第十三章 香川栄松
第六十三話 酔象駒の謎(前編)
——壱——
「うーん、ぜんぜん分からないよぉ」
さきほどから、渡瀬荘次郎が狭い部屋の中で、独りうんうんと唸っていた。
彼の手の中には、古ぼけた紙切れがたった一枚。
——古棋譜だった。
それも遥か百年近くも前に記されたもの。
将棋家の将棋師による対局を記録した古棋譜だったのだ。
彼は、その棋譜の分析にさきほどから熱心に挑み続けている。
取り掛かり始めてから、既に二時間が経過していた。
「つくづくこうやって考えてみると不思議だよなぁ。将棋の定跡って、そもそもどうやって出来るんだろう?」
畳の上にごろんと寝っ転がって仰向けになる。
そのまま両腕を上げて、天井に古棋譜を宙吊りしたまま眺めた。
ここは、かつて大橋柳雪が住んでいた京都伏見の屋敷。
屋敷の一番奥にある柳雪の自室、だった部屋。
その部屋の隅に、荘次郎はいたのだ。
「だめだぁっ」
とうとう彼が音を上げて、棋譜を上空に放り投げた。
茶色く変色した紙切れが、ひらひらと宙を舞う。
無理もないだろう。
朝早くからずっと研究に没頭していたのだ。
それに今日一日だけではない。
彼はずいぶんと長い間、将棋の歴史と孤独な格闘を続けてきたのだから。
(宗歩様と離れ離れになって、もう半年になるのかぁ……。寂しいなぁ……)
荘次郎が京の町にやって来てから、すでに半年が経過していた。
研究に煮詰まった彼の頭脳には、今やその間隙を縫うように
(宗歩様と太郎松さん、喧嘩してなきゃいいけど……。あの二人、将棋以外何もできないからなぁ。すごく心配だなぁ……)
天野宗歩が西国へ旅立ったと同時に、弟子の渡瀬荘次郎もまた京の都へと単身赴いていた。
荘次郎が、師匠の宗歩から与えられた大事な役目——
それは、京の町に眠り続けるという古棋譜の収集とその整理である。
宗歩は近い将来、将棋の書物を執筆するつもりでいた。
彼女の構想では、その書物は二百年続く将棋の歴史を全て解明するほどの「前代未聞の大作」になる予定だった。
そのためには将棋の歴史を一から紐解く必要がある。
まずは、棋譜をできる限り発掘しなければならなかった。
あの初代名人大橋宗桂が長年住んでいたという、京の町に眠る古棋譜をだ。
荘次郎は、伏見の大橋柳雪の屋敷に居候させてもらうことにした。
当の大橋柳雪は今、江戸へと旅立っているため不在にしていたので、その留守を預かるということもあって丁度良かったらしい。
孤児だった彼は、小林家に拾われてからずっと大坂の町を出たことがなかった。
生まれて初めて実家を出た彼としても、京にやって来た頃は大坂の家族に思いを馳せることが多かった。
独りで寝ているときなど妙に寂しく感じることもあった。
ところがすぐに慣れてしまったらしい。
大人しくて優しい荘次郎の性格が、気忙しく騒々しい大坂よりも、ゆったりした古都の水の方が馴染んだのかもしれない。
だが、最近なぜか天野宗歩のことを考えている自分に気づく。
(あれ、どうしてだろう? 古棋譜の研究が煮詰まってきたからかなぁ……)
「荘次郎様、そろそろお昼にしませんか?」
荘次郎がそんなことをぼんやり考えながら呆けていると、障子の向こう側から屋敷に住む女中の声がした。
「ああそうですね。もうそんな時間か」
荘次郎がごろんと横に寝転がりながら、手を伸ばして障子をすっと開ける。
板敷の廊下には、見目美しい女が正座していた。
本人曰く、年はもう若くはないらしい。
だがそうは全然見えない。
この女中はかつての屋敷の主人、大橋柳雪の女中であった。
その名を、「お律」と言う。
荘次郎がこの屋敷で一人で滞りなく生活してやっていけるのも、身の回りの世話をするこの女中がいてくれてこその話だった。
