第五十七話 青藍と紅蓮

 ——壱——

 天保七年(1836年)七月二十五日、午前十時

 青雲の空のもと、天野宗歩が脇町にある家老屋敷へ向かって歩いていた。

 その傍らには市川太郎松、滞在中に世話になっている宿の主人も一緒である。


 町の中でもひときわ大きくて立派な武家屋敷。

 代々この地を治めてきた徳島藩筆頭家老の稲田氏の領有するものだった。

 四宮金吾との対局場として先方から指定されてきたのが、まさにそこだったのだ。

 

 道中を歩きながら、太郎松が宗歩にそっと声をかける。


「なぁ宗歩。あれから俺なりに市中を回って、四宮金吾のことを調べといたぞ」

「おお、ありがとう。で、どんな感じだった? 何か分かったか」

「そうだなぁ。ほとんど良くわからんかったが、一つ気になったことがある」

「気になること?」

「なんでも四宮金吾は、ここでは『鳥刺し名人』と呼ばれているらしい」

「鳥刺し・・・・・・」

「おまえ、何か知っているか?」

「いや、特には……」


 宗歩が神妙な面持ちをする。

 確かにその名に覚えはない。

 だが、何かが記憶の片隅に引っかかっていた。


「そうか……。もちろん、将棋の戦法に関することだと思うんだが」と太郎松が首をかしげる。

「いずれにしても何か狙ってくることには違いなさそうだな」と宗歩もうなづく。

「ああ、十分に気をつけろよ。流石のお前でも相手の術中に嵌まってしまえば危ないからな」

「もちろんだよ」


 将棋の戦法というものは、この世に数多く存在する。

 その全てに精通することは至難の業である。

 だからこそ事前の研究で相手に罠を仕掛けて、嵌めることができればそれだけで局面が一気に優勢になるのだ。

 宗歩は、これまでどちらかと言うと特定の戦法に拘らなかった。

 居飛車、振飛車ともに満遍なく指しこなし、苦手とする戦形もない。

 それこそが自分の強みであり、将棋師としての信条だとも考えていた。


 だが今回の武者修行を通じて、少しずつその考えが変わってきている。

 各地の強豪は、皆一様に独特な戦法を得意にしているのだ。

 宗歩にしてもそれらの見慣れない作戦に手を焼き、思わぬ苦戦をすることも多かったのだ。


 ――私も何か得意戦法を編み出す必要があるのかもしれない……。

 

 ――そう。『必殺技』と呼べるような何かを。


 そんなことをつらつらと考えていると、前方にこの町で一際大きい屋敷が見えてきた。

 門前にたどり着くと、家中の者たちが宗歩達を出迎えてくれた。


「おはようございます。大橋本家の天野宗歩先生ですね。お待ちしておりました」

「はい、本日はどうぞよろしくお願いします」

「いえいえ、こちらこそ。さぁさぁ、どうぞこちらへ」

 

 案内人の後に続いて、三人は大きな門をくぐる。

 敷地に入ると多くの家人が忙しく働いていた。

 

 観戦する人間だけでもざっと数十人は下らない。

 台所の方からだろうか、美味しそうな匂いがしてきた。

 昼夜の賄いを用意するだけでも大変なのだろう。

 

 なにせ地元の将棋指しが、江戸の将棋師と一世一代の真剣勝負をするのだ。

 阿波の人々にとって、これが絶対に負けられない戦いであることは違いない。

 皆自分たちがやれることを精一杯努めているだ。



 二人は、案内人からまず対局場の大広間を案内された。


「こちらの広間で対局を行っていただきます。立会人として藩主のご子息蜂須賀斉裕様と屋敷の主人である稲田家老様がお立会いになられ、その他にも御家中の方々が多数観戦をなされると伺っております」

