第四十七話 曲詰め

 御城将棋から一ヵ月後の十二月半ば。 

 江戸にもとうとう冬将軍が訪れて、一段とその寒さが厳しくなってきた。 

 今朝になってからしんしんと雪が降り始め、市中にも凛とした空気が張り詰めている。


 頭巾を被った二人の覆面の男が、日もまだ昇らない暗闇の路地を、足早に歩いていた。

 男の一人は雪よけの合羽を羽織っており、片方の手には伊藤家の家紋が描かれた提灯を握り締めている。

 先の日に、人生初の御城将棋を終えたばかりの「荒指し」伊藤宗看であった。

 宗看は不安げな顔で、自分の横を無言で歩き続けるもうひとりの男に声かけた。


「宗英殿、我々は御城へ一体何をしに参るのですか?」

「……」


 二人が隠密裏に目指すべきその先こそ、あの江戸城だったのだ。

 大橋分家と伊藤家の拝領屋敷がある麻布から御城までの道すがら、事の詳細を把握し切れていない宗看が、分家当主の大橋宗英にそう尋ねた。

 だが宗英は「黙ってついて来い」と言わんばかりに終始その口を閉ざしている。


 御城将棋が終わったその一月後のことだった。

 宗看が、本家当主の九代大橋宗桂から突如招集を受けたのだ。

 宗看は御城将棋で何か粗相をしてしまったのかと不安になり、慌てて本所にあった大橋本家の拝領屋敷へとおもむいた。

 

 ——明日、伊藤家六代宗看に奥御用を命じる。


 九代宗桂は、屋敷に来たばかりの宗看にそれだけを告げた。

 その後無言で、一通の書状を彼の手元へ差し出す。


「こ、これは……?」

「その上に血判せよ」


 宗看が書状の内容を読むと「奥御用の際に見知ったことは、たとえ家族であっても一切他言無用とすべし」など守秘の約束事が物々しい書きぶりで記されていた。


 まごうことなき誓約書だった。


 さすがの宗看も、奥御用が尋常ならざる役目であることがこれで良くわかった。



 伊藤宗看と大橋宗英は、先月と同じように大手門をくぐったあと中雀門を通り過ぎ、本丸御殿玄関を訪ねる。

 案内役に導かれて白書院を通り越し、さらに黒書院の目の前までやって来た。

 なぜだろう。

 先日ここで対局したばかりというのに、宗看にはそれが遥か昔のことのように感じられた。


「またここでございますか?」と宗看が宗英にそっと尋ねる。

「いや、まだこの先になる」と宗英は冷静に応えた。


 そのまま黒書院を通り過ぎ、中庭が見える廊下へと出た。

 まるで迷路のようだ。

 いや実際ことが起きた場合に備え、わざと迷うように作ってあるのだろうか。

 さらに橋のように架かる渡り廊下を通り過ぎてその奥へと進んでいく。

 

 宗看は父に江戸城の簡単な間取りをあらかじめ聞いていた。

 江戸城本丸御殿は、三つの構成に分かれている。

 すなわち大広間、白書院、黒書院のある幕府としての「表」、将軍の私室や休憩所がある「中奥」、そして説明不要の「大奥」である。


 (そうだ、たしかもうこの先には……)


 (中奥と大奥しかないはずだ)


 奥御用―—


 それは将軍徳川家治への将棋の個別指導。

 将軍の個人的な居室がある中奥に、将棋家が直接訪ねて教授する。

 こんな特別の対応をさせたのは、徳川将軍の中でも家治ただ一人である。

 奥御用は、家治が将軍に就任してから間もなく開始され、その指導の回数たるや一番多い月では十数回にまで上っていた。

 通常その役目は、時の名人や大橋本家の当主が勤めることがほとんどだったので、宗看にはこの役目について特に知らされていなかった。

 だが、このときは珍しく若手の大橋宗英と伊藤宗看の二人が、家治に指名されていた。

 

 中奥へと続く大きな襖が左右に開く。

 ここから先には案内役は進むことができない。

 代わって、将軍の身の回りの世話をする「近習きんじゅう」と呼ばれた小姓がこの先の案内をつかさどる。

 宗看は、将軍が住むというこの中奥に進入することが、ひたすらに恐れ多いばかりだった。

 

 若い近習が、中奥上部にある「御座之間」、家治の自室の前まで案内してくれた。

 宗英とともにその部屋の襖の前で平伏してじっと待つ。


 「入れ」

 とすぐに中から聞こえてきたので襖をそっと開け、また頭を下げた。

 

 「構わぬ。おもてをあげよ」


 そこには、つい先日もお目にかかれたばかりの十代将軍徳川家治がいた。

 彼は、いつもそうしているのか独りで将棋盤の前に座っている。


 家治の恰好は、形式ばったかみしも姿ではなく、絹の着流しを着ていた。

 そのせいか、以前とは違い近寄りがたい雰囲気が控えられ、むしろ気さくな印象さえ受けた。

 

「よく来たな、まあ座れ」

「は!」


 家治がそう命じると、宗英は慣れた所作で将棋盤の前に静かに着座する。

 一方の宗看は、至近距離に将軍がいることが畏れ多くて、まだ頭すら上げることができない。


「宗看殿。さぁ、顔を上げて隣へ」


 緊張でこわ張る宗看が、そう言われて初めて身体を動かすことができた。

 それぐらい将軍の存在に緊張していたのだ。


「先日は大儀であった」

 

