第五十六話 将軍の子

 阿波国、徳島城内の一室——


 徳島藩次期当主、蜂須賀斉裕はちすかなりひろが格子窓から城下の様子を見下ろしていた。

 

 「ふぅ」


 憂鬱な感じで深い溜息を一つつく。


 斉裕はこの春、十五になったばかりであった。

 日増しに大人へと近づくにつれて、最近とみに物思いに耽ることが多くなっていた。


 ――はたして自分は、いったい何者なのだろう?


 年頃の悩みと言えばそれまでだが、彼の場合は少々複雑な事情も絡んでいる。


「若! ここにおられましたか。ずいぶんと探しましたぞ」


 突然斉裕に声をかけてきたのは、世話役の佐々木征四郎だった。

 すでに老人の域に達している彼は、孤独な斉裕にとって心許せる数少ない一人である。

 城内の稽古場で弓術の修練をしていたはずの斉裕がどこにも見当たらず、どうやら方々を探し回っていたらしい。

 そんな征四郎に向かって、斉裕が突如として尋ねる。


「たしか明後日ではなかったか?」

「は……、と申しますと?」

「金吾の対局」

「おお! そうでございます。明後日、正午から脇町の稲田屋敷にて」

「余も是非に見てみたい」

「なんと、またそんな急な話を……」


 斉裕の気まぐれは、今に始まったことではない。

 わざと我がままばかりを言って、いつもこの老侍を困らせていた。

 つい数日前も、無断で撫養むやから小船で鳴門の海を渡り、行方をくらませたばかりだった。

 上からの言いつけを真面目に守ることだけが取り柄の征四郎。

 次期藩主を行方不明にさせたことに責任を感じたあまり、褌一丁で鳴門の海に飛び込んでしまったのだった。

 そんな征四郎の気苦労を知ってか知らずか、斉裕が悠々と質問を重ねてくる。


「たしか相手は江戸の将棋師であったな? 名はなんと申したか?」

「は、大橋本家の天野宗歩五段と。なにやら江戸では麒麟児と称されたほどの俊英だそうで」


 斉裕にとってこんな風に気兼ねなく話ができるのも、きっと征四郎ぐらいなのだろう。

 征四郎もそれが分かっているからこそ、斉裕の我がままを受け入れている。

 斉裕は、幼い頃から肉親に甘えることが許されなかった。

 むしろそのことが征四郎には心苦しく、そして不憫に思わずいられない。


「天野……宗歩。ふん! 江戸者が……」


 伝え聞いたところでは、江戸からやってきたその将棋師は、徳島の将棋指し四宮金吾に果し合いを申し出てきたようだ。


 この天野宗歩という若い将棋師。


 武者修行と銘打って各地の在野強豪を次々と打ち倒しているらしい。

 その快進撃は留まることを知らず、江戸から関が原を越えて京、大坂を蹂躙し、いよいよ今度は西国を巡っているとのこと。


 江戸の将棋家が、阿波の将棋指しに挑戦してきた。


 斉裕は、征四郎からこれを耳にしたとき激しく憤慨した。

 まるで徳川から外様の蜂須賀家に対する宣戦布告のように思えたからだ。


 そんなときだった。


 誰かが斉裕の耳元で囁き出し始めた。


 ――お前は、どっちの味方なのだ?


 ――お前は、一体何者なのだ?


 どうしてだろう。

 

 斉裕は無性に腹が立っていた。

 それは彼の出自に関わることだったからだ。

 斉裕は、藩主の蜂須賀斉昌はちすかなりまさの実子ではなかったのだ。

 

 では、斉裕の本当の父は一体誰なのか?


 それは、第十一代徳川将軍の家斉いえなりである。


 つまり斉裕は、将軍の子だったのだ。


 どうして将軍の子が、四国の外様大名の養子に?


