第五十一話 団子屋慕情(前編)

 ――壱―—

 江戸から北西に八里(約30km)ほど進んだところに、武州「所沢」がある。

 所沢は、江戸と秩父を結ぶ江戸街道沿いに栄えた宿場町であった。

 

 福泉藤吉は、明和三年(1766年)にそこで生まれる。

 藤吉は、子供の頃から無類の将棋好きだった。

 近所では大人を含めて相手にならず、街道を行き交う旅人をつかまえてはよく腕自慢をしていた。

 

 そんなある日のこと。

 

 この所沢の田舎に、わざわざ江戸から将棋師が巡業にやってきているらしい。

 東吉はそんな噂を耳にした。

 さっそく藤吉が、宿場町の中心部にある集会所へ行ってみると、すでに黒い山の人だかり。

 藤吉が、その人ごみを押し掻き分けて最前列へと踊り出ると、会所の中で十徳姿の二人の男が将棋を指しているのが見えた。

 

 男の一人が、駒台に置かれた駒をすっと手に取る。

 

 パチン!

 

 鞭のようにしなるその手つきで、脚付三寸の分厚い将棋盤の上に、駒を強く打ちつけた。

 すると今まで聞いたことも無いような高らかで心地よい駒音が響き渡った。

 

 これが藤吉と将棋家との始めての出会いであったという。

 

 藤吉の実家は、紺屋(染物屋)であった。

 将棋師というものを初めて見た東吉は、さっそく周りの大人たちにあれは一体何者なのかと尋ね歩いた。

 どうやら江戸では将棋家という専門家がいて、広く門戸を開いているらしい。

 中でも伊藤家は、腕に自信のある者なら誰でも入門できるとのこと。

 だが伊藤家の修行は大層厳しいもので、将棋師として大成する者はわずかばかりだそうだ。

 

「おっとう。おら、将棋師になりてぇ」

「はぁ? 何言ってんだおめぇ。おめぇはこの店を継がねばならんだろうが」

 

 藤吉の願いは、父親に空しく一蹴されてしまう。

 なぜなら藤吉は、この所沢で先祖代々継いできた紺屋の跡取り息子だったからである。

 長男である以上、他に生きる選択肢はなかった。


 将棋師を目指したい――


 そんな淡く儚い藤吉の夢は、人知れず断たれてしまう。

 

 二十六になった藤吉は、数年前に事故で父を亡くしてしまい家業を継いでいた。

 それからというもの、毎日額に汗しながら仕事に精を出す毎日。

 日が昇る前から染粉を混ぜ始め、日が暮れるまで綿布を染め続ける。

 染仕事は高い技量と集中力が求められる。

 余計なことなど考えている暇はない。

 いつしか、藤吉は将棋を思い出すことが少なくなっていた。

 

 藤吉の家には年老いて体が動けなくなった母が一人いた。

 その面倒も藤吉が見なければならない。

 

 藤吉の両肩には、ずっしりと重い物がのしかかっていたのだ——

 

(おら、本当にこれでよかったんかなぁ……)

 

 他人の着物ばかりに色を添え、結局気づけば自分の袴は白いまま。

 朝一人で黙々もくもくと作業をしていると、ふと無性に悲しくなってしまう時もあった。

 

 そんな藤吉が、最近になってすっかり埃をかぶっていた将棋盤を押し入れから引っ張り出してきた。

 母が寝静まった月明かりの夜。

 軒先に独りで座って、月光を良く吸い込んだ将棋盤の上に、駒を黙々と並べ続ける。

 

 パチン!

 

 少年の頃からずっと耳に残るあの心地よい駒音。

 

 自分でもそれが出せるようになっていた。

 盤側にくしゃくしゃの紙があり、そこには棋譜が書かれていた。

 藤吉は、その棋譜を盤上に再現していく。

 

「ほおぉ、さすがは鬼宗英。こんな手、おらにはぜってぇに指せねぇ」

 

 藤吉が並べているのは、分家の大橋宗英八段の対局棋譜。

 月に一度、商いの用事で江戸に赴く際に、在野の将棋指しからなけなしの金で譲ってもらったものだ。

 大橋宗英は、誰にでも稽古をつけてくれることで評判だった。

 たとえ無段の者であっても子供であっても、自分が食事中であってもその手を止めてわざわざ稽古をつけてくれるらしい。

 だが藤吉にはそんな稽古代すら払う余裕がなかったのだ。

 

 棋譜には棋士の魂が宿る——

 

 藤吉には、この一枚の棋譜を通して「鬼宗英」の魂を感じるしかない。

 

