第五十四話 宗歩腹戦

 ――おっとう、おっかぁ……。


 ——ねぇ、太郎松。私を……助けてよ!


 誰かが必死に助けを求めている。


 そんな夢をみて、市川太郎松は突然目が覚めた。

 布団から身体をゆっくり起こし、喉元に手をそっと当てる。

 ぐっしょりとひどい汗をかいていた。


 辺りを見回すと、まだ外は仄暗さを残している。

 午前五時頃だろうか。

 初夏の太陽が少しずつ昇り始めていた。


 同じ寝床の隣には天野宗歩が眠っていた。

 幸せそうにすやすやと寝息を立てている。

 

 天保七年(1836年)七月二十日——


 天野宗歩と市川太郎松は、住み慣れた商都大坂を後にして、西国へ武者修行に旅出っていた。


 最初に目指すべき相手は、徳島阿波の四宮金吾——

 『四国名人』とまで讃えられる在野の強豪でありながら、将棋家すらその実態をつかみ切れていない、謎の多き将棋指し。


 宗歩と太郎松は、備中を経由して船に乗り、讃岐路を南に歩き続けた。

 険しい山間部を超えて、昨晩のうちに阿波の脇町にようやく到着したところだった。


 脇町は、阿波の交通の要衝。

 国土の八割を山地で覆われた阿波国の物資、特産品がここに集中していた。

 

 天野宗歩を支援する大坂商人の小林東伯齋は、この脇町によく顔を出していた。

 その目的は、染物の主要商品である『藍玉』を安く大量に仕入れること。


 色褪せしにくい藍染めは、江戸庶民の染物して流行していた。

 この藍こそが、阿波徳島の特産品である。

 その歴史は、初代徳島藩主の蜂須賀家政が阿波に封じられた時から始まる。

 阿波の国を東西に流れる清流吉野川。

 川沿いの肥沃な大地で育つ『徳島藍』は、藍の中でも最高品とされていた。


 ――阿波二十五万石、藍五十万石


 徳島藩は藩内で藍産業を奨励し、そこから取り立てた税で大いに潤った。

 脇町は、そんな徳島藍が一挙に集まる町だった。

 そして、徳島藩筆頭家老の稲田氏が代々治めてきた宿場町でもある。


 今回の天野宗歩の西国行脚にあたって、小林東伯齋は旅先での支援者を用意してくれていた。

 脇町にある旅籠屋「小野屋」もその一つだった。


 山間部の陸路と船旅で予定よりも大幅に到着が遅れた宗歩と太郎松を、旅籠の主人はこころよく歓迎してくれた。

 昨晩は二人とも遅い夕餉を取り、湯に浸かった後は早々に床についてしまう。

 最初の目的地に無事たどり着いて二人とも安心したのだろう。

 そのままぐっすりと寝入ってしまったようだ。


 太郎松は、その寝床で思わぬ悪夢にうなされて、すっかり目が覚めてしまったのだ。

 ふと何気に宗歩の寝顔を見やる。

 久しぶりの旅路でよほど疲れていたのだろうか、すやすやと良く眠っている。

 部屋の暗さにようやく太郎松の目が慣れてきた。

 宗歩は、きつく縛った黒髪と男装をひも解き、薄い寝間着一枚に着替えていた。

 その寝姿からは、若く美しい女性にしか見えない。

 だがひとたび彼女が目覚めて、長い黒髪をうしろで一つに縛り、さらしを巻いて男装を身にまとえば、秋霜烈日の勝負師がそこに誕生する。


 宗歩は、道中でも至るところで各地の強豪と真剣将棋を指し続けていた。

 そうした経験を積み重ねて、宗歩の将棋は別次元にまで成長したような気がする。


 江戸の麒麟児——


 ふいに、天野宗歩を「麒麟児」と讃えたあの人のことを思い出す。


 無類の将棋好きの旗本大名、市川備中守蘭雪――


 市川蘭雪は、苗字が偶然同じだった太郎松少年のことを、わが子のように可愛がってくれた。

 その昔、太郎松はそんな蘭雪から「麒麟児」の由来を教えてもらったことがある。


 古代中国では、「聖人が出て国が治まると麒麟が現れる」と伝えられているそうだ。


 麒麟とは中国の聖獣であり、才能と徳の両方を兼ね備えた優れた人物の象徴でもある。


 すなわち聖人と麒麟は表裏一体。

 