「まぁ! 荘次郎様ったらそんな風に寝転がっているなんて、お行儀の悪いことですわ」
「あ、いや、すみません。ちょっと休んでいたものでして……」
「あまり、根をお詰めになってはいけませんわよ。この前だって頑張りすぎてお熱を出してしまったじゃないの」
仰向けに寝転がったままの荘次郎のおでこを、お律がぴんと人差し指で押す。
荘次郎はお律のその仕草に、姉の水無瀬の顔をふと思い出してしまう。
「ええ、そうですね、気をつけます。あ、そうだ! 今日は午後からお寺に行かねばならないのでした。用意しなきゃ」
「まぁ、そうでしたか。それではすぐに昼餉の支度をいたしますわ」
お律は、荘次郎のことをとても気に入ってくれていた。
居候としてではなく、まるで親戚や家族のように接してくれている。
単純に、若くて見た目も美しい荘次郎のことが好きなのかもしれない。
一方で、荘次郎もまたお律のことを姉の様に頼りにしていた。
彼女は女中ではあるが、女中ではない。
実際のところお律は世間体から「女中」と名乗っているだけで、この屋敷の主人に違いなかったのだ。
彼女の話によれば、大橋柳雪の方がここに転がり込んできたらしい。
世間では、大橋柳雪が遊女だったお律を見受けした言われているが、その関係とは全くの逆だったのだ。
(お律さんって綺麗で優しい人だよなぁ……。これでお酒さえ飲まなかったら、ほんとに良い人なんだけどなぁ……)
完璧に見えるそんなお律にも、悪癖が一つだけあった。
普段はこうして慎ましく女中の仕事をしているのだが、酒癖が少々悪かったのだ。
お律はたまに機嫌が良いと、荘次郎を話し相手に晩酌することがある。
酔いが回ったお律は、普段以上にその妖艶さが一層増す。
その妖艶さは、怪しくもあり耽美でもあった
つまり、お律は美しいものを愛でるのが好きだったようだ。
美少年、美少女。
とくに中性的なものには目がないらしく、荘次郎はど真ん中のど直球だったらしい。
ぶっちゃけて言うと、お律は酔うと荘次郎を弄ぼうとするのだ。
——うふふ、さぁ、私といけない遊びをしましょう。
——禁じられた遊び。
具体的には、荘次郎を自分の着物で女装させて、それを肴にしながら酒をちびちびと飲むのだ。
荘次郎は、特に何もされずお律に鑑賞されるだけ。
そのまま長時間放置されたり、様々な格好をさせられたり、いろんな仕草を求められはする。
だが、その体に触れるようなことをお律は一切しなかった。
逆にその方が不気味でもあるのだが。
荘次郎も気持ちの良いものではないが、まぁ、これでお律との共同生活が上手くいくのならばお安い御用と受け入れてしまった。
孤児として物心ついた頃から天涯孤独だった、渡瀬荘次郎。
渡瀬とは「渡世」をも意味する。
渡る世間に自分を受け入れてもらうためには、「折り合い」も必要だと諦めていた。
——人にはそれぞれ事情ってもんがあるんですよ。
——だから野暮なことは一切言わずに、そのまま受け入れましょうよ。
後年の渡瀬荘次郎が、周囲の者に向かってよく言った言葉だった。
そんなお律が、荘次郎を前にたった一度だけ前後不覚にまでなったことがある。
その時に思いがけない話をしたことがあった。
(ああ、そうだった。あの話を聞いてからというもの、僕は宗歩様のことを思い出すようになってしまったんだ……)
そう。
忘れもしない、ついこの間の夜こと。
ずいぶんとお律が酩酊したときのこと。
——ねぇ。菱湖さん。聞いて。
お律は、女装させた荘次郎のことをいつも「菱湖」と呼んだ。
紅潮した頬の彼女は、酒の入った徳利を片手でふらふらさせていた。
