第五十話 鬼宗英
荒指し宗看の養父、五代伊藤宗印がひどく苦々しい顔をしていた。
「まかりならぬ!」
と、いきなり目の前に座っている宗看にむかって、激しい口調で叱責をする。
麻布の伊藤家屋敷には、この二人以外にも大橋本家の九代宗桂、大橋分家の宗英も顔を揃えていた。
そんな他家の当主の面前であっても、宗看はこの老人に向かって頭を下げ続けなければならない。
なぜならこの老人は隠居の身でありながら、なお伊藤家において権勢を奮い続けていたのだから。
この場は毎月の将棋家当主会議ではなく、臨時の集会であった。
三家の当主に加えて、隠居した五代宗印までもがここに集まっているその理由こそ。
そう、先日宗看が引き起こした「団子屋騒動」にもちろんほかならない。
これが発端となり、今や江戸市中では「荒指し」宗看と在野強豪「所沢の藤吉」の果し合いが評判になりつつあったのだ。
評判の当人である宗看は、当然のように「所沢の藤吉」を迎え撃つつもりでいた。
――なにより、俺はお千殿を救わねばならぬ……。あのような卑怯者たちに彼女を好きにさせてなるものか。
お千とは、あの団子屋の娘のことである。
ところが暴漢から助けられたお千の方は、逆に宗看の身を案じてくれていた。
――宗看様の名誉に傷がつくぐらいなら、いっそのこと自分が。
そんな宗看を思いやる彼女の優しい気持ちが、彼の心を一層激しく燃え上がらせていた。
宗看は、目の前に座っている三人がこの果たし合いに大いに賛成してくれると考えていた。
なぜなら伊藤家、ひいては将棋家の歴史とは常に在野棋士との闘いの連続だったからだ。
初代伊藤宗看は、将棋家の基盤がまだまだ脆弱だった時代、我こそはと名を馳せようとする在野棋士たちの挑戦を真っ向から受けてたった。
そうして彼は将棋家の権威を磐石のものにしたのだ。
三代伊藤宗看も、当時在野最強を誇っていた在野棋士が将棋家に七段を認めるよう要求してきたのに対して、堂々と打ち勝ってその要求を退けた。
最強の将棋家、それが伊藤家。
そんな伊藤家の伝統と誇りをまるで無視するかのように、父の宗印は「まかりならぬ」と宗看の私闘を一蹴したのだった。
「なぜでございますか、父上!?」
「将棋家、それも当主のお前が一介の在野棋士と私闘など、もってのほかじゃ」
「な、なんと・・・・・・」
宗看は養父のその言葉が信じられなかった。
実力本位の伊藤家にとって、たとえ私闘であっても目の前の勝負から逃げるなどあってはならない。
そんな風に教えられてきたはずだったからだ。
それにもしそんなことをすれば、自分の方があの御家人の次男坊たちよりも卑怯者に成り下がってしまうように思えてきた。
恥をかき、笑い者にされるのを想像すると、かっと頭に血が上る。
不満をあからさまに表情に浮かべるそんな宗看に、五代宗印は懐柔するように諭す。
「よいか、宗看。将棋家が在野と戦うならば、まず寺社奉行様に願い出なければならんのじゃ。我ら柳営(幕府と将軍のこと)にお仕えする身じゃぞ。手前勝手な私闘など一切まかり通らぬ」
「た、確かにおおせのとおりにございます。しからば今からでも——」
それでもなお食い下がろうとする宗看に対して、五代宗印が手でそれを遮った。
「もし寺社奉行様のお許しがあったとして、万一負けようでもすれば将棋家の権威は失墜するじゃろうて」
「……権威が失墜、ですと?」
「そうじゃ。将棋家が負けたということは、ひいてはそれをお許しになられた寺社奉行様のお顔も潰すことにもなるのじゃぞ。いやそれだけはない。柳営のご権威まで損なわせたとして、我ら全員厳しいお咎めを食らうやもしれん」
宗看とて将棋家の人間である。
二百年続く家門を守るということは、一時の感傷で成り立つものではない。
養父の言いたいことはよく理解していたつもりだった。
それに伊藤家が「名人」の座から遠ざかって、かなりの年月が経っていた。
数十年ぶりの伊藤家からの将棋所名人誕生。
名人への道を志半ばで叶わなかった養父にとって、荒指し宗看はまさに希望の星そのものだったのだ。
――このようなくだらぬ私闘などで、お前の名に傷をつけるわけにはいかぬのだ。なんとかして金で解決せよ。
それを耳にした途端、宗看は急に冷めた心地になる。
——はたして、それで本当に良いのだろうか?