 これで一体何度目になるだろうか。

 並べるたびに鬼宗英の一手一手に深淵な意味があることを、いやでも感心させられる。

 

(将棋家の将棋師か……。一度でいいから手合わせをしてみてぇもんだな)

 

少しずつではあるが、藤吉は幼いころの夢を取り戻そうとしていた。

 

 藤吉は、商用で江戸に行くと必ず将棋会所に立ち寄った。

 地元で相手に不足していた藤吉だったがさすがは江戸。

 ここでは将棋家の門人や在野の強者にと、相手に事欠くことはなかった。

 藤吉はさらなる強敵を求めて、江戸の在野棋士が集まるという大きな将棋会所を転々とするようになる。

 

 田舎からやって来る風変わりな将棋指し、「所沢の藤吉」——

 江戸の在野棋士の中でも『十傑』に入るほどの実力者。

 そんな風に彼が評判になりかけたのは、この頃だった。

 

 藤吉がいつものように染物の納品を終えて、馴染みの将棋会所で将棋を指していると、見知った男が近づいてきた。

 

「よぉ、久しぶりだな。所沢の藤吉さんよ」

 

 この男は、この将棋会所に良く出入りしている武家の次男坊らしい。

 らしいというのは、藤吉はそれ以外詳しいことをあまり知らなかったのだ。

 半年前に藤吉の指し手を後ろで眺めていたこの男が、「こりゃつええな」と囃し立ててきたのだ。

 その後一度だけ、賭け将棋の代打ちに担がされたことがあった。

 自分の知らないうちにまさかあんな大金が掛かっていたなんて、藤吉は後からそれを知って肝を冷やす。

 それからというもの、この男は藤吉にたびたび代打ちの話を持ち掛けてくる。

 だが藤吉は、賭け将棋がご法度に触れることを知っていたから断り続けていた。

 今日も、そんな代打ちの話だろうと藤吉が憂鬱に思っていると、

「なぁあんた、将棋家の人間と指してみる気はないか?」

 

 将棋家という言葉に、藤吉の手がぴたりと止まった。

 

「へぇ、それは一体どういうことですかい?」

 

 話に食いついてきたと見て、男の口角がくっと自然に上がる。

 

「なぁに、ちょいと俺に付き合ってくれりゃあ良いんだよ」

 

 男の話は至極単純だった。

 今度とある場所で、一局だけ真剣を指して欲しい。

 その相手は、なんと伊藤家六代目当主の伊藤宗看だという。

 藤吉は最初、何かの冗談か名をかたった偽物に違いないと思った。

 なぜなら藤吉のような一介の在野棋士が、真剣勝負で手合わせできるような代物ではないからだ。

 せいぜい高い授業料を支払って稽古将棋をつけて貰えるくらいだろう。

 

「それは……、本当にあの伊藤宗看様なんですかい?」

「ああ、本物の本物さ。もしあんたが勝てば大金星だぜ。江戸市中にその名が轟くに違いない」

 

(自分の名が……江戸に轟く……)

 

 その言葉に藤吉の目がわずかに濁る。

 

 荒指し伊藤宗看――

 

 江戸にたびたび来ていた藤吉は、その名を良く知っていた。

 自分と年が同じくらいなのに、若き将棋師として御城将棋に出仕する俊英。

 名門旗本の次男坊で、伊藤家に鳴り物入りで入門した神童だったらしい。

  

 ――なぜおらはこんなところにいて、宗看様はあの頂に立っておられるんじゃ。

 ——宗看様とおらの一体何が違うというんじゃ。

 ——あの時実家を無理にでも飛び出していたら、ひょっとしたら自分が「伊藤宗看」を名乗っていたかもしれない。

 ——悔しい、妬ましい、なんとかして一矢報いたい。

 

 藤吉の功名心に火がついた。

 御家人の次男坊が、目を細めて静かにそれを見つめている。

 

 ――弐――

 いよいよ、伊藤宗看との決戦の日が来た。

 藤吉は日が昇る前に実家を出ようと準備する。

 所沢から江戸まで歩いて六時間ほど。

 対局は正午だから今から出れば間に合うだろう。

 

「藤吉や……。おまえ、また江戸にいくんかい?」

 年老いた母が床から体を起こして、草鞋を結んでいる藤吉に声をかけてきた。

 

「おっかぁ。ちょっと出かけてくる。明日の朝には戻るからさ」

「すまんねぇ」

 

 突然、母が藤吉に謝ったのだ。

 

