第五十九話(閑話)本当の記憶

 ――壱――

 どうしてこんな大事なことを、今まで忘れていたのだろう。

 

 いや、忘れてたんじゃない。

 

 思い出そうとしなかったのだ。


 名人になるためにあえて考えないようにしていた。

 そう言うべきかもしれない。


 だが名人になれないことに絶望して旅に出てからというもの、私はこれまでいろんな人と出会ってきた。

 そうするうちに、自然と「名人になれなくともよい」と思えるようになった。

 すると不思議なことに、あれほど頑なに閉じていたはずの記憶の扉が徐々に開き始めたのだ。


 そう、私の最初の記憶は、大橋家の屋敷の路地なんかではない。


 江戸本郷菊坂の天野家だったのだ。


 下町の狭っくるしい裏長屋の四畳半。


 私は、そこで父と母と三人慎ましく暮らしていた。


 染物職人の娘、天野留として。


 父ひとりの少ない稼ぎしかない私たち家族は、裕福とは言えなかった。

 だが、今でもあの頃の自分はとても幸せだったように思う。


 幼い頃の私は、泣いていても将棋の駒を渡すとぴたりと泣き止んだそうだ。


 ――女の子なのにずいぶん変わった子だなぁ。将棋好きのおとっつあんに似たんじゃねぇか。


 近所の誰かが縁台将棋を指しながら、幼女の私に向かってそう笑って言った。

 

 夕方家に帰ると、母親が私を暖かく包み込むようにして出迎えてくれる。

 父の帰りを二人で待ちわびながら、私はいつも優しい母と一緒に夕餉をこしらえていた。


 そんなある日。

 いつものように家族三人揃って夕餉を食べようとした矢先のことだった。


 「お二人とも。長い間、本当にご苦労様でした」


 全身を震わせた父と母が、冷たい土間に手をついて平伏していた。


 「ははぁーー!」


 二人が頭を下げている玄関先には、十徳姿の銀髪の青年が立っていた

 その後ろに同じ格好をした男たちがもう二人ほど控えているのが見える。


 六歳の自分は何が起きたのかわけがわからない様子で、この美青年の顔をじっと見つめているしかない。


 不意に、玄関の戸口の方を見やる。


 隣に住んでいた幼馴染の市川太郎松が、不安げな顔でこっちを睨んでいた。


 ——なにしてるの、ねぇ、助けてよ! 松にぃ!


 なぜだろう?


 私は言いようのない不安を覚える。

 だから兄のように慕っていた彼に助けを求めたのだ。


 ところが恐怖で全身がすくんでしまって、うまく声が出てこない。


 銀髪の青年が、そんな怯える私を見て優しい声で話しかけてきた。


 「ようやく迎えに来られたよ、お留。さぁ、私と一緒にお家に帰ろうね」


 その瞬間。


 優しかった母が、激しくむせび泣いた。


 ――ああ、これでもうおしまいなのだ。


 私は、終わりが突然にやってきたことを悟り、そして慟哭した。


 父も母も私のことを追いかけようとはしなかったからだ。

  

 そう。


 私は、将棋が好きで自ら将棋家に入門を志願したのではなかった。


 名人を目指すために、望んで男装したわけでもなかったのだ。


 私はあの日突然――


 将棋家にさらわれたのだ。


 ――弐――


 草木も眠る丑三つ時(午前三時ごろ)。


「うううう……」


 四宮金吾が屋敷の客間で一人眠っていると、どこからか苦しそうな呻き声が聞こえてきた。

 目を覚ました金吾は、その声に耳を傾けて研ぎ澄ます。


 呻き声は、隣の「飛燕の間」の方向から聞こえてきた。


(まさか、ひょっとして……。天野宗歩が俺の目を盗み盤上で検討しているのか?)


 あらかじめ定めた決まりでは、対局場に対局時間外に入室することは一切禁じられていたはず。


「あうううう……」


 とても苦しそうな、悲しそうな声だった。


 数時間前。

 初日の対局を終えたとき、すでに家中の者達は戦勝祝いの宴を開き始めた。


 ――鳥刺し名人、四之宮金吾の勝勢である!


