇るような気持ちになる。

 

「うふふ、こちらに。さぁ、どうぞ」


 そんな荘次郎の態度を見て微笑んだお律が、着物の帯に差していた一枚の文を取り出して、彼にそっと手渡した。

 荘次郎は、待ち焦がれていた恋人からの便りでも見るかのように、急いでその封を解き始める。


「どれどれ……」


 宗歩からの手紙には、彼女が四国に渡って「鳥刺し名人」四宮金吾に勝利したことが、まず記されていた。


「おお! 聞いてくださいよ、お律さん」

「はいはい、なんでございましょうか」

「宗歩様があの四宮金吾に勝利なされたそうですよ! さすがは宗歩様! ああ、なんと素晴らしいことなんだろう!」


 さきほどから終始興奮し続ける荘次郎に向かって、お律もまた喜びを見せた。


「まぁ! それはおめでたいことですわね。では今日はお祝いに御馳走を作りましょう」

「ええ、ええ。そうですね! 本当におめでたいことだ!」


 荘次郎は、我がことのようにその場ではしゃぎ喜んだ。

 

(ああ、やはり宗歩様は凄いお方だった。あの四国名人に打ち勝たれたなんて……)


 荘次郎は、本当にとても嬉しかった。


 だがその一方で、少しだけ悔しくもあった。


(ああ、悔しいなぁ。是非ともその場で対局を見たかったなぁ……)


 そう思うと、一人京都で古棋譜の研究を続けている自分の身が、なんだか無性に寂しく感じてしまうのだった。


 ——参——

 荘次郎が、お律と一緒に居間で夕餉を食べている最中のこと。

 今日の出来事を、ふと目の前の彼女に尋ねてみようと思ったのだ。

 話によれば、この人はかつて京都花柳界の頂点にいた人。

 教養もさぞかし高い御方と聞いている。

 何か手掛かりになるようなことを知っているかもしれない。


 それに彼女は、この屋敷であの大橋柳雪と一緒に過ごしてきた人なのだ。

 柳雪の口から直接何かを聞いている可能性もあった。


「そういえば、今日松平様からなんとも不思議なお話を伺ったのです」

「不思議な話、でございますか?」


 お律が、茶碗を片手に荘次郎を見ながら聞き返した。


 荘次郎は簡潔にお律に話した。


 寺院の蔵で古い将棋駒を見つけたこと。

 その駒の一つに「酔象」と記されていたこと。

 将棋には昔「酔象」駒があったのだが、いつの間にかそれが消えてしまったこと。


 そして――


 大橋柳雪が天野宗歩を「酔象」と称し、自らを「仲人」と称したこと。


「『酔象』でございますか……」


 酒に酔えばとても妖艶になる彼女の口から「酔象」と言う言葉が出たことが、荘次郎には少しだけ可笑しかった。


「あの。柳雪様は何かそういった件について、お律さんにおっしゃられてませんか?」

「いえ……特にはなにも……」


 お律が隠し事をしているようには見えなかった。

 とすれば、柳雪はお律にこの件について特に何も話していないということになる。


「そうですか……」


 重要な手がかりを失ったと分かり、荘次郎はがっくり肩を落とす。


「……ですが、一つだけ心当たりがございます」


 気落ちした荘次郎に向かって、突如お律がその口を開いた。

 その顔は、まるで何かを思い詰めたているかのような表情だった。


「え!? そ、それは何でしょうか?」

「直接その件と関係があるかのかどうか分かりませんが……」

「な、何でも良いのです。是非おっしゃって下さい!」

「かつて数年前に一度だけ、この屋敷に天野宗歩様がお訪ねになられたことがございました」

「宗歩様がここへ……ですか?」


 天野宗歩は一八歳になったとき、生まれ育った江戸を飛び出して、京に住む大橋柳雪のもとを訪ねていた。

 確か宗歩はその後に大坂に来て、荘次郎たち小林家と出会ったのだ。


「宗歩様がこの屋敷にやって来るその折に先立ち、江戸の大橋宗桂様から一通の文が送られてきたのです」

「大橋宗桂様……、と言うと宗歩様の師匠ですよね?」

「ええ、そうですわ」


 ――大橋本家十一代目当主、大橋宗桂


「鉄仮面」の異名を持つという、天野宗歩のれっきとした師匠だった。

 その師匠が、大橋柳雪のもとにわざわざ文を寄こしてきたのだ。

 

 これは、一体どういうことなのだろう?