 宗看はしばらくそのまま沈黙していた。


「コホン」


 宗英に空咳されて、ようやく自分が褒められていることに気づく。


「ははーっ!! ありがたき幸せにござりまする!!」と威勢よく返事した。


 そんな宗看の態度に少し驚いた様子の家治が、ふっと笑みを浮かべる。

 

「まぁ、おまえの指し回しは少々荒っぽすぎるがな」と家治はあっさりその手の平を返した。


「はっ……、ははーっ!?」

「そうだな。乱世であれば単騎駆けして無駄死にする猪武者のようだ。まさに評判どおりの『荒指し』よの。はっはっは」

「は……ははぁ……?」と首をかしげる宗看。


(結局将軍様に褒められたのか、けなされたのか良くわからなかったぞ……)


「せいぜい、今後も励めよ」

「ははーっ!」

 

 将軍自ら棋譜を並べてくれたことが、宗看には涙が出そうになるくらいうれしかったのだ。


(俺は……この御方のためになら命に代えてでも将棋家を守り通す所存だ)


 この後しばらくの間、大橋宗英が徳川家治の指導対局の相手を務めた。

 先手の家治は、居飛車の戦法「横歩取り」を選択する。

 序盤から飛車角が盤上で火花を散らす相当激しい戦型だ。

 将棋家でもまだ研究があまり進んでいないこの最新戦法を、すでに齢五十を向かえようとしているこの老人が十分に指しこなしている。

 そんな家治の研究熱心さに、宗看の心が熱く打たれた。


 終盤に入ると、宗英は持ち駒を惜しみなく捨てて、家治の玉将を「必死」の形に持っていく。

 必死とは、文字通りの意味で次に手番が回ってくれば、相手は絶対に受けようがない状態のことを言う。

 したがって、必死をかけられた方が生き残る道は、必死をかけてきた相手の玉を先に詰ますほかない。

 これで家治の玉将には逃れる道が完全に無くなったのだ。


「ふむ」


 家治はそう言ってしばらくの間じっと考え込む。

 もちろん宗英の王将を詰ます筋道を深く広く読んでいるのだ。


 盤上没我――


「よし」


 家治が、おもむろに駒台に置かれた持ち駒を手に取った。

 その駒を盤上に音も立てずにそっと置いた。


 王手である。


 その後、瞬く間に互いの応手が数手連続する。

 まさに剣豪同士の激しい打ち合いのようだった。

 こうして間髪入れずに正しい手を指し続けられるのは、家治も宗英も既に読み切っている証拠だ。


「参りました」


 大橋宗英の方が頭を下げた。

 家治が宗英の王将をきっちり詰まし切ったのだ。

 もちろん宗英は自分の玉に詰みがあることを、すでに前から悟っていた。

 だからこそわざと家治の玉将に必死をかけて、その退路を無くした。

 家治に対して「詰ませるものなら詰ましさい。しくじれば討ち取る」という指導だったのだ。

 二十九歳の若き俊英が、齢五十にまで差し掛かる天下人相手でも一切へりくだった様子がない。

 これこそが将棋家の将棋師のかがみであった。

 さらに若い宗看には、このとき名人の器というものが垣間見られたような気もした。


 終局直後、しばらく二人は無言で盤上を見つめ続けている。


「そうだ、宗英。これを見てはくれぬか?」


 家治が、ふと思い出したかのように突然その口を開いた。

 手元の文箱から一枚の紙片を取り出して、目の前の宗英に手渡す。

 宗英はその折りたたまれた紙片を左右に開き、その中を見る。

 側に座っていた宗看も横からそれを覗き込んだ。


 そこには――


 盤上に十文字に駒が並べられた、魔訶不可思議な図面が描かれていた。


「これは……」

「余が作ったのだ。十年以上もかかってしまったがな」


 この十文字の図面は、「詰め物」(詰将棋のこと)だった。

 後に徳川家治が編纂した詰将棋図式「御選将棋技格図式」の第二十五番に掲載されることになる有名な「曲詰め」である。

 曲詰めとは、詰将棋の最初の形や最後の詰め上がりの形が、特定の図形や文字をあらわす作品のことを指す。


 詰将棋の作成は、それを解くよりも何倍も難しい。


 解くのであればたった一つの正解を発見すれば、ひとまずは良いだろう。

 だが詰将棋の作成ともなれば、あらゆる変化手順を読み切り、無数の誤謬を取り除き、たった一つの光明を盤上に示さなければならない。


 そこに一切の偶然はないのだ。


 作者の意図しない手順で思わず詰んでしまえば、それだけで作品としての芸術性が削がれてしまう。

 ただでさえ孤独で困難な詰将棋の作成において、文字や図形という制約をあえて自分に課すこの「曲詰め」の作成は、まさに一種の狂気と呼ぶべきものがある。


「余はな、そもそも将棋を父上から学んだのだ」


 徳川家治が、そんな自作の「曲詰め」を見つめながら、おもむろにそう話し始めたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る