第四十八話 将軍と名人

――壱――

 「余は、そもそも将棋を父上から学んだのだ」


 十代将軍徳川家治が、紙片に描かれた十文字の「曲詰め」を見ながらおもむろに話し始めた。


 家治いえはるの父は、家重いえしげと言う。

 八代将軍吉宗の嫡男であり、九代将軍でもあった。

 吉宗が御三家の紀州藩から江戸にやってきて、家重は生まれた。

 

 荒指し伊藤宗看には、家治がこの語りを自分たち二人というよりも、眼前にある「曲詰め」に向かって独白しているかのように見えた。

 二人の相槌も待たずに、家治はしばらく語り続ける。


「余は、将棋のおかげで父と真に心を交わせたように思う」


 生まれつき言語に障害を抱えていた家重は、会話が不自由だった。

 祖父吉宗は、家重に代わって聡明で利発な家治に直接教育を施した。


 父家重は、家治に何もしてやれないことを苦悩する。

 そんな彼が一切の言葉を交わさずに、我が子と心を通わせたのが将棋だったのだ。

 少年家治には口をきかずともその指し手を見れば、父の苦悩と悲しみを理解することができた。

 

 直接の言葉を用ずとも、人と人は将棋で心を通じ合わせることができるのだ。


 ――棋は対話なり。

 

 家治の人生は、将棋に包まれていたと言って良い。


「そう、倫子ともこも同じようなものだったな――」


 家治の正室は倫子ともこと言い、京の由緒正しき皇族のお姫様だった

 家治十二歳、倫子十歳の時に、二人の婚礼が正式に決定する。

 家の都合により定まった早すぎる婚約だった。


 六年後。

 十八歳になった家治のもとに、十六の姫様が京からはるばる嫁ぎにやって来た。

 家治にはその少女が何か得体のしれない生き物のように最初見えた。

 京訛りの言葉遣いだけでなく、公家育ちでなんでもおっとりしている倫子の所作振る舞いが一層そう感じさせたのかもしれない。


 そんな互いに何も分からぬまま夫婦になってしまった二人が、初めて心を通わせたのもやはり将棋だったのだ。


 それは婚姻して間もないある夜のことだった。

 将軍の嫡男が住む江戸城西の丸。

 家治は自室でいつものように「詰め物」を作っていた。

 何時間もああでもない、こうでもないと頭を悩ませては、盤面をぐちゃぐちゃにしては盤面をまた戻して試行錯誤を続けていた。


 家治は勝ち負けを決める「指し将棋」よりも、一人で将棋の世界に耽溺できる「詰め物」の作成をむしろ好んでいた。

 偉大なる先人、三代伊藤宗看や弟の伊藤看寿が作成した献上詰将棋図式「無双」、「図巧」をこよなく愛読し、いつか自分もこんな芸術品を作ってみたい、そんな憧憬を誰にも知られぬよう、ひっそり胸の内にひそませていた。


 それでもなかなか進展しない「詰め物」の自作をいったん中断して、家治は気分転換にお好みの「詰め物」を観賞することに切り替える。

 盤上に一通り駒を並べ終わったところで、厠へ立ち去った。


 そんなとき、倫子が家治の部屋にやって来たのだ。

 倫子は、実は好奇心旺盛な少女だった。

 自分に距離を置こうとする家治に対しても、健気に気を引こうとする。

 いつまで待っても自分の所に遊びに来てくれない彼にとうとう痺れを切らし、彼女の方から押しかけてきたご様子。

 そっと家治の部屋の襖を開けて忍び込む。


「ほぉ、ここが家治様のお部屋であらしゃいますか。意外と狭もうあらしゃいますね」

 

 倫子はそう独り言ちながら周囲をきょろきょろと見回す。

 そうして「自分の席はこれからここにしよう」と勝手に決めて、部屋の隅っこにちょこんと座り、家治が戻るの待つことにした。

 そんなときだった。

 この狭い部屋に似つかわしくないほど大きな将棋盤を見つけたのだ。


「はて、これは何であらしゃいます? 将棋の駒がようさん入り乱れておるであらしゃいますが……。それに片方には王将があらしゃいまへん」


 倫子は、京で女房達とたわむれに将棋を指したことがあったが、これはそれとも違っているように見えた。


「おい、何をしている」

「っ!」


 盤面を見ていた倫子が声のした方に振り替えると、家治が立っていた。

 厠から戻ってきたのだ。

 