「うん? どうしたい?」

「あんたが、将棋師に成りたいって昔言ったとき反対したのは、あたしなんだよ」

「……」

「あんたがどこか遠くに行っちまうのがどうしても寂しくってねぇ……」

「いいんだよ、おっかあ。この店は潰せねぇよ。それに……おら、今でも十分幸せだぁ」

「藤吉……」

「じゃあ、いってくる」

 

 

「所沢の藤吉」との決戦は、八丁堀の旗本屋敷で行われることになった。

 果し合いを見届ける立会人には、将棋家が普段懇意にする屋敷の主、曲淵甲斐守が快く引き受けてくれた。

 もし藤吉が負けた場合、御家人の次男坊が将棋家に文句をつけるかもしれない。

 将棋家としては念のため信頼できる人間を側につけておきたかったのだ。

 

 雲行きの怪しい曇天の中、約束の時間に伊藤宗看が姿を見せた。

 将棋家の面々はほかには見当たらない。

 宗看は、敗北したらその責を自分だけで負うつもりだったのだ。

 

 屋敷の門前では、御家人の次男坊たちが宗看を待っていた。

 団子屋でおせん相手に乱暴を働いていたあの酔っぱらいもいる。

 周囲には噂を聞きつけてきた野次馬たちで黒い人だかりができていた。

 

「ふん、伊藤宗看。逃げもせずよくやって来たな。まずは誉めてやろう」

 

 次男坊の一人が、嫌みな顔で宗看を挑発してくる。

 

「ああ、もちろんだ。さぁ、俺の相手はどいつだ?」

 と宗看は素っ気なく言って、目の前にいる男達をきょろきょろと見定める。

 

 宗看に全く相手されていない次男坊を、くすくすと野次馬が笑いだす。

 

「ふ……ふん。まぁ、こっちにきな」

 

 肩透かしを食らった次男坊の一人が、気まずそうにくるりと背を向けた。

 宗看も他の次男坊たちに取り囲まれながら、屋敷の中へと入る。


 屋敷の玄関につくと、団子屋のお千が立っているのが見えた。

 どうやら宗看のことを心配して駆けつけてきたらしい。

 

「宗看様!」

 

 お千が何か言おうとしたが、宗看は何も答えずに履物を脱ぎ、廊下を歩いていってしまった。

 宗看が対局場となる四十畳ほどの大広間を覗くと、すでに将棋盤と脇息、座布団がしっかり準備されていた。

 

 しばらく盤の前に宗看が座っていると、襖が開いて一人の男が入ってきた。 

 痩せていて背がひょろっと高い、朴訥とした感じの青年だった。

 どうやら別室で先に待機していたらしい。

 

「こちらが所沢の福泉藤吉先生だ」と次男坊が宗看に紹介する。

「福泉……藤吉」

 

 宗看は、在野の将棋指しが嫌いだった。

 だから藤吉の名もこれまで聞いたことがなかった。

 将棋家で学んできた宗看には、在野の将棋がどうしても下品で粗野に映る。

 誉れある将棋家と違い、在野には博徒やいかさまをする不届き者すらいる。

 さながら一攫千金を狙う香具師のようなものであった。

 将棋を汚れた金儲けの手段にするなどあってはならぬ、宗看はそう考えていた。


 一方の藤吉は、宗看の姿を見て委縮する。


(この御方が伊藤宗看先生……。まだお若いのに何とも威厳のある方だなぁ)


 意を決して所沢からこの屋敷に来てみたものの、これまで経験したことがない真剣勝負の雰囲気に、藤吉は少しずつ飲まれようとしていた。

 

「では伊藤殿、駒割はいかがいたそう?」

 

 立会人の甲斐守が、宗看にハンデについてどうするのかと尋ねてくる。

 

「左香落ちでいかがでしょうか」

 

 将棋家が在野の将棋指しと平手を指すことはまずない。

 とすればこの左香車落ちの提案は、藤吉に対する最大の敬意を表している。

 宗看からすれば、この手合いで敗北すれば全く言い訳がたたない。

 藤吉の方はもちろん異存はない。

 将棋家当主つまり七段との左香車落ち。

 つまり藤吉を五段格と見なしているのだから、むしろ光栄にすら思えた。

 

「それではお二人とも、そろそろ始められよ」

 

 立会人が開始の合図を伝え、盤を挟んだ二人は静かに頭を下げる。


 大広間には対局者の二人以外に立会人の甲斐守、御家人の次男坊達、そして部屋の隅にはお千が両手を合わせて宗看を見守っていた。

 