 俳句の世界には、「俳聖」と呼ばれる達人がいたらしい。


 剣術の世界にも、「剣聖」と呼ばれる達人がいたそうだ。


 そもそも「ひじり」とは、全国を巡ってその道を究めんとする仏者のことを指す。


 江戸にとどまらず、こうして全国を駆け巡り棋道を極めんとする天野宗歩はさしずめ、


 棋聖——


 とでも呼ぶべきだろうか。


 麒麟児は、今まさに棋聖へと進化しようとしている。


(ひょっとしたらこいつは、もうすぐ俺の手の届かないところにまで飛んでいくのかもしれないな……)


 駒鳥こまどりは、夏に日本にやって来て繁殖し、冬になると大陸へと渡っていくそうだ。


 赤と橙で身を包んだその小さな体躯の内には、想像もできないほどのたくましさを秘めている。

 

 宗歩もまたこんなに細くて小さな体なのに、駒鳥のように将棋という雄大な世界へ飛翔しようとしているのかもしれない。 


「むにゃむにゃ……」


 ふと宗歩が、何か寝言を言い始めた。


「ねぇ……、しよっか?」


 宗歩が目をつむったまま、太郎松に向かってそう言った。


(げげげ……、まさかこれって)


 太郎松の嫌な予感が働く。


「うーん、こないのぉ? じゃあ、私の方からいくよぉ……」


(ああ、今日もまた始まった……)


 この旅が始まってからというもの、太郎松は宗歩と同じ床で休むことになった。

 契りを交わした男女が寝床を供にすれば、なすべきことは一つしかあるまいて。

 同衾を重ねる以前は、当然ながら太郎松は宗歩と別々の部屋で寝ていた。

 そのせいで、宗歩に変な癖があることを今の今まで気がつかなかったのだ。


 それは——


「むにゃむにゃ……、△3四歩」


 こいつは寝言でも将棋を指す!


(ああ、なんて奴だ。俺が相手をしないでいると、ずっとこうやってねだってくるのだ)


 最初は無視したのだが、ある日たわむれに一度だけ相手をしてやると味を占めたのか、以降ずっとこの調子なのだ。 

 太郎松は深刻な寝不足だった。

 毎晩のように「」をねだってくる宗歩のせいで。


「ねぇ、△3四歩だよぉ。はやくぅ、きてぇ!」


(まったく……こいつの頭って将棋しかないのかよ。俺としてはもっと別のもんをねだって欲しいんだがなぁ……)


「ちっ、しょうがねぇな。▲7六歩」

「うふふぅ、まってたわよぉ。……むにゃむにゃ、△4四歩」


(え? ていうか、これ平手なの? 駒落ちなの? それすら分かんねぇよ!)


 しょうがないので、太郎松は毎夜暗いなか、宗歩の寝言と対局を強いられているのであった。


 まぁ、いいんだけどね!


 ――弐――

「おはようございます。天野先生」


 快晴の朝。

 部屋で朝餉を食べ終えた宗歩の前に、旅籠の主人が挨拶にやって来た。

 昨夜は二人の到着が相当遅かったので、落ち着てからという配慮だろう。


 一緒に朝餉を食べていた太郎松は、「ちょっと散歩してくる」と言ってつい先ほど出かけてしまった。

 最近太郎松の目の下にくまができており、宗歩はことのほか心配していた。

 きっと長旅の心労でよく眠れていないのだろう。


(あいつは、ああ見えて意外と繊細だからなぁ……)


「あの……天野先生?」

「あ、いや、すみません! これからいろいろと御厄介になりますが、よろしくお願いいたします」


 東伯齋は阿波を訪れると、決まってこの旅籠を定宿にしていた。

 だからこの旅籠の主人は、大坂での宗歩の活躍も、東伯齋からよく耳にしていたそうだ。

 四宮金吾との対局に関しても、この主人が段取りをつけてくれたようで、いろいろと話が早くて本当に助かった。


「それにしても、江戸の将棋家の先生がわざわざこんな田舎まで足を運ばれるなんて、なんとも殊勝なことでございますな」

「いや、私はまだまだ修業中の身。阿波の四宮先生に棋道の神髄を教授いただきたく参ったのです」


 宗歩がうやうやしくそう言うと、主人は急に気を良くして、

「まぁたしかに。四宮先生は阿波の至宝。四国ではもはや敵なしとまで言われておりますからな。はっはっは」


 やはり、この主人も阿波の人間。

 故郷の将棋指しを、ついつい応援したくなるのが人情と言うもの。

 大切な客人との間に挟まれて、どうやら少々複雑な思いをしていたらしい。


「ところで、その四宮先生ですが……」

「はぁ、何でしょう?」

「どのような御方なのでしょうか。失礼ですが将棋家でもあまり詳しくは知られていないようで」

「まぁ、あのお方は少し風変わりなお方でしてなぁ」

「風変わり? と申しますと」

「ぶらりと脇町にやって来ては、好きに将棋を指してまたどこかへ去ってしまう。道場を開くわけでもなく、弟子を取るわけでもなく。暇な時は地元の撫養むやで船頭をしているという噂もございます」


