第五十五話 秘剣鳥刺し

 撫養むやの夏は厳しい。

 炎天の照りつける陽射しが、その肌を容赦なくじりじりと焦がしながら焼く。


 海の上。

 小舟がゆらゆらと頼りなく揺れていた。

 晴天のもとで強い風が吹いているのだ。


 壮年の色黒い男が、その上に立っていた。

 木の帆を両腕に持って、器用ながらにゆっくりと漕いでいた。

 男の脇には大小の刀が差さっている。

 このことから見て、彼が武士であることには違いない。

 だがぼろぼろの着物姿からは、船乗りと呼んだ方が自然にも見えた。


 船は少しずつではあるが、真っ直ぐに進む。


 男の目指すその先に、小さな離島が間近にまで見えていた。

 撫養の港から出発してから、すでに一時間はたっていた。


「もうすぐです」

「そうか」


 男が、先ほどから船尾にじっとしがみ付いている青年に声をかけた。

 青年は余裕がないように見え、弱弱しくそう返事する。

 荒々しい青海波をまとも受けて、船体が激しく左右にぐらりと揺れる。

 あわや転覆しそうになる船に、青年が不安を感じていることは明らかだった。


 青年は、船を漕ぐ男と打って変わって肌がやけに白かった。

 体も華奢で、まるで男装した女のようにも見える。

 日除けの日笠を被っているから、その表情まではっきりとは分からない。

 だが身に着けている着物は、絹の相当上等なもの。

 細い腰にはしっかりと立派な二本の刀も携えていた。


 しばらくそのまま船を漕ぎ続け、離島の船着場までようやく二人はたどり着く。

 船から降り地に足を着けた青年が、ふぅっと息を吐き、島の周囲をぐるっと見回した。

 青年の目の前には小高い山があるだけだった。

 人家や建物がとくに見当たらないことから、きっとここは無人島なのだろう。


「この上です」


 男が青年に向かって無造作にそう言う。


「これを……登るのか?」

「はい」


 小高いとはいえ、急勾配の切り立った絶壁の山である。

 青年が少しだけうんざりしたような顔をする。

 だが、そんなことも構わずに男の方はずんずんと歩き進んでいく。

 男の行くその先には、まったく整備されていない山道がうっすらと見えた。

 山道。

 いや、藪を漕いでいくような獣道と呼んでもいいだろう。


 突っ立っていても仕方がないので、青年も同じように山域に足を踏み入れる。

 その途端、体中から汗がどっと噴き出した。


 山中は、たくましく育った木々のせいで、空がしっかりと覆われていて薄暗い。

 草木が周囲にみっしりと敷き詰められているから、風が一切通らない。

 湿気が充満していて、とてつもなく蒸し暑いのだ。

 昨晩までの雨を地面が吸い込んでいることもさらに拍車をかけていた。


 異常な湿度のせいで、青年は一瞬だけ頭がくらっとする。

 その瞬間、脳裏に撫養の町でのやり取りがかすむ。


 ――余も連れて行ってはくれぬか。


 青年がそう頼むと、男は少し困った顔をする。


 ――険しい山道ですが。よろしいのですか?


 ――ああ、構わぬ。一度目にしてみたいのだ。


 青年は、目の前を黙って登り続ける男に、ここに連れてくることを頼んだ。

 なぜなら、この先にずっと見てみたかったものがあったからだ。


「もうすぐそこです」


 男がまたそう言う。

 さっきからそればかりではないか。

 青年はじっと黙って山道を一歩一歩登り続けている。

 最後の急こう配を息を切らしながら、やけくそになって駆け上がる。


 その瞬間。


 ふと、視界が一気に開けた――


「おお!」

「鳴門の海です」


 山頂から、四方に広がる大海が覗き込めた。


 その遥か先にはうっすらと大きな島も見える。


 淡路島だ。


 青年は、山頂から目前に広がった海をじっと睥睨する。


 深い、深い、仄暗い青だった。


 紺碧。


 群青。


 激しい海流が蠢いているのが一目瞭然だった。


「なんと荒々しいのだ」

「あちらに」


 青年の感想には返事もせずに、男が右手をすっと伸ばした。


 青海の中心に――巨大な渦潮が轟々と白波を立てていた。


「あれが――鳴門の渦潮か」

「はい」


 まるで白い蛇が周囲の海水を飲み込んで、とぐろを巻いているように見えた。

 いや、むしろ逆なのかもしれない。

 蛇の方がこの一切の青に飲み込まれようとしてることに抗っているのだ。

 激しい水飛沫を飛び散らせて、白い大蛇が苦しみながらのた打ち回っている。

 だが海水は一向に絶えることを知らず、大蛇を海底へと引きずり込もうとしていた。


 青藍が白蛇を飲み込んでいるのだ。


 青年は、今度は海から空へと顔を上げる。

 見上げた瞬間、夏の強い日差しが目にかっと飛び込んできた。

 青年の細い目がさらにきゅっと細まる。


 少しずつその目を見開くと――


 雲ひとつ無い青天井が、無限に広がっていた。


 白藍


 蒼穹


 やはり、ここも真っ青だった。


 青年は思わずに、その天空に向かって左手をぐっと伸ばす。


 ――空と海、このあおこそが阿波の魂なのだ。


 ――では……自分は果たして一体何者なのだろう。


 ――この身にも、阿波魂を宿せるのか?


 青年は、物憂げな表情でじっと空を眺めつづけている。


 シュン!


 そのとき、青年の目の前を一羽の鳥が颯爽と通り過ぎた。


 橙と朱が混ざったような明るい赤色の小さな鳥。


 駒鳥だった。


 小鳥は、青空を背景にして華麗に虚空を舞う。

 自由に飛び交うその姿は、赤紅が青藍に染まることに抗うようにも見えた。


 青年がふとあることを思いついて、男に突然声をかけた。


「金吾――。お前にあれが斬れるのか?」


 天高く舞うあの小鳥をその腰にぶら下げた刀で斬れるのか、そう尋ねたのだ。


 金吾と呼ばれたその男は、返事をせずに柄に手を触れる。


 一瞬殺気を放つ。


 ザン!


 飛翔するその鳥に向かって、一気に刀を振り上げた。


 すると急に、二人の周りを先ほどまで旋回し続けていた駒鳥が、青い空に吸い込まれていく。

 そうしてそのまま消えていってしまった。


「必ずや仕留めて見せます。若」


 金吾は大刀をゆっくりと鞘に納めながら、青年に向かってはっきりそう応えた。

 『若』と呼ばれた青年も、その返事を聞いて嬉しそうに何度も頷く。


「よし、では余もそれを見届けよう」


 この青年の名は、蜂須賀斉裕はちすがなりひろという。

 徳島藩主、蜂須賀斉昌はちすがなりまさの嫡男だった。


 しばらく沈黙が続いた後に、金吾がおもむろに口を開く。


「若……」

「なんだ?」

「若は、我々の主君となるべきお方です。もっと自信をお持ちなされ」

「……」

「江戸者に、阿波魂を目にもの見せてやりましょうぞ」


 金吾の自信に満ちた顔付きを見て、斉裕も黙って頷いた。


「ああ、そうだな。よう言った金吾。江戸者に目にもの見せてやれ。頼むぞ」


 金吾が、蒼い空と海を交互に見やる。


 ――天高く舞い続けるあの鳥に、果たして俺の剣は突き刺さるだろうか。

 ――いや、必ずや刺して見せる。この『鳥刺し』に賭けて。


 二人はその後、撫養の町まで戻っていった。


 天保七年七月十日のことだった。

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