「そうですか、分かりました」


 こういった重要な対局に、武家や豪商などの見物人が側に付くことは良くある。

 場合によっては、対局者の知らぬ内に大金がかかっていることも少なくない。


「事前の打ち合わせ通り、対局は全部で二回行っていただく予定です」

「はい、そのつもりです」

「一回の勝負は最大で二日を予定しております。二日目は勝負が付くまで対局していただくことになりますので」


 今回の対局のように双方の沽券に関わる大勝負では、一手につき持ち時間一刻(二時間)までとする超長期戦が行われていた。


 単純な勝ち負けの問題だけではないからだ。

 その対局内容こそが重要だった。

 後世に「名局」と称えられるよう、時間をかけて素晴らしい棋譜を作ること。

 それこそが対局者に望まれていた一番のことだった。


「此度の対局ですが、江戸で行われる御城将棋を模範にさせていただきました」

「そうですか。それはそれは痛み入ります」


 宗歩が、あまり興味が無さそうに生返事をする。


「対局作法はちろんのこと、食事や就寝にいたるまで――」

「えっ!? 就寝も、ですか……?」

「……は? はい、そうですが」


 宗歩が咄嗟に驚きの声を上げたので、案内役の方が不思議そうに首をかしげる。

 どうやら世話役を仰せつかった稲田家は、天野宗歩に最大の敬意を表明するため、御城将棋を徹底的に調べたらしい。

 すなわちこれは野試合などではない、御前試合なのだ。

 その真摯さにはもはや敬服するしかない。

 ところが宗歩の方は、全く別の理由で動揺を見せていたのだった。


「つまり……その……しゅ、就寝というのは、『対局者が隣同士で寝る』というあの作法のことでしょうか!?」

「ええ、はい。調べ役の者からは、そのように伺っておりますが」と案内役があっさり答えた。

「ぐはぁ!」と宗歩は畳に手を付いてふさぎ込む。


 御城将棋の下指しは勝負の決着がつくまでに、数日要することがほとんど。

 その間、対局者は将棋盤を挟んだ左右の部屋で就寝する決まりとなっていた。

 相手が、夜分に目を盗み盤上の局面をこっそり思案することを防ぐためだろう。


 勝負がつくまで、将棋師は決して盤上という戦場を離れることは許されない。


 ——将棋指しは、親の死に目にも会えない。


 いつからからだろう。

 そんな言葉がまことしやかに伝えられてきたのは。


 実際のところ、宗歩にはまだ御城将棋の経験がなかった。

 五段に昇段したことで条件は満たしていた。

 だが修行の旅に出奔してしまったために、その機会を逸したままになっている。

 この長い旅が終わり晴れて江戸に戻れば、宗歩もいよいよ御城将棋に出仕することになるのかもしれない。

 とりあえず実際の経験がないので、宗歩は師匠から伝え聞いていたとおりのことを、頭の中で具体的に想像してみることにしてみた。


 一日中、将棋を指し続けた見知らぬ男の人と隣同士の部屋で床につく。


(うーん、これは結構いろいろと不味いではないだろうか……)


 男同士の場合だったらなんの問題もないのだろう。

 だが、自分はこれでも男装を解けば乙女。

 夜分に忍び込まれて正体が暴かれでもでもしたら……。


 ちらっ。


 ふと気になったので、太郎松の方を垣間見た。


 特に気にはしていない様子だった。


 一瞬ほっとした。


 だが——


 (いや、おい待て。特に気にしていないというのも、それはそれでどうなのだろう?)


 宗歩の心中は複雑である。


 (まぁ、いた仕方があるまい。将棋師としてはいつかは避けて通れぬ道なのだ。太郎松とて、そう理解しているのだろう。こうなったら昼も夜もとことん勝負しようではないか!)


 その後、二人は大広間の隣にある控えの間に通された。


「ここで暫しお待ち下さい。準備ができましたらお呼びに伺います」


 そう言って、案内役が去って行ってしまった。

 定刻になるまでの間も入れ替わり立ち代り、家老や名士が挨拶に来たのだが正直なところあまり良く覚えていない。


 対局を間近にして、すでに天野宗歩は臨戦態勢に入っていたからだ。


 正午の四半刻(三十分)前。


「じゃあ、私もそろそろ着替えようとするかなぁ」と、宗歩が言う。

「お! ようやくあれの出番だな」と太郎松が明るく相槌を打つ。

「ふふふ」


 宗歩が、楽しそうに笑みを浮かべながら、持参してきた行李の中から真新しい羽織袴をシュルシュルと取り出した。


 それは、大坂の小林家が今回のためにしつらえてくれた特注の衣装だった。


 宗歩はその羽織袴を眺めながら、大坂での楽しかったあの毎日を思い出す。


 そうして、その着物をぎゅっと胸にきつく抱きしめた。


 (みんな、あれからどうしてるだろうか……。彼らに良い報告をするためにも絶対に負けられないわ。よし、さぁ頑張るぞ!)