目は虚ろのまま、何度もそうやって愛玩するように彼の異名を呼んでいる。
——柳雪様はね。私のことを好きでも何でもないのよ。
お律は、れっきとした大橋柳雪の恋人だったはずだ。
荘次郎は確かに人からそう聞いていた。
——そんなことはないでしょう
と、荘次郎は優しく宥めるようにお律に言い返す。
柳雪が自分を残して江戸へ立ったことが寂しいのかもしれない。
だが、お律はそんな言葉に「ちがうちがう」と大きく被りを振り続ける。
——いいえ。あの人にはね。決して忘れられない人が一人だけいるのよ。
お律の目がとろんとしてきた。
意識が徐々に混濁してきた証拠だった。
そろそろ眠たくなってきたのだろう。
このまま突っ伏して気を失うかもしれない。
頭を床にぶつけたら、その美しい顔に傷がついてしまうだろう。
だが、荘次郎は彼女に何もすることができない。
してあげることができないのだ。
なぜなら——
全身を荒縄できつく縛られているから。
——柳雪様が忘れられない人? それって誰ですか? ひょっとして天野宗歩様ですか?
芋虫のように悶えながら荘次郎が聞く。
宗歩が女であることは、柳雪も承知している。
宗歩は、柳雪のことを憧れの目で見ていたようだ。
だが、荘次郎の見立てでは実際のところ、宗歩のその感情は男女の恋慕の情というよりは、もっと「幼い何かの感情」と呼ぶべきものだったように思えた。
一方で、柳雪の方は宗歩のことを決して「女」として見ていない。
その目はまさに「師匠が弟子を見る眼差し」、それ以外の何物でもなかったはずだ。
——え、宗歩様? いいえ、違うわよ。もっと別の御方よ……。
——別の御方ですか? うーん、それって……誰でしょう?
——うーん…………。
——あのぉ? お律さん? もしもーし。
——むにゃむにゃ…………ぐぅ。
——寝てしまったか。その前に、この縄を解いて欲しかったなぁ……。僕このまま眠らないといけないのかなぁ。ぐすん。
(あの時のお律さんの話、すごく気になるなぁ……。何かの機会にまた聞いてみよっと)
荘次郎は、いったんこの話を忘れることにした。
そうしてお律が急いでこしらえてくれた昼餉をぺろりと平らげて、古棋譜調査を依頼していた京の禅寺へとその足を運ぶことにしたのだった。
——弐——
京の町には、荘次郎のような温故知新を胸に秘めて研究する若者が意外と多い。
だから町中であれこれ調べ物していても、「あの人なんかやってはるなぁ」とほったらかしにしてくれる。
そんな京の雰囲気が、荘次郎にとってはなんとも心地良いのだった。
「それにしても、一体どこまで遡ればいいんだろう?」
荘次郎は、京の町に数多く点在する寺院を頻繁に訪ね歩いていた。
初代名人の大橋宗桂は、囲碁の初代名人本因坊算砂の弟子である。
二人は僧籍だった。
だから荘次郎は、古棋譜も縁がある寺院に伝わっているものと推測していた。
調査にあたっては、柳雪と宗歩の後援者である京都西町奉行の松平定朝がずいぶんと協力してくれていた。
定朝は生け花に精通する粋人。
そのほか、様々な文化についても非常に造詣が深かった。
だから京に埋没した古棋譜を発見する意義とその重要性も、話を聞いて即座に理解した。
このまま手をこまねいて胡散霧消させることが、我が国にとってどれほどの損失か。
最終的には商売に利用するつもりとはいえ、ひとまずは誰かが成し遂げねばならない仕事には違いない。
京文化の保全のために。
定朝は、京にある多くの寺院に対して取り計らってくれたのだ。
荘次郎の予想以上に、寺院の蔵や宝物庫には古棋譜がたくさん残されていた。
その中には将棋家の棋譜だけでなく、在野の棋譜や珍しいものでは徳川以前の時代の棋譜もいくつか見受けられた。
