第七十六話 緋色の涙

「ほほほ、それはなんとも奇遇じゃの」


 紅花の染め粉を空に撒き散らしたかのような、真紅に染まった夕暮れの刻。

 そこに浮かんでいる雲すらも朱へと交わり――甚だ、赤い。


 柾目村の最奥。その一際古ぼけた屋敷の中。

 その奥の間に、安清と鵞堂が対峙するように座っていた。


「母者、笑い事ではありませんぞ。まさか董仙があの天野宗歩をいきなり連れてくるとは……」

「いや、しかしな。くっくっく、あっはっは――」


 先ほどから安清は、鵞堂に向かってずっと笑い続けていた。

 何がそれほどに可笑しいのか、鵞堂は釈然としない。

 だが彼女の方は、座布団に腰を下ろしたまま、細身のその両肩を上下に揺らす。


「わざわざ淇洲と長禄を、倉敷まで遣ったというのに……」

「なぁに、その後の手間が省けたというものじゃて」


 彼女は、自分の手元でパチンと小気味良い音を鳴らす。

 その手には、和紙で作られた一本の扇子が握り締められていた。

 扇子で拍子を取るように、折りたたんでは開けて軽快な音を奏でている。

 その仕草こそ、彼女の機嫌がすこぶる良い証拠であった。

 

「——にしても。さすがのおぬしも、さぞやたまげたであろうな」


 今度は咲いた花の様に、ばあっと扇子の面が左右に開く。


 駒師の棟梁として、普段は冷静沈着な振る舞いを見せる彼女。

 打って変わって、まるで少女のように可憐で楽し気な印象を垣間見せている。

 だが鵞堂にしてみれば、これはこれで美しいとさえ感じていたのだ。


 そう――。

 彼女は、いつまでもその美しさを保ち続けることができたのだった。

 その姿形は長い年月を重ねても、一向に変わろうとすらしない。

 いや、むしろその美しさには益々磨きがかかっているようにも見えた。


 鵞堂から見れば、それはまるで上質の駒のようだった。

 いつまでも、いつまでも、飴色の輝きを放ち続ける名駒の如き女怪。


 柾目村の女棟梁、安清――。


「おぬしの仏頂面が崩れたところなぞ、妾とて生涯ただ一度しか拝んだことがないからのぉ」

「滅相もない。ご冗談が過ぎますぞ」


 ――あの時のことか。


 鵞堂の表情が、一瞬だけ歪むように引きつった。


「しかし――奇遇とは言え、母者の言葉通りでしたな」


 彼は無理矢理に話題を元に戻そうとする。

 「天野宗歩は必ずこの村にやって来る」、確かに安清はそう予言した。

 村の裏手にある山の中腹、そこにある虎斑の社で。


「なぁに、妾は余計なことなぞ何もしておらんよ。あ奴がここを訪ねてきたのも、駒を直せと頼んできたことも、まさに奇遇というか奇縁というか……、そうじゃな……、さしずめ宿命とでも言ったところかの」


 とぼけるようにしながら安清が言う。

 だが鵞堂にしてみれば、その真意は計り知れない。


「宿命、ですか……」

「それとも東伯斎の古狸めがそこまでを推し量って――。いやいや、やはりこれだけは偶然じゃろうて」

 

 白扇子で顔を涼しげに仰ぐ安清の姿を、鵞堂はじっと見据えた。

 虎斑の社にいた時の巫女装束から、彼女は着物へ着替えていた。


 だが、その全身はやはり帯も含めて――緋一色。


 もうすぐこの地方でも赤く色付く紅葉の如き、紅染めの衣装である。

 鵞堂はあの紅葉というものが、どうしても好きになれなかった。

 あの赤い葉を見ると、嫌でも思い出してしまうからだ。


 夥しいほどの鮮血で真っ赤に染まった、あの――。


 そんな鵞堂の沈欝な気持ちを、安清は知ってか知らずかまだ笑い続けていた。


「母者は、ずいぶんと以前からあ奴のこと、天野宗歩をご存知だったのですか?」

「天野宗歩……。ふむ、たしか本当の名は……お留と言ったはず。まさか、あの赤子がここまで大きくなるとはの」

「お留……ですか。はて、天野宗歩は男なのでは?」


 鵞堂が、良く意味がわからないと言う表情をした。

 