「家治殿……。おかえりなさいませ。あの、これは一体何であらしゃいますか?」


 恐る恐る倫子が、家治にそう尋ねた。

 家治は「勝手に触るでない」とぶつぶつ言う。

 だが、倫子が将棋に興味を示していることが無性に嬉しくなり、少しだけ気を許す。


「これか? これはな、『煙詰め』という」

「煙詰め……? はぁ、おもしろそうな名であらしゃいますなぁ」

「うん、まあ見てなさい。こうやって王手をかけ続けていくと……」

「あらまぁ、将棋盤の上からどんどん駒が消えていく……」

「そう。すべての駒三十九枚を余すことなく盤上に配置し、煙のようにするすると駒が立ち消える。そうして最後には玉将含めたった三枚しか盤上に残らない。だから『煙詰め』だ」


 無機質な盤上の上で天文学的ともいえる無数の変化の中から、たった一通りの道筋を見つけ出し、そこに「作意」という名の魂を乗せる。

 倫子にはまるでそれが奇跡によって作られた芸術作品のように見えた。


「すごい。これ、家治様がこさえはったんであらしゃいますか?」

「いや、これは将棋家の将棋師が作ったものだ」

 

 神局とまで評された伊藤看寿作の詰将棋作品集「図巧」。

 その中でも最高傑作のひとつ、第九十九番「煙詰め」だった。

  

「へぇ、将棋家てほんまにすごいであらしゃいますねぇ」

「ああ。私もいつかこんな作品を作ってみたいものだ」


 家治は今まで誰にも明かしたことがない心の内を、思わず倫子に吐露した。


(しまった。迂闊なことを……)


 将軍の子なのに、将棋に打ち込みたいなど恥ずかしくて誰にも言えなかった。

 もし誰かに知られれば、父と同じように影できっと馬鹿にされるに違いない。

 そんな風に家治が怯えていると、とても優しい顔をした倫子が、

「完成したら、ぜひ私にも見せてくだしゃりませ。約束でごじゃりますよ」と言ってくれたのだ。


 それからというもの、倫子はいつも部屋の隅に座って、家治が詰将棋を作るのを後ろから嬉しそうに眺めていたそうだ。

 そんな風にして、家治と倫子は仲睦まじい夫婦めおとへとなっていく。


 将軍に就いた家治は、倫子との間に嫡子が恵まれなかった。

 お世継ぎのためと側室を設けることをやたらと進言してくる配下達に、家治は相当渋ったそうだ。

 結局二人の側室との間に嫡子を設け、それ以降は倫子のみを愛し続けた。



 そんな倫子が、若くして病に倒れるときがやって来た。



「倫子。死ぬな。余を……おいていかないでくれ」


 倫子は、すでに奥医師にも見放され、ただ迎えを待ちながら床に伏していた。

 そんな倫子の弱りきった手を握り締め、ただただ子供のように泣き暮れる家治。


「……家治様……。倫子は……幸せにございました」

「いやだ。死ぬな!」

「家治様…………、聞いておられますか?」


 ああ、もう目が見えていないのだ。

 倫子が家治をの姿を探すよう、虚ろな目を左右に泳がしている。


「どうした!? 余は、余はここにいるぞ!」


 ――家治様


「ああ、なんだ?」


 ――いつか立派な詰め物が完成したら、私にも見せてくだしゃりませ。


「…………ああそうだな、必ず、必ずや完成させてみせる!」


 倫子、享年三十四歳。


 家治、三十六歳のことだった。

 

 

 家治はそんな昔のことに思いを馳せながら、宗看と宗英の目の前にある将棋盤に生涯渾身の「詰め物」を並べ始めていた。

 そうして出来上がった十文字の盤面を悲しげに、だが愛おしそうにずっと眺めている。


「ようやく完成したのだ。宗英よ、見てはくれぬだろうか?」


 すでに先ほどから鬼のような形相で紙片と戦っていた宗英に、この作品が完全作か不完全作かを尋ねているのだ。

 「詰め物」は一度完成したと思っても、たった一箇所の不備が見つかれば作品として不完全とみなされる。

 自分の愛すべきこの作品に思わぬ傷がないか、当代一の将棋師である大橋宗英に推敲を頼んだのだ。


「ふむ……いや……これは」


 宗英がほんの一瞬だけ苦い顔をした。

 が、すぐにその瞳が清流のように澄みきって、家治ににこりと微笑んだ。


「上様、お見事でございます。四十九手詰め、でございますな」

「おお……おお! そう、まさにその通り。ああ良かった。倫子見ているか、ようやく完成したぞ」

 