 将軍家斉は、将棋好きで有名な先代将軍の徳川家治とは対照的に非常にたくさんの子供をもうけた。

 その数、ざっと五十人。

 斉裕は、その二十二番目の子として生まれたのだ。


 幕府は、将軍を継ぐべき家慶以外の男児を養子に出すことを決定する。

 養子の先には、将軍の子に相応しいように御三家を初めとする親藩、名門譜代が選ばれた。

 だが、なぜか斉裕の養子先は、四国の外様徳島藩が矢面に立ったのだ。

 徳島藩主の蜂須賀斉昌には嫡子がいなかったからと言われている。

 もしかすると年々財政が逼迫する幕府としては、裕福な外様大名との血縁関係を強化することが、政策上においても重要だったのかもしれない。


 斉裕、わずか六歳のときだった。


 おまえは将軍の子――


 斉裕としては、そのように言われても実感の沸きようがなかった。

 なにせ実の父とは会話をしたこともなく、母の顔すらほとんど覚えていないのだから。

 それでも徳島藩の家臣の中には、突然江戸からやって来たこの青年に露骨な警戒を見せる者たちも少なからずいた。


 蜂須賀家――


 すなわちそれは、太閤秀吉が木下藤吉郎と名乗っていたころからの重臣、蜂須賀蜂正勝(小六)の系譜。


 将軍の子――


 すなわちそれは蜂須賀家にとって、かつての宿敵である徳川とくせんの血を引きし者。

 斉裕だけでなく家臣の中にも複雑な思いを抱える者は少なくなかった。


 運命的にもかつての仇敵同志の間に挟まれてしまったのが、この斉裕だったのである。


 ――自分はいったい何者なのだ。将軍の子か? 蜂須賀の子か?


 政治の道具として養子に出されたことは、誰の目にも明らかだった。

 そうやって、割り切ってしまえばいっそ良いのだろう。

 王者徳川の血を引く者として、淡々とこの徳島藩を率いてゆけば良い。


 それだけのこと。


 至極単純な話ではないか。


 だが斉裕にとって、そう簡単に割り切れるものでもなかった。


 物心ついたときから、この阿波の国で育てられてきたのだ。

 この身体は、阿波の大地と空気と水で作られている。

 その実感の方が強かった。

 愛着もない江戸よりも、この阿波という国の方が大好きだった。


 だが――


 自分の体に流れる血は、紛れもない徳川とくせんのそれに違いなかった。

 日に日に成長するにつれて、それを身に詰まされることが多くなっている。

 噂では遥か年上の兄、家慶が第十二代将軍に就くことが決まったらしい。


 自分は江戸で一体どんな顔をして兄と合えば良いのだろうか。


 血を分けた弟としてか?


 蜂須賀斉裕としてか?


 もしも将来、幕府と徳島藩が対立することになった時、果たして自分はどちらを選ぶのだろうか?


 どちらかに決められるのなら、悩む必要などない。


 決められないからこそ、悩むのだ。


 斉裕のこの切実な問いが現実となる日が、もうすぐそこまでやって来ていた。


 ――弐――

 そんな蜂須賀斉裕が四宮金吾に初めて出会ったのは、数年前のことだった。

 城内で金吾が家中の者達を相手に将棋の指導しているときに、偶然斉裕が見かけたのだ。


「おい、あれは何者だ? 家中では見かけないやつだな」


 城内をぶらついていた斉裕が、家臣の詰め所で将棋盤を並べて多面指しをする一人の風来坊のような男を発見した。

 城内に勤める家臣達とは違って、髷は伸び切り月代さかやきも十分には剃られていない。

 身にまとった着物も粗野なもので、お世辞にも身分の高い侍には見えなかった。

 だが、その顔つきだけは並々ならぬ迫力があった。

 この太平の世において、斉裕が今まで見たこともないような殺気。

 異様な雰囲気を周囲に放つこの男に、斉裕は強く惹かれた。

 

「こたび将棋指南役に就きました、撫養の四宮金吾にございます」


 その頃の金吾は徳島藩の将棋指南役に就いたばかりだった。

 上方との藍交易が活発な徳島藩では、城下でも上方との文化交流が豊かだった。

 書画の大家が景勝を求めて阿波の地に留まることもあり、自然と囲碁や将棋などの遊戯や芸事に造詣の深い人物が訪ねて来ることも多かった。

 藩としても家臣達にそういった文化への理解に勤めるよう昔から奨励してきたのだ。


「将棋……。ほぉ、ではあの男は相当強いのか?」

「はい。四国ではもはや敵なしと、もっぱらの評判にございます」

「それは素晴らしい。この阿波にも藍以外に誇れるものが他にあったのだな」


 征四郎の話によれば、四宮金吾は阿波の下級武士の生まれ。

 若い頃に剣の腕を見込まれて、江戸に剣術の遊学に出たことがあったそうだ。

 ところが数年して江戸から戻ってきた金吾は、なぜか剣術よりも将棋の腕前のほうを上達していたらしい。

 金吾は江戸で一体何をしていたのだろうか?

 家臣達の憶測を余所に、金吾は誰にも詳細を語ろうとはしなかった。

 それでも、金吾の将棋の腕前は日に日に上達を見せ、四国各地を巡りめぐって、とうとう最近では「四国名人」と称されるほどにまで達する。

 徳島藩としても、数多の剣術師範の一人ではなく、稀有な将棋指南役として彼を起用する道を選ぶことにしたのだった。


「ところで、やつは何段だ?」


なにげなく斉裕が征四郎に尋ねると、途端に老侍が狼狽した。


「は……それが……無段にございます」

「なに!? む、無段だと……」


 斉裕の眉間に一気に皺が寄った。

 将棋家から発行される段位免状を持っていないということは「素人」ということをすなわち意味する。

 他藩の将棋指南役であれば、少なくとも五段以上の免状を持つ者が普通だった。


 斉裕は、詰所に入り金吾と家臣達の目の前までずかずかと進み歩いていく。

 そうして、家臣と対面する座に座っている四宮金吾に対してぶっきらぼうに声をかけたのだ。

 