「これだけあると書き写すのも大変だよぉ」
荘次郎は来る日も来る日もその場で古棋譜を一枚ずつ書き写し、自宅に戻ってはそれを将棋盤に並べて戦法別に整理をし、その寸評を重ねていかねばならなかった。
そうした延々と続くようにも思えた作業をしていた、ある日のこと。
最近、特にご厄介になっている禅寺の住職から、「蔵の奥から大変珍しいものが見つかった」と荘次郎のもとに知らせが届いたのだ。
今日はその住職様の手が空くということで、お昼から寺院へ伺う約束を取り付けていたのだった。
荘次郎が、伏見の屋敷から慌てて寺院まで足を伸ばしてみると、住職が寺の門の前で待っていてくれていた。
「すみません、大変遅くなりました」
「いえいえ、拙僧も今しがた手が空いたところでございます。さぁ、こちらへ」
そのまま寺院の奥の蔵へ案内してくれる。
毎日熱心に研究に打ち込むこの大坂から来た若者を見ているうちに、寺院の僧侶たちもその真剣さに心を打たれたらしい。
荘次郎が不在のときにもちょくちょくと暇を見つけては、彼らだけで蔵の中を探索してくれていたのだ。
「渡瀬様。どうぞこちらにございます」
住職の手の中には、とても古い長方形の駒箱があった。
通常の木の箱ではなく、中国風の装飾が派手に施された宝箱のような駒箱だった。
てっきり珍しい古棋譜が見つかったのかと思って来てみたら、将棋の駒だったので荘次郎はちょっとだけ面食らう。
「これは、大昔の将棋の駒ですか……?」
「はい。この寺の言い伝えでは、なんでもあの越前朝倉家に伝わる名駒だとか」
「朝倉……ですか」
戦国乱世の北陸の雄——、朝倉氏。
住職の話によれば当時、守護大名の朝倉氏が治めていた越前には、戦乱に見舞われ荒廃した京から、多くの文化人たちが逃れてきたそうだ。
皮肉にも城下町の一乗谷は、その影響で経済だけでなく文化も相当な発展をしたらしい。
きっと、当時京都に沢山いたとされる「将棋衆」達も、同じように朝倉家に庇護を求め、こうした貴重な将棋駒を献上していたのかもしれない。
そんな百年続いた朝倉の治世も、とうとう織田家に滅ぼされてしまう。
この駒箱は巡り巡って三百年後、奇妙にも京の都に舞い戻ってきたのだろうか。
ぼろぼろの駒箱を慎重にぱかっと開くと、普段見慣れている駒が箱の中にみっしりと収められていた。
駒自体は箱に収められていたせいだろうか、そこまで風化していないように見える。
五角形で大きさもほぼ見慣れたものだった。
「へぇー、今の時代の将棋駒と同じみたいですね。そうするとこれは中将棋駒とは違いますね」
「中将棋……、でございますか?」
徳川より以前の時代では、「将棋」よりも「中将棋」の方が流行していたそうだ。
特に公家は「中将棋」を好んだらしい。
徳川家康が「将棋」を庇護した理由には、当時の公家層に対抗するためだったという逸話もどこかで聞いたことがあった。
荘次郎は、中将棋の詳しいことについてはほとんど知らなかった。
だが、中将棋の駒ならばもっと駒の数が沢山あってもおかしくないはず。
ところがこの駒箱には、一目見ておよそ四十枚程度しか見受けられない。
だから荘次郎は、「この駒が将棋の駒だ」と判じ得たのだった。
そんな古いだけに思えた駒箱の中に、一つだけ見慣れない文字の駒を見つけた。
「あれれ? この駒はなんだろう?」
「はて……、将棋の駒にしては見慣れぬ駒ですな」
荘次郎がその箱の中から、手にすくい取った五角形の駒。
その表面には、「
(後編に続く)
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