 家治が、うわ言のように空に向かってそう呟く。


 ――弐――

 「そろそろでございます」と近習が部屋の外から声をかけてきた。

 いよいよ正午を迎え、奥御用が終わろうとしている。


 その時だった——


「大橋宗英。……将軍とは一体なんであろうな?」


 突然、家治が宗英に向かって雲を掴むような質問をする。

 普段は冷静沈着な宗英も、さすがにこれは予想外だったのか目を見開いて驚く。


「…………」


 沈黙するそんな若き未来の名人に対して、家治がさらに問う。


「では、幕府とはそもそも何のためにある?」


 側で聞いていた宗看にも、この問いが宗英にとって後に重要な意味を持つことをなんとなく理解し始めていた。


 家治はわれわれ将棋家に何か重要なことを伝えようとしているのだ。 

 だからこうして、次代を担う若いこの二人をわざわざ呼んだのかもしれない。


 問いに応えようとしない宗英を見て、家治が今度は宗看のほうに振り向いた。

 「お前はどう思う?」と聞いているのだ。


「お、畏れ多くも公方様はこの世にただ一人の天下人でありまする。さらに幕府とはその公方様御ためにあるものにございまする」


 宗看のこの言葉を聞いても、家治はうなづくばかりで何も言おうとしない。

 そんな中、宗英がようやく重い口を開いた。


「幕府は太平の世を築かんとするためにあり、将軍はそのための捨て駒に過ぎませぬ」


 宗看は、この発言を聞いて思わず肝を冷やした。

 よりにもよって天下の将軍様を「駒」に喩えるなど無礼千万ではないか。

 このまま二人とも首を跳ねられても文句の一つも言えない暴言だとすら思った。


 だが家治は、その優しい眼差しで宗英の方をじっと見据えた。

 そうして、今まで一度も見たことがないような柔和な顔つきになって、

「そうだ」と答えた。

 

「その通りだ宗英。よくぞ言ってくれた。そう、将軍は駒にすぎぬのだ」


 将軍の子として生まれ落ちたはずなのに将棋を愛してしまった自分のことを、なんの飾り気も無く「駒」とはっきり言ってくれたことがすがすがしかった。

 

 ――あなたは生粋の将棋指しなのです。それはそれで良いではございませんか。


 いよいよ最後の時がくる。

 家治は、将棋盤を真っ直ぐに指さして、

「余がもしも……来世に町人の身分にでも生まれ変わったなら――」


 ――お前たち将棋家に挑戦する在野の将棋指しになってみたいものだな。


 血筋や家柄にとらわれない、自由闊達な将棋指しになりたい。


 宗英と宗看に向かって、家治は確かにそう言ったのだ。


「宗英よ。将軍が駒ならば名人もまたしょせんは駒に過ぎぬ。ゆめゆめ将棋師としての気概を忘れるなよ」

「は!」


 家治は宗看にも、「もちろん、お前もだぞ」と言って微笑みかけてくれた。


「ははーっ!」


 この二年後に徳川家治はこの世を去る。


 この十代将軍の評価は難しい。

 だが将棋の歴史において、形骸化しつつあった将棋家に新たな刺激をもたらしたのは、この風変わりな将軍様だったのかもしれない。


 専門的で敬遠されがちな将棋家の仕事を、よき理解者として評価してくれたことは、当時の将棋師たちにとって自信と誇りをもたらしたに違いない。

 なによりも分家の庶子という目立たない出自ながら、後に「近代将棋の父」となる大橋宗英が、若くして世に出たのはまさに徳川家治の治世であった。

 このことは決して偶然ではなかったように思う。


 家治の死後、「奥御用」も「玄素戦」も当然のように廃止される。


 この後将棋家は、幕府崩壊の兆しとともに、衰退の一途をたどることになる。

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