——将棋家はそもそもはじめからこの地位にあったわけではない。
——これまで数々の真剣勝負に打ち勝ってきたからこそ、今があるはずなのに。
「父上……」
「なんじゃ?」
「俺たちはいったい何のために将棋を指しているのでしょうか?」
「なんじゃと……?」
「在野の将棋指しから真剣勝負を挑まれ、それから逃げるなど臆病者のすることです。俺たちが……血を吐く思いで毎日あれほど技芸を磨いてきたのは、まさにこういうときのためではないのですか!?」
「ええい、宗看! お主……このわしに向かってよくもそのような減らず口を!」
父であり師匠でもあり、将棋家の前当主でもある五代宗印は、宗看にとってまさしく絶対者だった。
宗看はまだ当主として若い。
隠居とはいえ、いまだ五代宗印による院政が伊藤家にしかれていることは、将棋家の者であれば周知のことだった。
その絶対者に口答えするなど、廃嫡か破門を覚悟の上での発言に違いない。
だが、負けるかもしれないという理由で、目の前の勝負から逃げる将棋師に一体何の値打ちがあるというのだ?
正義感の塊のような宗看からすれば、一人の女すら救えない男など聞いて呆れる。
若い血潮が煮えたぎる宗看には、全く納得がいかなかったのだ。
「父上……俺は――将棋家の将棋師として、真剣勝負がしたいのです!」
宗看が、なおも五代宗印を睨み続けている。
この二人が親子の関係になってから初めての抵抗だった。
だが五代宗印の方も、反抗する宗看に一歩も譲らないつもりだ。
伊藤家の奥座敷には緊張感が充満し、まさに一触即発の状態となる。
そんなときだった——。
「やらせれば良いのでは?」
今までずっと黙っていた大橋宗英が、突然口を開いたのだ。
その意外な発言に五代宗印が目を剥く。
「な!? そ、宗英殿、本気で言っておられるのですか? もしこやつが負けでもしたら……」
「もし負けたのならば、宗看殿は——」
腹を切れば良いではないか、と宗英は冷たく言い捨てたのだ。
宗英が、宗看の方をじっと見つめてくる。
まるで「それしきの覚悟あってことであろう?」とでも言いたそうにして。
「は、腹切りなど……。たかが一局の将棋で……ふざけておる!」
五代宗印のこの言葉を聞いた瞬間、宗英が凄まじいほどにまで鋭い口調でこう言い放つ。
「ほぉ。今『たかが一局の将棋』と申されましたか? そもそも貴方は、命を賭してこれまで将棋を指しておられなかったのか?」
—―宗英、まさに「鬼神」のごときかな。
十代将軍徳川家治が、死ぬ間際に彼をそう評したことがあったそうだ。
人でありがら、人ならざる神の一手を追求するその存在。
孤独の中で、人智を超えた世界を追い求め続けたこの男は、すでにもう——。
「く、狂っている……」
五代宗印のこの態度は、誠に正しいものである。
一局の勝敗で将棋家二百年の歴史、二十石十人扶持の禄高、百坪に及ぶ拝領屋敷、免状発行による多額の収入など経済的基盤を揺るがす恐れがあるのだ。
これは当人だけの問題でない、多くの一族や門人を路頭に迷わせることにもなりかねない。
まともな神経であれば、慎重になるのは当然のことであろう。
徳川家治の死後、大橋宗英はますます何かに駆り立てられるかのように、純粋に棋理のみを追求し続けていた。
その反面、世俗にはあまり関心を見せようとはしなかったそうだ。
そんな彼の痛々しいほどまでに将棋に打ち込む姿を見て、彼のことをまるで鬼か修羅のようだと評する者さえいた。
この男は『棋神』となることを目指して、将棋の鬼となったのかもしれない。
五代宗印はそんな宗英の狂気じみた言葉に、ただ反駁せず沈黙を続けるしかなかった。
なぜならこの老人の念頭には結局、将棋家を守ることしかなかったからだ。
宗英の問いに正直に答えるならこう言うだろう。
「負ければ自分達の生活が苦しくなるから」
だが隠居したとは言え五代宗印もまた勝負師であるに違いなかった。
そんなことは到底口が裂けても言えない。
そのとき――。
「やります。俺にやらせてください!」と宗看がさらに言い張った。
「宗看!? き、貴様、正気か!?」
五代宗印は、手塩をかけてきた養子が最悪腹を切る羽目になるかもしれないと想像し、動揺を隠すことができない。
「父上、俺は必ず勝ちます! それにこれは将棋家に対する挑戦です。もし断れば、将棋家は目の前の勝負から逃げたと笑われるに決まってます」
「ぐ……。た、確かにそれはそうだが・・・・・・」
苦虫を潰したような顔をする五代宗印が、助け船を求めるかのように九代大橋宗桂名人の方をちらりと見た。
この場における最高決定権者、大橋本家当主の九代宗桂名人。
鬼宗英とてこの名人の言には従うだろうと、五代宗印はわずかな期待を寄せたのだ。
「名人! なにとぞお願いします! 俺にやらせてください!」
宗看は、九代宗桂名人にむかって頭を下げて願い出た。
周囲の視線を一手に引き受けた九代宗桂名人が、