 荘次郎の無言の質問に答えるように、お律がそのまま話し続ける。


「はい。大橋宗桂様は、宗歩様が柳雪様を訪ねることをおそらく見越していたのでしょう。だから柳雪様にわざわざ知らせておいてくれたのです」

「つまり、弟子がそろそろそっちに行くから、どうぞよろしくと?」


 江戸にいる師匠としては、自由奔放な弟子が旅先で人様に迷惑をかけることは極力避けたいと思うのは不自然ではない。

 それだけならば全く分からない話でもないのだが。


「ええ。ですが、その文とは別にもう一枚文が届けられました」

「え、もう一枚ですか!? で、その文にはなんと……?」


『宗英は雪の白きが如く、宗歩は紅の赤きが如し』――


「……そ、それだけですか?」

「はい、それだけでした」


(ああ……。これではまた、謎が一つ増えてしまったじゃないか)


 酔象駒の謎——


 柳雪が定朝に言ったという言葉の謎——


 宗桂が柳雪に送ったという文の謎——


 このばらばらにも見える三つの謎が、今や奇妙にも繋がろうとしていた。

 少なくとも荘次郎には、そう感じていた。

  

「それで、そ、その文は……いったいどういう意味なのでしょうか? まず、『宗英』というのは、あの九世名人の『大橋宗英』のことですよね?」

「ええ、おそらくそうでしょうね」

「すると宗歩様はあの宗英名人と同じくらいに、将棋の才能があるということでしょうか?」

「そう、かもしれません。私も最初見たときはそう思いましたから」


 たしかに天野宗歩ならば、史上最強と謳われる大橋宗英にも匹敵するかもしれない。

 だが大橋宗桂は、なぜそんな褒め言葉をわざわざ大橋柳雪に伝えようとしたのだろう。

 宗歩の才能の凄まじさは、柳雪が一番良く知っているはずじゃないか。


「そんなこと、柳雪様にわざわざ伝える必要があったのでしょうか?」

「ええ、でも……」


 お律がさらに言葉を紡ぐ。


「でも? 何です?」

「宗桂様からのその文を見たときの柳雪様のお顔が……」


 それ以上をなかなか話そうとしないお律に、荘次郎は居ても立っても居られずに、

「柳雪様の顔がどうかしたのですか? ねぇ、お律さん!」


 ――何かを覚悟したかのように、私には見えたのです。


「何かを……覚悟ですか?」


 一体、大橋柳雪は何を覚悟したというのだろう?

 大橋宗桂がわざわざ柳雪に伝えたという、この謎めいた言葉の真意。

 果たしてそれは何だったのだろう?


 おかしいぞ。

 一手一手が上手く繋がらない嫌な感じがする。

 まるで難解な詰め物を解いているかのような気分だ。

 するすると玉将が逃げていくようだった。


 荘次郎には、まだ最後まで「詰み」が見えていない。


 あと一つ。


 そう、何か光明となるべき手筋が見えさえすれば。

 

「そうそう、荘次郎様。私、もう一つだけ思い出しましたわ」

「え、なんでしょうか?」

「『酔象』という駒のことです」


 いきなり話題が最初に戻ってしまったではないか。


「荘次郎様、酔象という駒は『成る』とどのような駒に変わるかご存知ですか?」


 駒は相手の陣地まで進むと裏返って変化する。

 たとえば「飛車」は「竜」、「角」は「馬」、「歩」は「と金」のように。

 これを「成る」と言う。

 「酔象」もまた将棋の駒である以上、「成る」ことができる。

 お律はそう言っているのだ。


「酔象の成り駒ですか? すみません、僕は全然知りません」


 屋敷に戻ったら、すぐに調べようと思っていたところだった。

 ところが宗歩の手紙を見た瞬間、荘次郎はすっかり失念してしまっていたのだ。


「では、お寺にあったその『酔象』駒の裏側には、なんという文字が書かれてありましたか?」

「えと、たしか……『太子』だったかな?」

「やっぱり」


 太子駒。


 ああそうだ。


 あの駒の裏には薄く擦れてしまって、もはやほとんど読めなくなった墨で確かにそう書かれていたのだった。


「ねぇ、お律さん。『太子』って一体どういう駒なのでしょうか?」

「私が聞いた話によれば、『太子』は、それが盤上にいるかぎり『玉将』が詰まされても将棋が継続するそうです」

「『玉将』が詰まされても、『太子』がいれば勝負が続行する、だって……?」


 そんなこと、初めて聞いた話だった。


「遥か昔にはそういう決まりだったらしいですよ」


 ――天野宗歩は、将棋家の酔象なりや。


 柳雪の言葉が再び荘次郎の脳裏によぎった。


 「王将」ではなく、「太子」と言うところに若干引っかかったのだ。

 宗歩が将棋家の頂点である名人になるような器、そういうことであれば普通は「将棋家の王将」と評するべきだろう。


 だが「将棋家の酔象」が、「将棋家の太子」をも含意しているというのであれば——

 

 つまり、それは一度「王将」が詰まされることも暗示していた。


 そう、大橋柳雪は将棋家が近い将来に滅ぶであろうことを予言しているのだ。


 (に、二百年も続いた将棋家が滅ぶだって……。そんな馬鹿な)


 だが、大橋柳雪の言葉はさらにこうも読める。

 もしもこのまま将棋家が滅んだとしても、宗歩が『酔象』から『太子』に成りさえすれば——

 将棋自体はそのまま継続する。

 

 将棋家の滅びと、新たな時代の幕開けである。

 

 その鍵こそが、天野宗歩その人。

 

「酔象」はすでに将棋盤の上から消え失せている。


 盤上に二度と現れることがない幻の駒だ。


 つまり、これが将棋の歴史にとって最後の機会であると。

 

 もしもこの機会を逃せば、将棋家だけでなく将棋そのものが滅ぶと。


 そういう意味なのか?