「いや、あ奴は女子おなごじゃ。故あって今は男装しておる。おぬし気づかんかったか?」

「なぁっ!?」

「ほほ! おぬしのたまげた顔、これで妾も久方ぶりに見られたのぉ。満足、満足、あっはっは」

「た、確かに言われてみれば……。いや、てっきり俺は淇洲と同じで、線の細い優男なのかと。いや、なんともはや……」

「それにしても……まったく月日が経つのは早いもの。あれから二十年か……」


 安清の眼前。

 畳に敷かれた白布の上に、古駒の欠片。

 縦真っ二つに割れた飛車の駒。


「これなど、もはや悲業とさえ言って良いかもしれぬ……」


 安清がその欠片に優しく手を添えて、そっと裏返す。


 その裏に――。


 龍――。


 鵞堂もその駒を真上から凝視する。

 材質ばかりにすっかり気を取られていたが、表面に彫られたその書体に初めて真剣に目を向けた。


 膨らみを表現するために、わざとぶ厚く太めに彫られたその曲線。

 江戸の将棋家が好むような、洗練で流麗な書体とは全くの対象的なそれ。


 一目その印象は――野暮ったい。


 だが、その印象とは裏腹にして、しみじみと眺め続ければその書の力強さ、そして暖かさがじわりと感じ取れる。

 まるでそれは母の懐に包まれているかの如き温もり。

 一度これを盤上に並べ置けば、その指し手には無類の勇気すら与えてくれる。

 

 そんな不可思議な書体であった。


 なぜ、気づかなかったのだろうか。

 鵞堂が、一番良く知っているはず書体だったのに。

 天野宗歩と不意に対面して、面食らってしまったせいだろうか。


 ――ああ、そうだ。


 ――これは。


 目の前にいる、安清の手によるものに相違なかった。

 

 そんな彼女はこの真っ二つに割れてしまった駒を、懐かしそうにその手に持つ。

 かつて自分が手掛けたはずの黄楊柾目駒。

 それをまじまじと眺めながら――。

 静かにこう呟いた。


 ――喜多次郎。おぬし、死ぬ気か?

 

 喜多次郎とは、一体誰のことなのだろう?

 鵞堂にはそれがわからない。

 だが、これはきっと何かの予兆なのだろう。

 今や、この安清だけがそれを知りうる立場にいるのだ。

  

「……母者。どうかされましたか?」


 鵞堂は、安清の顔を覗き見た。

 やはり懐かしそうな表情には違いなかった。

 だがその一方でひどく辛そうであり、そして悲しそうである。


 ――ああ、この表情だ。まさにあの時と同じではないか。


 鵞堂は、目の前の安清と呼ばれる女が一体いつ生まれて、歳が幾つなのか良く知らない。

 すでに鵞堂が物心ついたときには、目の前に立っていたからだ。

 なぜに女の身でありながら村で駒師を率いているのか、理由すらも知らない。


 だが、彼女はずっとこの村にいた。

 いや、正確には村が誕生する遥か以前から、この地にいたのかもしれない。


 一向に年を取らない謎多き女——。


 だが、そんな彼女も今は駒師「安清」としてここで人として暮らし、皆からも棟梁として、母として慕われている。

 たとえ、この女の正体が人外や化け物であったとしても――。

 もはや村の誰もがそれを追及することは――ない。


 ――ああ、あの時のことを思い出す。


 十年前のある日のことだった。


 まだ職人の見習いだった鵞堂が、駒を一式作ることに初めて成功したのだ。

 それも、周囲の駒師達が絶賛するほどの会心作である。

 駒作りを手掛けるようになってから早五年。

 ようやく自分でも満足のいく作品ができた。

 