 まず上手の宗看が、初手△3四歩と角道をあける。

 

 ▲7六歩△4四歩▲2六歩△3五歩▲2五歩△3三角▲4八銀

 

 △3二飛

 

 宗看は、定跡通り左側の足りない香車を補う意味で、三筋に飛車を振った。

 東吉の方は、居飛車のまま飛車先の歩をずんずん伸ばしていく。

 

 ▲6八玉△6二玉▲7八玉△7二玉▲5八金右△9四歩▲9六歩△4二銀

 ▲4六歩△5二金左▲1六歩

 

 しばらく玉将を金銀三枚で囲い、互いに自陣を整備する。

 玉将を守る「囲い」は手数をかければかけるほど頑丈になる。

 だが、その分攻勢に転じるのが遅れて、後手に回る危険が伴う。

 一手ずつ交互に指す以上、攻撃と守備それぞれどの程度手をかけるかは指し手の戦略によるのだ。

 

 ほぼ互いの陣形が定まったところで、頃合いと見た宗看は、

 

 △5四歩▲1五歩△5五歩

 

 と五筋の歩を五段目まで突きこしてきた。

 一方の藤吉も、一筋の歩を同じく五段目まで突きこす。

 

 まるで意地の張り合いのように、互いが違う筋に「歩の突きこし」を主張する形となった。

 中央の五筋と端の一筋。

 果たしてどちらの構想が優っているのだろうか。

 この時点では周囲の者にはさっぱり分からない。

 

 ▲同 角△3六歩▲2四歩△同 歩▲3六歩△4五歩

 

 宗看は五筋にせっかく突きこした歩を、藤吉にただで取られるのを構わずに、立て続けに三筋、四筋の歩も突き捨てていく。

 

 「将棋の開戦は歩の突き捨てから」

 歩は、将棋の駒の中で最も価値の低い駒。

 仕掛ける側は、自分の歩を相手にわざと取らせることで、相手の駒を前のめりに崩させて、攻めを実現する。

 

 だが、たかが歩とはいえ序盤で無策に失うことは、形勢を大きく損ねてしまう危険すらある。

 「仕掛け」とは、常に危険の伴う行為なのだ。


 いずれにせよ開戦の狼煙を上げられた。


(よぉし! ここで一気に行くぞぉ)


 ▲3三角成!

 

 藤吉の方からいきなり角を切り捨ててきた。

 宗看はこれにも動じずに、ただ静かに△同銀とそっと角を取り返す。

 

 ▲5四角打ち!

 

 藤吉の指先がしなる。

 これは読みに自信のある手つきだ。

 宗看の飛車を直接狙いながら、一歩得を狙った巧手である。

 

 △3一飛▲4五角

 

 藤吉は歩を掠め取って、じっと角を下げて様子を伺う。

 少しばかり有利になったからと言って不用意に攻め立てようとはしない。

 冷静で慎重、歴戦の強者らしい腰のすわった指しまわし。

 

 △3四歩打ち

 

 宗看は手持ちの歩を自陣に打ち込んで辛抱する。

 立会人の甲斐守にも、宗看のこの手が一目辛い印象を受けた。

 

(宗看の方が少々悪いか……。だがなぜだ? ここまであえて歩をとらせて積極的に動いたのは宗看の方。それがすでに形勢を損ねている。まさか読み抜けか……!?)

 

 「荒指し」は攻めッ気十割と評され、どんな時でも攻めを重視する。

 そのせいで、自ら形成を損ねて自爆することも多かった。

 勝つときは圧倒するが、負けるときは華々しく大爆発して散る。

 だがそこには一変の悔いも見受けられない。

 そんな荒指しの将棋をよく知る甲斐守には、この時も宗看が自爆したものと見えていた。

 いずれにせよ、そんな宗看の読みを上回っている藤吉の指し回しも実に素晴らしいものだった。

 好機と見ても決して焦らず、まるで花の蕾が咲き開くかのように、じわりじわりとその差を広げていくのだ。

 

 ▲4七銀△8二玉▲5六角△7二銀▲8八銀△6四歩▲7七銀△6三銀▲3七桂△7二金

 

 しばらくの小競り合いが続いた後、再び自陣を整備し直す二人。

 おそらくこの後、藤吉から全面攻撃を仕掛けるはずだ。

 

 間違いなくそこで——

 

 決着がつく。

 

 ▲4五桂!

 

 とうとう藤吉の左桂馬が天高く跳躍した。


(こ、これはひょっとして……、おらのほうが有利なんじゃねぇか……?)