 撫養むやというのは徳島の最東にある大きな港町だ。

 淡路島をまたぎ上方へと繋がるその港町は、阿波の交易拠点となっている。


「四宮様は、そもそもお武家様と伺っていたのですが?」

「ええ、私らもあまり、その……良く知らんのです」

「えと……それは、どういうことでしょう?」

「いや、言葉通りでして。あまりご自分のことを語ろうとしない方なので、あの方の氏素性は誰も良く分からんのです」

「なるほど……」

「ですが、将棋はまさしく本物です」

「ほぉ」

「四国ではすでに敵はおりません。たまにこうして天野先生のような江戸や上方の将棋指しが四宮先生を訪ねて来られるのですが……。まぁ相手になりませんわな。おっと、これは失礼」


 とうとう、主人の本音が出たようだ。


 ――たかが江戸の若造ごときがなにをかせん。

 ――故郷の英雄、四宮金吾の足元にも及ぶまいて。


「いえいえ、ですから私も四宮先生の教えを受けにわざわざこうして参ったのです」

「なるほど。そういえば、先生は、最近になって徳島城下で将棋指南役も務めておられるそうです」

「将棋指南役……? たしか、先生は『無段』とお聞きしておりますが」

「ええ。先生は段位免状をお持ちではありません」


 主人が、すこしむすっとした感じで返事をする。

 将棋指しが段位免状を持つことは、その実力を保証するための証となる。

 無段ということは、『素人』の疑いをかけられるもとになるのだ。

 幕府や藩のお抱え指南役ともなれば段位免状は必須のはずだが。


 将棋家が、四宮金吾の情報を正確に得られない理由。

 それは、彼がなぜか生涯を通して無段のままでいること。

 段位免状を持つ将棋指しであれば、その棋歴や棋譜が台帳に記録される。

 棋譜が残っていれば、得意な戦法や弱点も研究できる。

 だが四宮金吾が無段である以上、情報は皆無に等しい。

 もしかしたら相手の方は、宗歩の棋譜を入手して研究している可能性がある。

 こちらの方だけが、出たとこ勝負になることは明らかだった。


「そうですか……。ありがとうございます」


 結局、四宮金吾の将棋に関する情報は、何もわからなかった。

 宗歩は、対局前に少しでも相手の情報を得ることを大切にしている。

 「勝利を掴むための定跡」と江戸の師匠にそう教えられた。

 だから旅先で天野宗歩と知られ、無理やり勝負を挑まれた時も、いきなり対局に応じないように決めている。

 かならず相手の将棋を一目見てから指すのだ。

 そのせいで、太郎松がずいぶん宗歩の身代わりなってくれていたのだが。


 そんな主人が、少しがっかりしている宗歩に向かって、どこかの国の宿屋の主人のようなことを言う。


「それにしても昨夜はずいぶんとお楽しみでしたねぇ……」

 

「ななな!?」


 いきなりの突拍子もない発言に、宗歩は顔を真っ赤にして慌てふためいた。


(えええ、昨日は早く寝たから何もしなかったような? それとも私……、寝たまま何かしちゃってたのかしら!? ていうか早速『女』ってばれたってこと?)


「ひょ、ひょっとして私の声、隣に漏れていたのですか……?」

「ええ、まぁ。なにせこんな狭い旅籠でございます。それにこっちの耳は閉ざすことができませんからねぇ」


 主人は、そう言ってにやりと自分の両耳に手を当ててみせる。

 宗歩はあまりの恥ずかしさにうつむいて、何も言えなくなってしまった。


「それにしても、お二人ともお達者でございますね」

「お、お達者!? な、何が?」

「あんな夜更けまでずいぶんと励んでおられて……」

「は、励んで!? な、何を?」

「いやいや、さすがはお二人ともお若いですな。はっはっは!」

「……ボッ!」


 いきなりそんなことを捲し立てられて、宗歩は恥ずかしさを通り越して、気まずくなる一方だ。


 そんな宗歩に向かって、主人が追い打ちをかけるように、

「じつはそんな天野先生に、折り入ってお願いしたいことがありまして――」

「は、はぁ? 一体何でしょうか……?」


(一体何を頼まれるのだろうか?)


