第十二章 四宮金吾

第五十三話 追憶の果てに

 最初の記憶はずっと泣いているところ。


 ――おや、どうして泣いてるの?


 誰かにそう聞かれたけれど悲しすぎて答えられない。


 ――お母さんはどこ? ねぇ、あんた見慣れない子だけれど、一体どこの子だい?


 着物を着た優しそうな女の人が心配そうに聞いてくれた。


 ――お母さんは……いません。


 ひとしきり泣いた後、私はやっとそれだけを答えることができた。


 ——いませんって……じゃあ、あんた捨て子かい?


 ――ち、違います!わたしの……おうちはあそこです。


 そう言って、私は通りの先にある大きな屋敷を指さした。


 そこには、武家屋敷と見間違えるほどの重厚な建物が建っていた。


 ――あそこは……、将棋の大橋先生のお屋敷じゃないか。するとあんたは……


 師匠との指導対局に負けた私は、そうやっていつも独りで泣き続けた。


 師匠は絶対に迎えになんか来てくれない。

 だから、自分で立ち上がって戻るしかない。



 ——あの……、ありがとうございます。もう大丈夫ですから。


 なおも心配する彼女を振り切るように、私は礼を言ってその場を後にした。


 黄昏に沈みゆく夕陽が、幼かったあの日の私を紅色に染め上げる。


 大橋本家の屋敷の門をくぐり、玄関までとぼとぼと戻ってくると、師匠がそこに立って待っていた。


 この人は、初めて出会った時からその表情を変えることがない。


 鉄仮面。


 周囲が彼をそう呼ぶことも、私は知っていた。


 でも、私には——


 塑像のように白く美しいその顔が、ずっと悲しそうに映っていたのだ。


 この人は、胸の奥に深い悲しみを抱えながら生きている。


 きっとそれを隠すためには、心とその表情を殺さなければならなかったのだろう。


 私にしか判別できぬ、そんな彼の悲痛な表情を見るたびに、嫌でもあの時のことを思い出す。


 ——将棋家は、男でないと生きていけない。


 ——だから、これからお前は男の恰好をしなければならないのだよ。


 私は、入門した日に師匠にそう言われた。


 その時もまた、彼はやはりどこか物悲しくて、そして辛そうだった。


 私の長かった黒髪が、容赦なくばっさりと切り落とされる。


 女であることを隠しながら、ここで生きてゆくために。


 『お留』という一人の少女が、『天野宗歩』という将棋師に生まれ変わるために。



 そんな師匠が、屋敷に戻ってきた私に向かってこう言う。


 ——おかえり、宗歩。今日はもう部屋で休みなさい。


 師匠はそれ以上何も言わずに、くるりと背を向けて行ってしまう。


 私もまた自分の部屋へ戻ることにした。


 師匠の部屋の真隣にあるその部屋に。


 他の門弟と違って、のだ。


 そう、これが私の最初の記憶だった。


 今の今まで、ずっとそう考えて生きてきた。


 だが、どこか違う。


 何かが足りないのだ。


 そもそも、どうして私は将棋家に入門したのだろう?


 将棋家は私の存在を、一体どこで知りえたのだろう?


 わずか六歳になるばかりの町民の娘にすぎない自分がなぜ?


 なんだか、のだ。


 十八になった私に、師匠はこう言った。


 ――よくお聞き、宗歩。女はね、名人になれないんだよ。


 師匠からの破門とも聞こえるその言葉を胸に閉じ込めてからというもの、ずっと気になっていたことがひとつある。


 ならば、なんのために私は——将棋家で将棋を指すことになったのだろうか?


 ああ、そうだ。


 記憶が滔滔とうとうと溢れだす。


 そうして、私はついに思い出してしまった。


 私にはもっと以前の――


 本当の『最初の記憶』があったことを。

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