 彼らが騒ぐのも無理はない。

 江戸の将棋家からやって来た俊英を相手に、得意の戦法で見事に優勢を築いたのだから。

 だが、当の本人である金吾だけは、まだまだ予断を許さない状況にあると冷静に考えていた。


 なぜなら天野宗歩には奥の手がある。


 絶対に油断はできない。


 とはいえ、ひとまずここまでの展開に限って言えば、出来すぎとも言えるほどに金吾の予定通りであった。

 このまま何も起きなければ、初戦についてはまず勝てるだろう。

 そうなれば、二局目は待望の平手戦へと移行する。


 平手戦になったとしても、天野宗歩が鳥刺し定跡を打開することは、金吾には難しいように思えた。

 なぜなら、金吾はこの鳥刺し定跡の盤面を幾年も費やして何十、何百という変化手順にまで渡って研究し尽くしていたからだ。

 宗歩が十分な時間をかけてその一つ一つの手順を検証すれば、その間隙を突かれる恐れもあるだろう。

 だが、明日で決着がつく。

 そんな時間も余裕すらも、今の宗歩にはなかったはずだった。



「うううう!」


 呻き声がどんどんと大きくなってきた。

 ひょっとして、何か体の具合でも悪くなったのだろうか。


「ちっ」


 金吾が舌打ちをする。


 しかたないなという感じで自分の部屋から襖を開けて、隣の「飛燕の間」に入った。

 入室を禁じられてはいるものの、大事あってはそうも言っていられない。

 暗闇の中、慣れた目だけを頼りにだだっ広い部屋の中央を横切っていく。


 そこには、指し掛けの局面のままの将棋盤が鎮座されてあった。


 不意に、金吾の足どりがそこで立ち止まる。


 なぜか気になってぼんやり盤上を眺めていると、宗歩の飛車がまるで鳴門の海で見たあの駒鳥のように思えてきた。

 紅色の駒鳥が、金吾の作った頑丈な鉄の鳥籠の中に閉じ込められているのだ。


 刹那。


 その窮屈そうにしている鳥が、金吾の方を物凄い剣幕で睨んできた。


 ぞわ。


 金吾の背筋に強烈な悪寒が走る。


 何かとても嫌な感じがしたのだ。


「ううう!」


 再び呻き声が隣の部屋から上がるのを聞いて、金吾は我に返った。

 どうやら宗歩は自分の部屋の寝床にいるらしい。

 慌てて宗歩の部屋の方へと向かう。

 襖越しに膝を折り曲げて、低い声で囁いた。


「もし、天野殿……、大丈夫か?」


 返事が無い。


「天野殿……。良いか、開けるぞ」


 もしやと思い、金吾は思い切って襖を開く。


「!!」


 寝床には、天野宗歩がすやすやと眠っていた。

 どうやら夢を見てうなされていただけのようだった。


 ほっととしたのも束の間。


 金吾は、眠りこける天野宗歩の姿を見て、激しく驚愕した。


「な!? お、女だと……!」


 そこにいるのは確かに天野宗歩本人に違いなかった。

 だが対局の時には全く気づかなかったが、その寝間着からはだけた胸元には確かに女の膨らみがはっきりと見て取れたのだ。


 金吾の驚いた声に、今度は宗歩が突然目を覚ました。


「むにゃ、むにゃ……。ほへ……? きゃあっ!」


 いきなり自分の寝床の側に男が突っ立ているのに驚いて、宗歩が素っ頓狂な声を上げる。


「ま、待て! 勘違いするな。お主が呻き声を上げているから心配で見に来てやったまでだ」

「じーっ……」


 はだけた胸元の襟を正しつつ、警戒をあらわに見せる宗歩。


「はっ! そ、そうでしたか……。それは申し訳ございません」


 状況を理解したのか、宗歩が寝床の上で姿勢を正して、金吾にお辞儀をする。


「それにしてもお主……、女だったのか?」

「!?」


 宗歩は、金吾に自分の正体を見られてしまったことに今さらのように気づく。


(しまった! 迂闊だった!)


 だが見られてしまったものはしょうがない。

 宗歩もここに至って腹を括ることにする。


「ふぅ。……そうです。私は女なのです。故あって将棋師として活動するために男装しているのです」

「ぬぅ……。これはなんとも驚きだ」

「あの……いけませんか? 女が将棋を指すのは……」


 宗歩が恐る恐る金吾に尋ねる。

 女でありながら、それを偽って将棋師を語る。

 ひょっとしてこの勝負、私の負けでしょうか?と聞いているのだ。


「うん? いや、そんなことは一向に構いはせぬが」


 無段の自分が、将棋指南役をやっているくらいなのだ。

 何をそんなこと気にする必要があるのだろう。

 金吾は、あっけらかんとそう言ってのけた。


「そ、そうですか! 良かった!」

「ああ。女でも子供でも将棋が強ければそれでよい、と拙者は思う。だが、恥ずかしながら家中にはそのような些事に拘る者も少なからずおる。伏せておいた方がよいだろう」


 宗歩の顔が、ぱぁっと晴れたような顔になる。

 今まで真剣勝負をしてきた連中には、相当危険な人物もいた。

 宗歩の正体が女であることを知れば、それを弱みに脅迫したりする者もいたかもしれない。

 やはり男装をしておくに越したことはないと考えていた。

 

 だが——


(この人は、すごい人だ……。段位や家柄、性別にも一切の拘りがない。ただ真剣勝負にのみ徹しているんだ)


 宗歩は、四宮金吾と言う男がひとかどの人物であることを確信した。


「ところで……なにやら、ずいぶん酷くうなされておったようだが……。その、大丈夫か?」


 金吾が心配そうに宗歩に尋ねた。


「え!? あ、はい。……ちょっと悪い夢を見てしまったようでして」

「そうか。慣れぬ土地で大勢のむさっ苦しい男どもに取り囲まれていたのだ。要らぬ神経を擦り減らせてしまったかもしれんな。すまぬ、許せ」


 金吾が、慇懃に宗歩に向かって頭を下げる。


「いや、そんな、あなたが謝らないでください! これは真剣勝負なのですから。仕方ありませんよ」

「……そうか。おぬしは、将棋だけでなく心まで強いのだな」

「いえ……。私は……ぜんぜん強くなんかありません」

「そんなことはない。こんなにも若く美しい女子おなごだというのに……」

「え!?」


 二人の間に、微妙な沈黙が続く。


「では、これにて失礼する。女とは言え明日は手加減せぬぞ。ふふ、さらばだ」


 そう言って金吾は少し照れたように、はにかんで見せた。

 真剣勝負の時には絶対に見せない、将棋が大好きな少年のごとき笑顔だった。


 金吾が静かに部屋から出て行った後も、暫くの間宗歩は布団の上で呆然としていた。


(ほ、惚れてまうやないかーい!!)

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