 鵞堂は、さっそく棟梁だった安清にこの駒を見せたくなった。

 彼女は出来の良い駒を見せた時にだけ、自分たち駒師に向けてそっと優しく微笑んでくれるのだ。

 その微笑は、若かった鵞堂の心を一瞬で鷲掴みにし、そして捉えた。


 彼女の慈しむようなあの笑顔——。

 あの表情が、どうしても彼は見たくなってしまったのだ。


 そしてとうとう我慢できずに、鵞堂は彼女の居場所を探し始めた。

 

 工房、屋敷、集会所。

 そして、虎斑の社——。

 安清を散々探し回った鵞堂は、とうとう山中にまで立ち入っていた。


 そして、そこで悲しくすすり泣く女の声を不意に耳にする。


 鵞堂は、社の奥へと徐々に歩みを進めた。

 漏れ聞こえてくるその声に、徐々に引き寄せられるようにして。

 何人も立ち入ることを許さない厳重に張られた結界――。

 禁忌を越境した、その先に――。

 

 ぽっかりと開いた、岩の洞穴があった。


 鵞堂は、そこで立ち止まる。

 村の古老玄爺からかつて聞いた、あの昔話をふと思い出したからだ。

 この山のどこかにあるという。

 悪鬼が封じ込められた洞窟のこと。

 その在り処こそが――。


 ここだったのだ。


 そして、そこに安清がいた。


 洞窟の奥に祭られた祠の前で、たった独りで泣き崩れる彼女。


 慟哭する女の姿を見て、鵞堂は思わず息を飲む。


「や、安清様……?」


 鵞堂の存在に気づき、彼女が振り返って――じろりと、睨む。


 紅葉、か――。


 い、いや、違う――。


 これは、血だ――。


 彼女の両の眼からおびただしいほどの鮮血、緋色の涙が流れていたのだ。


「見たな」


 その声色は、いつもの優しい安清とはかけ離れている。

 鈍重で暗く、おぞましさだけが心の底に響いてくるような、悪鬼の声だったのだ。


「あ、あ、あの、こ、駒を作ったので、み、見ていただきたく……」


 恐怖で声が上手く発せられない。

 足が震え、背筋が凍りつく。

 無表情のままの安清は、不気味にもずっと黙っていた。

 

 そうして、そのままゆっくりと――近づいてきた。


 ――お、俺は、このまま喰われるのか。


「……見せよ」


 鵞堂はその手に握り締めていた駒を、彼女の顔前に震えながら示して見せる。

 出来たばかりのその駒を受け取った安清は、真剣な眼差しで眺めた。


「…………うむ」


 そんな彼女の姿を見ていると、鵞堂の心の中からさきほどまでの恐ろしさがいつのまにか消えていた。

 

「良い、出来じゃな」


 母のように慈しむ、あの美しい微笑だった。

 

 気づけば、安清の涙も止まっていた。


 衣装のどこにも血などで汚れてはいなかった。

 

 ――そうだ。あれはきっと、幻だったのだろう。


 だが幻とは言え、全身を緋色に染めた彼女の姿は、とてつもなく美しかった。


 ――ひょっとすると俺は、あの洞窟に住まうという悪鬼に魅入られたのかもしれぬ。

 

 安清は、なぜあの場所にいたのだろうか。

 鵞堂は、あえてそれを彼女に尋ねるようなことをしていない。

 彼女の心中が今も悲しさで満ち溢れていることが、良くわかったからだ。


 人知れずあんなところで、寂しくただ独り泣き続けているなんて――。


 この人はただ悲しくてどうしようもないから、ああして泣くほかなかったのだろう。


 俺たちは、この人の悲しみをいつか埋めてあげることができるのだろうか。


 良い駒を沢山作ることで、彼女の傷を癒せる日がやって来るのだろうか。


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