「で、では『仲人』は?」

「……」

「お律さん! 『仲人』という駒は、裏返ると一体何に『成る』のですか!?」


 お律は、天井を仰ぎながらふぅっと溜息をつく。

 そして、一言だけこう呟いた。

 とても悲しそうに。


「酔象です」


 ああ―—

 

 まさか——


 そんな残酷なことって――


 将棋の駒は裏返ると「成る」。

 だけどそれでもうお終いだった。

 それ以上の「成り」はどこにも、ない。


「仲人」は「酔象」には成れても、「太子」には絶対に成れない駒なのだ。

 そういう宿命を背負った駒が仲人だった。


 柳雪は、自分が将棋家にとっての未来に成れないことをずっと前から悟っていたのだ。

 だからこそ、松平定朝にあんな言葉を残したのかもしれない。


 ――定朝様、どうか天野宗歩のことをよろしくお願いします。


 これで、謎の二つまではなんとなく意味が分かったような気がした。


 二代目大橋宗英として、「名人」をかつて志した大橋柳雪。

 彼の希望は今、天野宗歩へと手渡された。

 そういうことか。


(うん? 二代目大橋宗英……。え……、それってどういうことだろう。ま、まさか……)

 

 渡瀬荘次郎の胸の中に、ようやく最後の謎めいた言葉も繋がり始めていた。

  

 宗英は雪の白きが如く、宗歩は紅の赤きが如し――


 そうである。


 大橋宗桂の言葉は、天野宗歩と大橋宗英名人を対比させた言葉などではない。


 この「宗英」とは、二代目大橋宗英、つまり柳雪本人を指しているのだ。


(ああ、こんなことって本当にあるんだろうか……)


 そしてこの解釈から、とうとう荘次郎は一つのある仮説へと辿り着くことになる。

 だがそれは——とても悲しくそして切ない物語だった。

 できればこんなこと、宗歩に伝えたくなかった。


 師匠の大橋宗桂が、どうして柳雪と宗歩を対比させたのか。


 雪と紅。


 そこに最後の鍵があるはずだった。


 長い沈黙の後。


「僕、江戸に行って来ます」

 

 突然、荘次郎がお律に向かってそう宣言したのだ。


「え!?」

「僕、大橋柳雪様に会いに行こうと思います」

「……あなたがあの人に会いに行って、一体どうするというのです?」

「……分かりません」


 荘次郎の決心は固かった。

 気づいてしまったとはいえ、他人の自分に一体何ができるか分からない。

 けれど、ここで研究を続ける気にはどうしてもなれなかった。


「江戸での用事が終われば柳雪様はここ京都に戻ってきますわ。その時でも遅くはないでしょう?」

「でも、宗歩様がこのことを後で知ってしまったら——はっ!」


(どうして、今まで気づかなかったんだろう……。僕は何て愚かな奴なんだ)

 

 この屋敷は、あの大橋柳雪がずっと住んでいた屋敷だというのに。

 そして、荘次郎が半年もの間ずっと暮らしてきたあの部屋こそ、彼の自室だったというのに。


 だっ!


 荘次郎が急に席を立ち、慌てて自室へと走り出す。


「荘次郎様!」


(僕の考えが正しければ、必ずそこにある。


 柳雪の部屋の中を隅々まで探し出した。


「あった! はぁ、はぁ。やっぱり……。そうだったのか」


 一人前の将棋指しであれば、必ず肌身離さずに持ち歩くもの。

 それは武士にとっての刀のようなもの。


 そう、将棋の駒だ——


 大橋柳雪が愛用する将棋の駒が、駒袋に入ったまま大事そうに仕舞われていた。

 主人がいないこの自室にずっと置かれたままだったのだ。

 これを持たずに江戸へ向かうということは、即ち「捨て身」を意味する。

 つまり彼は、もうここに戻って来るつもりがないのだろう。


「お律さん……。あなたはこれを最初から知っていたんですね」

 

 気づくと、部屋の障子の後ろに彼女が立っていた。

 こちらから隠れてしまって見えないが、ひょっとして泣いているのかもしれない。

 