「おい」

「は?」


 突然、後ろから斉裕に声をかけられて、他の家臣たちは即座に平伏する。

 だが、金吾だけは顔を上げたまま将棋盤を凝視し続けていた。


「この藩では、無段の者が指南役を勤めるのか?」

「……」


 一向に物言わぬ様子の金吾に対して、斉裕が苛立った口調でさらに言う。


「ふむ、やはり大藩といえども阿波もしょせんは田舎、ということか……」


 その言葉を耳にした家臣の一人が平伏しながら抗弁した。


「若! 恐れ多くも、四宮殿は四国では敵なしと評判の達人にございます! 決して田舎将棋などではござりませぬぞ!」

「はん! 柳営では名人を初めとし、由緒ある将棋家が将棋指南役を務めるのだ。お前もそれくらい知っておろう?」

「はは!」

「将棋師の中には八段や七段の手練れが幾人もおるらしい。それが無段とは……。なんとも嘆かわしい。やはりこの阿波では江戸と比較にならぬのか……」

「そ、それは……」


 四国で敵なしという評判に期待を膨らませていた斉裕は、がっくりと肩を落として憂鬱な表情でため息をついた。

 家臣たちも、江戸の名人を引き合いに出されては、と重く口を閉ざすしかない。


「お言葉ではございますが」


 そんな斉裕に向かって、突然四宮金吾が口を開いた。


「む! なんだ!?」


「将棋は――『段』で指すものではございませぬが」

 

「な、なんだと! 貴様!」


 金吾の超然とした態度に、斉裕が激昂する。

 だが、金吾の方はそれを全く気にしていない様子。

 周囲の家臣たちが、ざわざわとどよめき出した。


「これ、金吾! 若様の御前であるぞ! よさぬか!」


 慌てて、お付きの佐々木征四郎が止めようとする。


「構わぬ、征四郎! おい、四宮金吾とか言ったな? では申してみよ。お前は何を持って将棋を指すのだ?」


 金吾は自分の頭と胸をスッスッと指さした。


「それは――こことここにございます」

「頭と心……か?」

「はい。将棋の実力は家柄や段位で決まるものではござりませぬ。己の知恵と精神のみで戦う、真剣勝負にございます」

「知恵と精神……。で、あればお前は相当の達人ということか?」

「少なくとも今の将棋家よりは、幾分ましな方でございましょうな」

「はん! 言いおるな! 気に入った! 金吾、余にも将棋を教えてくれ!」


 ――江戸よりも阿波の方が強い。


 この城内でそんなことを一体誰が思いついただろうか?


 蜂須賀は、外様徳島藩として二百年もの間ずっと幕府に虐げられてきたのだ。

 関が原で蜂須賀正勝の嫡男が徳川方に組していたことにより、奇跡的にもお家取り潰しこそ免れることはできた。

 外様大名の中では島津や毛利、上杉に比べれば友好関係を築いてこれた方なのかもしれない。


 だが、やはり外様は外様に過ぎなかった。


 幕府からの扱いは屈辱以外の何者でもなかった。

 些細な不始末を理由に改易を迫られた外様大名も数多くいる。

 長く苦しい参勤交代を強い続けられ、藩主は人質のような扱いを受け続けた。

 二百年の長い時の中で少しずつ飼い慣らされ、骨抜きにされ、気づけば負け犬根性が染み付いていたのだ。


 斉裕だけでなかった、蜂須賀の子孫である家臣達でさえも、江戸に対する劣等感が拭いきれないでいるのだ。

 

 斉裕にはそれがどうしても許せなかった。


 だから四宮金吾の物言いは、本当に痛快だった。


 負け犬根性を塗り替えるためには、もう一度戦って勝つしかないだろう。


 徳川と豊臣はかつて真剣勝負をした。


 勝ったほうが負けたほうの全てを奪い取る。


 引き分けや、痛みわけはそこに一切許されない。


 それはそれで仕方が無い。


 なぜなら豊臣はそれに負けたのだから。


 だが、将棋もまた真剣勝負という意味では全く同じなのである。


 ならば、今度こそ自分は正々堂々と徳川に打ち勝って見せる。


 金吾はそう言っているのだろう。

 

 それからというもの、斉裕は金吾が城にやってくる度に彼に会いに行くようになる。


 江戸の将棋師、天野宗歩からの挑戦。


 金吾は、何十年も阿波に留まって、この機会を待ち続けたのだ。


 たった一本の刀を研ぎ続け、江戸幕府に一矢報いるために。

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