 それを見てすかさず宗看も。

 

 △3七角打ち!

 

 持ち駒の角を相手の陣地にぐりぐりっとねじり込んでいく。

 

 ▲2九飛△4四銀▲2二歩

 

 藤吉は「お返し!」とばかりに手裏剣の歩を、宗看陣の桂馬に向かって放つ。

 

 だが——

 

 △5五銀

 

「な! け、桂馬を逃げないだと!」

 

 御家人の次男坊の一人がこの手を見て、思わず声を上げてしまった。

 勝負中の合いの手、助言はもちろんご法度である。

 だが、それもいたしかたがない。

 ただでさえ、宗看の方は歩損しているのに、ここでさらに桂馬まで損なうのだ。

 

 外野の反応にも一向に動じない宗看は、大事な桂馬を見捨ててもなお、中央へと駒を進めていく。

 藤吉がちらりと宗看の顔色をうかがう。

 その顔には一切迷いが感じられなかった。

 

 あくまでも王道。

 そして中央指向。

 名人となるべき者の将棋の片鱗が、そこに見え隠れしていた。

 

 動かざること山の如し。

 

 ▲2一歩成△同 飛▲4九桂△5六銀▲同 歩△5七歩▲3七桂△5八歩成

 ▲同 金△3五歩

 

 宗看は歩を二枚損。さらに持ち駒に歩が一枚もない。すなわち歩切れ。

 桂馬も失っており、左香車は最初から存在しない。

 

 つまり戦力差が計り知れないほど開いているのだ。

 荒指し伊藤宗看、既に劣勢と言って良いだろう。


(大丈夫……。これだけおらのほうが有利なら、多少手が緩んでも逆転しねぇ)

 

 十分に優勢と見た藤吉は「よし!」と初めて声を高らげた。

 飛車、角を成り込ませる方針を立て、しっかり細かい読みを入れていく。

 そう、ここで決着をつけるつもりなのだ。

 

 ▲同 歩△7四歩▲1二角△3一飛▲2四飛△3五飛▲3六歩

 △3一飛▲2二飛成△5一飛


 

 ▲3四角成 !

 

 とうとう、藤吉の飛車が龍に、角が馬に成った。

 それに比べて宗看の飛車は、自陣の隙間にはまり込んでしまって身動きがとれない。

 さながら巨漢の宗看が、倉の中に押し込まれて縮こまっているかに見えた。

 

 所沢の藤吉、すでに勝勢と言えようか。


 既に対局開始から三時間が経過しており、午後三時を超えていた。

 対局者だけでなく、観戦している者にもずっと緊張が張り詰めている。


「皆さま、ご休憩にこちらをどうぞ」


 お盆を携えたお千が観戦していた者たちに、急須で入れたお茶を振る舞っている。

 皆その気遣いに少しだけ心を和ませ、緊迫していた会場の空気がふっと緩んだ。

 茶請けとして、お千の店の焼き団子が添えられている。

 将棋は頭脳を使う分、糖分がことのほか必要になる。

 陰ながら宗看を応援しようとするお千の健気な気持ちに、皆が感心する。


「あの……福泉様も」


 ところがお千は盤の前まで来ると、どうぞと藤吉にも焼き団子を差し入れた。

 詳しく事情を聞いていないが、この勝負はこの娘が発端になっているはず。

 藤吉としては敵方である自分にまでこうして団子を振る舞うお千の素直さに、なんだか調子が狂ってしまう。


(それにしても、焼き団子とはありがてぇな。おらの大好物じゃあねぇか)


 宗看の方は、お千がせっかく持ってきてくれた焼き団子には一切目もくれず、将棋盤をずっと睨んだまま一向に指そうとしなかった。

 集中しきっていて、きっとお千が側にいることすら気づいていないのだろう。


 だが——


 焼き団子を口に入れた瞬間、藤吉は戦慄を感じる。


(あれれ、おかしいぞ? おらのほうが勝ってるはずなのに……。なんだこの胸騒ぎは……)


 そう、本当の勝負はここからだったのだ。


                              (後編へ続く)


【宗歩好み!TIPS】『所沢のとうきち』

 所沢の「とうきち」は実は二人いる。本編で登場したこの「福泉藤吉」と、明治時代の強豪「大矢東吉」である。豪放磊落な大矢東吉は、若いころ江戸で晩年の天野宗歩に何度も挑戦したが結局一勝も勝つことができず、修行のため全国を放浪した。

 そんな将棋に縁がある所沢に、幕末から約二百年後の現代、一人の天才棋士が誕生する。

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