「本当に勝てるのだな?」と宗看に向かってそう尋ねた。
宗看は――「必ずや」とはっきり応えた。
九代宗桂名人は目をつむったあと、しばらくして「よし」とだけ告げる。
これを聞いた五代宗印は「はぁ」と深いため息をつき、がっくりうな垂れることになる。
——弐——
結局その場は、これにて散会となった。
宗桂名人と五代宗印は、相談ごとがあると言って部屋をそそくさと出ていってしまった。
ひょっとしたら、懇意の寺社奉行のもとにこれからお伺いして、最悪の結果だけでも免れようと根回しを画策しているのかもしれない。
それはそれできっと必要なことなのだろう。
将棋家を守り続け、自分たちが安泰に生きていくためには、そう言った処世術や生きる知恵が必要なことを宗看もわかっているつもりだ。
だが、血気盛んでまだ若い「荒指し」宗看には、そういった九代宗桂名人や父の老成した態度が、なんだか卑怯で汚らしいものに見えてしまう。
それに比べれば、大橋宗英の態度こそいっそすがすがしく感じるのだ。
宗看は、座敷に残っていた宗英に向かって、
「あの……先ほどはありがとうございました。嬉しかったです」と深く頭を下げた。
宗英の横やりがあったからこそ、自分は勝負の舞台に立てることができたのだ。
「宗看よ。我々は最強の将棋家ぞ。在野棋士ごときに負ける弱者など腹を掻っ捌いて死ぬほうが良い」
ああ、そうだ。
勝負師であり武士の子である以上、負ければいっそ腹を切るくらいの潔さが必要なのだ。
宗英の将棋に対する真摯さが、宗看の心に熱く胸打つ。
だが、次の宗英の言葉が、宗看の期待を遙かに裏切ることになる。
「して宗看」
「は、はい……?」
「お主、このままでは負けるぞ」
「へ……?」
一瞬、何を言われたのか良くわからなかった。
困惑の表情を見せる宗看に向かって、宗英が氷のような瞳ですっと見据えてくる。
――お、俺が負けるだと……。そんな馬鹿なことを……。
だが宗看は、ここであることにふと気づく。
自分を見据える宗英の眼が、清流のごとく澄んでいたのだ。
――ああ、そうだ。
――この目を俺は知っている。
――人の心の弱さを戒める、あの鬼神の眼差しだ。
宗看は、幼かった頃のことを突然思い出した。
――母上、どうして鬼はあんなにも恐ろしいお顔をしているのですか?
旗本屋敷の近くにあった寺院の山門にそびえ立つ鬼神の像を見上げながら、宗看少年は震えるように母に尋ねた。
――鬼があんなにも怖い顔をするのは、弱き人の心を戒めるためなのですよ。
優しい母にそうやって言われてみると、確かに鬼の形相は恐ろしいものだが、その目だけは澄んでいるように見えてきた。
勝負の世界に生き続け、人の心の弱さをこれまで嫌というほど何度も見届けてきた大橋宗英。
そんな彼が今、自分のことを戒めている。
――ああ、そうか。宗英様は俺が気づいていなかった心中を見透かしたのか……。
実は、宗看は先ほど「純粋に真剣勝負がしたい」と養父に言ったが、それは本心ではなかったのだ。
もちろんそこに嘘や偽りはない。
だが、この勝負に勝つことでお千を救えることが本当の目的だった。
いや、違う。そうでもない。
——この勝負に勝ったらお千が俺の方を振り向いてくれるのではないか。
それが宗看の本音だったのだ。
そう、これはまさに虚栄心そのものだった——。
過去幾多もの将棋師や在野棋士たちを、己の身の内から焼き滅ぼしてきたあの恐るべき邪念。
「何かを得るために目の前の勝負に勝ちたいという心」は、真剣勝負の最中に迷いを生み出すもととなる。
宗英は、宗看の目に浮かんだわずかな濁りから、天邪鬼のようなこの下心を読み切ったのだ。
まさしく慧眼と呼ぶにふさわしかった。
「明鏡止水」
宗英が静かにそう呟く。
「め、めいきょうしすい……?」
「そうだ。ひとたび盤を前にした限り、一切迷うてはならぬ。一思いに相手を斬れ。よいな、宗看」
「……は、ははーっ!」
後に、荒指し伊藤宗看はこの時のことを回想する。
あのときの宗英様はかつての徳川家治様のように、柔和で優しい表情だったと。
この数年後、大橋宗英は第九世名人を襲うことになる。
大橋分家史上二人目の将棋所「名人」の誕生である。
宗英名人は、最晩年に大橋柳雪を弟子とした。
そして――。
「鬼宗英」の意志を受け継いだ柳雪は、天野宗歩へその夢を託すことになる。
だが、その話はまた別の機会に譲ることにしよう。
なにはともあれ、「荒指し」宗看と「所沢の藤吉」の果たし合いが将棋家で決裁された。
寛政二年二月のことである。
『宗歩好み!TIPS』「
初代伊藤宗看が戦った京の在野棋士。雁木囲いの創始者。
宗看との百六十六手にも及ぶ壮絶な対局に負けて、血を吐いて倒れたという。
でもその後も宗看と普通に対局しているので結構大丈夫だったみたい。
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