(ここまで来るともはや悪い予感しかしないのだが……)


 宗歩の疑心暗鬼が一層強くなる。


「手前の愚息の相手をしてやって欲しいのです」


 その言葉に呆れてしまった宗歩の口が、ぽかんと大きく開く。


「ごごごご、ご子息の? お相手を? なななな、何でこの私が?」

「いや、うちの倅はもういい年をして、筋金入りの引っ込み思案でしてな。親馬鹿と言われるかもしれませんが、これがなかなかのものは持っておるのです」

「いやいや……なかなかの『もの』て……」

「ですが、やはりどうにも奥手でございましてなぁ。なんとかここはひとつ、先生の手で倅を一人前の男にしてやってくださいませんでしょうか!」

「お、お、お、男にですとぉ!?」


 あまりに滅茶苦茶な依頼に宗歩が、ひっくり返るようにして後ずさる。

 それを見て、主人もふと冷静になったのか、

「いえいえ、さすがに私も言い過ぎました。そうですね。たった一度のことでございます。せめてうちの倅が、将来の大器かどうか是非ともその目で見極めていただきたいのです!」

「しょ、しょ、しょ、将来の!? た、た、た、大器!?」

「ええ。手前ごときの目ではございますが、なかなか筋は良いほうでして、不得手ながら攻めも受けもしっかりしておりますゆえ」

「せ、せ、責めー!? う、う、受け―!?」

「ええ、まだ八歳の子供ですが、近所では筋が良いと評判でして。果たしてものになるのか見極める意味でもひとつ」


(なんと……。は、八歳なのに……。あな末恐ろしや。)


 だが、宗歩の方はとても言いにくそうにして、

「いやぁ、あのぉ、しかしですね、私は一介の将棋師に過ぎませんでして……。ご、ご子息のそういった類の指導までは……」

「いや、ですから無理を承知でお願いしております。ここは一つ、なにとぞ」


 そう言って、主人は紙に包まれた何かを、宗歩の膝の前にすっと差し出した。

 たぶん金子だろう。 

 分厚さからして結構な大金だぞ。

 なんと、この親は金を支払ってまでも息子の相手をさせようというのか。


 宗歩はいやぁっと溜息をつき、首を左右に振りながら、

「……さすがにやはり、ちょっとそれはできかねます。申し訳ございませんがお断りさせていただきます。」

 

 宗歩が金子の入った袋を差し戻してはっきり断ると、今度は主人の方がしょんぼりしたような顔つきになる。

 宗歩は、緊張して渇ききった喉を潤そうと、湯呑に入ったお茶を口に含む。


「そうですか……。せっかく江戸からお越しいただいて、これは滅多に無い機会と期待したのですが……。できればその後に、手前のお相手もしていただければと――」


 ブーーーッ!


 口に含んだお茶を、主人の顔に一気に吐いてしまった。


「なななな。ご主人の相手まででで?」


 顔にかかったお茶を手拭いで吹きながら、キョトンとした顔で主人が言う。


「ええ、私も無類の『将棋』好きでございまして」


 ………………

 ………………………………

 ………………………………………………


「……えぇ?」


「いえ、ですから手前と倅にぜひとも将棋の稽古をつけていただきたく」

「しょ、将棋の話だったんですかぁぁぁぁぁぁ!?」

「ええ、もちろんですとも」


 何を言っているのだと言う顔で、主人がけろっと応えた。


「な、なーんだ! 将棋かぁ! いやぁ、てっきり別のものかと」

「はて、別のものとは?」


 主人が不思議そうに首をひねった。


「いや……、その……、ほらさっきご主人が、私と太郎松の夜のことをおっしゃっていたものだから、ほら、ごにょごにょ……」

「いやぁ、あれですか!」

「そうそう……あれでございますよ」

「暗闇の中、将棋盤も使わずに符号を言い合うだけで将棋を指されるなんて、やはり先生方は大層な腕前でございますなぁ。隣の部屋から耳をそばだてて聞いておりましたが、ほとほと感心いたしました!」


 ………………

 ………………………………

 ………………………………………………


「……えと、そっちも将棋の話……ですか?」

「ええ。そうですが」

「……そうでしたかぁ、ほっ」


(なんだぁ、全部将棋のことだったのかぁ……。まーた、私ったら早とちりしちゃったわ。てへ)