「あの人は……あと何年生きられるんですか?」



 沈黙が訪れた―—



「…………長くても二年。いえ、たぶんもう一年も持たないかも」


 荘次郎がはぁっと深いため息をつく。


(そんなのあまりにも悲しすぎるじゃないか……)


(そうか。だから宗歩様をわざわざ西国へ出向かせたのか……。すると東伯齋様も全てを知ってのことということ……。一体どれだけのことが最初から仕組まれているというんだろう)


 宗歩の手紙には、四国の四宮金吾に勝った後、東伯齋の指示により備中倉敷へ向かっている途中であるとも記されていた。


 中国名人——香川栄松との対局に向けてである。


 荘次郎はその手中にある手紙を、力を込めてぎゅっと握り締める。

 恐らくこの後宗歩は、東伯齋の更なる指示により九州へと渡るのだろう。

 九州から大坂を経由して江戸へと戻るのには、最低でも二年は要する。

 

 そうなれば、もはや全てが手遅れになる。


「こんなのって、やっぱり悲しすぎますよ」

「ですが、それでもあの人が一人で決めたことなのです。一人で全てのけりをつけると、あの人はそういう人なのです」

「僕はまず備中倉敷へ行きます。宗歩様に会って全ての事情を話そうと思います」

「でも宗歩様は、貴方の話を信じるかしら? あなただってまだ推測の域を超えていないのでしょう?」

「ええ。ですから、宗歩様と一緒に柳雪様に会いに行って、本当の真実を確かめに行くことにしました」


 その言葉を聞いた瞬間に、お律の顔が険しく豹変する。


「だめよ。絶対に行かせないわ。だって、これはあの人の遺志なんだもの」

「柳雪様の遺志、だって?」

「……そうよ。あの人はもう宗歩様に会うつもりはないの。半年前に大坂で公開対局した、あの時が二人の最後の時だと決めていたのよ」

「なぜですか?」

「再会すれば……、また迷うからに決まっているじゃない」

「再会……」


 一体、柳雪は何を迷うというのだろうか。

 荘次郎にはまだ分からないことがあった。

 でも、これだけは絶対に誓って言えると思う。


 ——大橋柳雪と天野宗歩は絶対に「再会」しなければならない。


「でも、僕は行きます。そして最後は宗歩様に決めていただくことにします」


 柳雪と宗歩の今生の別れは、あの大坂での対局だったのかもしれない。

 でも宗歩が本当に望むのならば、そんな運命も変えられるかもしれない。


「そう……。そうね、それならばあの人だって納得するかもしれないわね」

「ねぇ、お律さん」

「うふふ、なぁに?」


 お律が首を横に曲げながら少し微笑んだ。

 この人は、美しくて優しい。

 そしてとても賢い人だった

 

「貴方はやっぱり油断できない人ですね。僕にこうやって回りくどい推理までさせておいて、結局は僕を自分の求める結論へと導いたのですね」

「そんなこと……ないわ。あなたがとても聡明だっただけよ」


 でも、この人はあまりにも悲しすぎる人だった。


「なら、そんな誉め言葉を真に受けてしまったこの僕から、貴方に向けて一つだけお願いごとをしてもいいですか?」

「なぁに?」


「その帯に隠している短刀を、僕に渡してください」


「………」

「ねぇ、お律さん! 貴女まで一緒に死んじゃだめですよ。あの人の後を追ったって、あの人は、柳雪様は絶対に喜んだりしないはずです! だって、貴方に死んで欲しくないからこそ、柳雪様は自分の分身の駒を置いていったんじゃありませんか?」

「自分の……分身……」

「そうです。将棋指しにとって、駒は自分の分身です。それをあの部屋に置いていった柳雪様の気持ちを考えてください」


 大橋柳雪を愛しても最後まで愛されなかった彼女は、荘次郎を見送った後ここで死に果てようとしていた。

 愛すべき柳雪がいなくなってしまうこの世界になど、なんの未練もなかったから。

 だからせめて、彼が生きている間にその愛を貫いて見せてつけてやろうとしたのだ。


 そうしたら——


 ひょっとして——


 彼が自分の方を少しでも振り向いてくれるかもしれない。


 そう思ったのだ。

 

「ねぇ、お律さん。お願いですから、どうか僕の帰りをここで待っていてください! 必ず柳雪様をこの屋敷に連れ戻してきますから」

「…………」

「そうして帰ってきたら、また僕の研究の話を聞いてくださいね」

「……うううぅ」


 お律が崩れ落ち、そして激しく慟哭する。

 荘次郎の優しさにただただ涙するばかりであった。

   

 こうして渡瀬荘次郎は、天野宗歩に会いに行くために備中倉敷へと旅立った。

 

 天保八年(1837年)十月のこと。


 天野宗歩と「中国名人」香川永松による五番勝負のおよそ一ヶ月前のことである。

 

 



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