 ——天野宗歩、いざ参る!

 

 ——弐——

 天保八年七月二十五日、正午


 阿波脇町の稲田家老屋敷。


 その大広間、「飛燕の間」。


 四十畳のだだっ広い部屋の真ん中には、ぽつんと将棋盤だけが置かれていた。

  その周囲を取り囲むように、徳島藩の家臣達が何十人も列席している。

 上座には、家老の中心に次期藩主の蜂須賀斉裕の姿も見えた。


 その光景は、まさに異様だった。

 

 斉裕が固唾を飲む。

 自分を取り囲む家臣達が放つ異様な気配を感じたからだ。


(これは——殺気だ)


(まさか盤上遊戯に過ぎない将棋の対局で、ここまで殺伐とした現場に立ち会うことになろうとは……)

 

 斉裕はそんなこと夢にも思わなかった。


 そのとき、右側の襖がすーっと開き出した。


 「徳島藩、四宮金吾殿!」

 

 案内役の呼び声と同時に、「四国名人」四宮金吾が威風堂々と入場して来た。


「おおおお!」

「なんと! これは素晴らしい!」


 金吾のその衣装姿に周囲が、一気にどよめき出す。


 蜂須賀の家門「卍」を背負った羽織袴。


 その着物が、阿波の「本藍」で真っ青に染められていたからだった。


 青藍の棋士――


 この特注品の衣装は、今回の決闘にあたって斉裕が特別に仕立てたもの。

 筋骨隆々で体躯が大きく、日に焼けて肌が黒くなった金吾には、深みの青が映えて、とても似合っている。

 青藍の羽織袴を全身にまとったその出で立ちから、彼がこの対局において阿波一国の期待を背負っていることがはっきり伺われた。

 金吾は精悍な顔つきで、尋常でない殺気を放ち続けている。

 こんな鬼気迫った姿を、斉裕は今日まで見たことがなかった。


(金吾、頼むぞ! 阿波の魂を江戸の者に見せつけてやれ!)


 たった一局の勝負で、己の人生全てが決まるのだ。

 これは間違いない——真剣勝負の果し合いだ。


 「柳営大橋本家、天野宗歩五段!」


 金吾の入場が終えると間髪入れずに、案内役がさらに甲高い声を張り上げた。

 家臣たちが一斉に金吾が入場してきた側と正反対にある襖の方を振り向く。

 

 四枚に連なる襖絵には、阿波の青海が大胆に描かれていた。

 よく見ると、海面すれすれを一羽の燕が滑空している。

 海豊かな阿波の自然を描いた、まさに見事としか言いようがない構図。

 ここが「飛燕の間」と呼ばれる所以だった。


 その中央二枚の襖が、音を立てずに左右にスーっと開いた。


 まるでその襖絵の中に描かれた燕が人間に変化して、飛び出してきたかのようだった。

 

 うら若き麗人が、颯爽とその姿を見せたのだ。

 背丈は小さいが、艶のある長い黒髪を後ろで一つに縛っている。

 瞳がくりっと大きいのが特徴で、丹精に整った美顔である。

 だが凛々しくも険しいその顔付きからは、勝負師の強烈な殺気が放たれていた。


 「うおお! なんとも美しい……」

 「こちらもまた見事ですな」


 天野宗歩の衣装は、四宮金吾のそれとは対極だった。


 全身を真紅の炎に包みこむ紅蓮の衣。


 真っ赤に燃え上がるようなこの紅花の織染物は、小林東伯齋がわざわざ今回のために職人に作らせたものだった。

 真紅の衣装が、彼女の美しさを一層引き立たせる。

 いやそれだけでない、その内に秘めた熱い情熱を具現化させるべく、わざとこの派手な赤色に染め上げたのだ。


 宗歩は、大坂にいる小林家の皆が込めてくれた大切な思いをしっかりとその背中に背負っていた。

 この羽織袴を身にまとえば、その思いがひしひしと全身に伝わってくるのだ。

 宗歩にしてもまた、この対局は絶対に負けられない戦いだったのだ。


 だが――将棋には勝者は常に一人しかない。


 勝った方が負けた方の全てを奪う、それこそが将棋の本質。


 今まさにここに、青藍の棋士と紅蓮の棋士が相打つこととなる。

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