(はて? でも私、そんな夜更けに将棋を指していた記憶もないんだけれど……)


 宗歩は、首をかしげながらも将棋のことならばと、

「承知いたしました。それではご子息の稽古の件、結構ですよ」


 まぁ、子供の稽古くらいならいきなり指しても問題はないだろう。

 

「おお、ありがとうございます! おい、五平! さぁ、入って来なさい」


 五平と呼ばれた少年が、部屋に入ってくる。

 さっきからずっと廊下で待たされていたらしい。


 宗歩は、五平少年を見る。

 華奢で色が白く、わりかし整った顔つき。

 物静かで年の割には落ち着いているように感じた。

 だが、終始むすっとしている。

 少々気難しそうな印象を受けたが、緊張しているのかもしれない。


「それでは、先生。ひとつどうぞよろしくお願いします」


 そう言って、主人は脚付きの立派な将棋盤をそそくさと用意し始めた。


 そのあと、宗歩は何局か駒落ちを五平少年と指してみた。

 最後は、宗歩の方がわざとぬるい手を指して五平に攻めさせた。

 この子の切れ味を確かめたかったのだ。


 宗歩は、将棋は終盤が最も重要であると考えていた。

 いくら序盤を研究したところで、結局実戦では王将を詰ますための力、『終盤力』がものを言う。

 それに定跡は勉強すればそれなりに身につくが、終盤力は持って生まれた才能によるところが大きいと考えていた。


 実際に五平少年と指してみて、宗歩はその終盤力に舌を巻く。

 中盤あたりからの構想も斬新で、これは本当に筋がいいと感心した。


(うん、中終盤は全然悪くない。だが——)


 やはりここ四国では定跡の情報が少なすぎるのだ。

 最新の研究が正確にここまで伝えられておらず、その点でも成長を見込めない。

 それに、四国にいる限り腕を磨けるような好敵手にも恵まれないだろう。

 地方で将棋の道を志すことの大変さが、五平少年と対局してみて、宗歩には身に染みるように分かった。


(もったいない……。江戸、いや少なくとも上方でこの子が生まれていれば、ひとかどの将棋指しに成れたかもしれないのに)


「ありがとうございました」


 五平少年が、うやうやしく頭を下げる。

 こころなしか小さなその体が小刻みに震えている。

 生まれて初めて経験した一流の将棋師を前に緊張しているのだろうか。


 いや、そうではなかった。


 五平の顔をよく見ると、血潮が浮かんだその頬に一筋の雫が伝っていた。


(うん、この子は間違いない。本物だ)


 負けて悔しがらない子は、絶対に強くならない。

 将来の大器を見込める気質と言えよう。


「はい、ありがとうございました。そうですね。とても筋が良い子だと思います」

「はぁ! そうですか。いやぁ、天野先生にそう言っていただけたら感無量です」

「ですが……」

「はい?」

「やはり、このまま四国にいるかぎりなんとも難しいようにも思います」

「……」

「どこか上方にでも。そうですね、将棋家に縁のある方の門弟にでもなれば、将来を見込めるかもしれません――」


 ここまで言っておきながら、宗歩ははたと気が付いた。

 そうだとすると、四宮金吾は一体どうやって、それほどの棋力を身に付けたというのだろうか。

 彼は、その人生のほとんどをこの四国から出たことがないはずなのに。


「はぁ、やっぱりそうですか。いや手前もそうかなとは考えておったんです」


 主人が、息子の頭を優しくさすりながらそう言う。


「もし、そのつもりがあるなら、私の方で紹介状をしたためますが?」と宗歩が提案する。

「ありがとうございます。ですが、この子もまだ八歳。もう一度ゆっくり話してみます」

「そうですね。それがよろしいかと」



 数日後、天野宗歩は旅籠の主人に連れられて、脇町の立派な武家屋敷を訪ねることになった。


 天保七年七月二十五日――


 後世に名局と伝えられる天野宗歩と四宮金吾の、三日間にわたる死闘が今始まろうとしていた。


 

【宗歩好み!TIPS】『阿波脇町の五平』

 天野宗歩は最晩年、京の都に居を構えて暮らしていた。

 そんなある日のこと――

 一人の凛々しい青年が、突然宗歩のもとに「弟子にして下さい」と訪ねてきた。

 この青年こそ、かつての五平少年であった。

 五平少年は、後に明治の将棋界の頂点に立つことになる。

 そう、第十二世名人——小野五平として。

 小野名人は終生、自分が天野宗歩の弟子であることを誇りにしたそうだ。

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