第十幕目 角と飛

 ——甲——

 菱湖りょうこ(荘次郎)が、宗歩と瓜二つの夕霧ゆうぎりを見つめている。


(ああ、なんて美しい人なんだろう……)


 菩提寺の住職が仏前でお経を唱えている間、夕霧は目を閉じそっと手を合わせていた。

 故郷で失った家族のことに想いを馳せながら、冥福を祈っているのだろう。

 

 ――この人のほうが今も地獄を生きているというのに……。

 見てくれだけではない、そんな心根の優しい夕霧に、菱湖は思わず見惚れてしまったのだ。

 宗歩と同じ顔形だから余計にそう思うのかもしれない。

 そう。この人は宗歩だが、宗歩ではない。

 今、菱湖の心中に淡い恋心が芽生え始めていた。

 

 読経が終わり次第、夕霧が紙に包まれた金子を懐から取り出して、住職に手渡す。


「菱湖様、本当にありがとやんした。これでもうこの世に思い残すことがありんせん」

「夕霧さん、なにもそんなに大袈裟な……。でもこれでご家族の供養も済みましたし、本当に良かったですね」

「はい、きっとあの世へ旅立つことができたでありんしょう」

「……では遊郭に戻りましょうか。お師匠様もきっとお待ちですからね」


 菱湖は一瞬、夕霧が戻りたくないと言ったらどうしようかと懸念けねんした。

 果たして自分はこの人を強引にあそこに連れ戻すことができるだろうか。

 この人にこのまま二人で逃げようと言われたら、自分は断りきることができるだろうか……。

 そんな一抹の不安が、菱湖の頭を一瞬よぎる。


 だが、それは杞憂だった。


 菱湖の懸念を吹き飛ばすかのように、夕顔は、

「そうでありんすね。宗歩様のことが心配でありんすから早く戻りましょう」

 

 優しい笑顔を見せながら、彼女は菱湖にそう返事してくれたのだった。


 そんな菱湖と夕霧の二人が菩提寺を後にして、新町遊郭へと戻る途中のこと——


「わっちは大坂まで女衒ぜげんに連れて来られたから、こうして外の町を自由に歩いたことなど一度もありんせん。本当に宗歩様には感謝してもしきりんせんよ」

「夕霧さん……」

「菱湖様にもこうして案内してもらって本当にありがとやんした」


(こんなにも優しくて美しい人が遊女をしているなんて……なんだか辛くなるよ)


 菱湖は、他人を思いやれる夕霧の情の深さに感じ入り、これからも苦界で生きなければならない彼女を、何とかしてやれないものかと考えていた。

 だが、将棋指しの見習いにすぎない自分にできることなど限られている。


 そのときだった——。


 通りの『かど』から良く見知った一人の男が飛び出してきたのだ。

 危うく菱湖は、その男とぶつかりそうになる。


「……うわぁ!? あぶないって……た、太郎松さん!?」


 菱湖の眼前に突如現れたその男は、なんと市川太郎松だったのだ。


 なぜかその姿は——ふんどし一丁で。


 太郎松も菱湖の存在にようやく気づいたらしく、

「おおう! なんだ奇遇だな、荘次郎じゃねぇか!」と素っ頓狂な声を上げた。

「なな、なんで裸なんですか! そんな恰好で往来を走ったら、お役人様に掴まりまってしまいますよ!」

「はぁん、こちとら追いはぎにあったんだからしょうがねぇよ!」

「お、追いはぎ!? なんで!? あ、そうだ太郎松さん——」

「俺の着物をあいつが勝手に持って行っちまったんだよ! ところで荘次郎——」


「——お師匠様を見ませんでしたか?」

「——宗歩を見なかったか?」


 全く同じことを口にした二人が一瞬だけきょとんとする。


「なんだ、お前も宗歩のことを探していたのか? って、その横にいるの……宗歩じゃねぇか!? おい、俺の着物返しやがれ!」

「いえいえ! この方は夕霧さんです。お師匠様とそっくりですが別人なんです」


 そう言って、菱湖が夕霧のことを太郎松に紹介する。

 太郎松は夕霧の姿をまじまじと見ながら、

「へぇー、すげぇな。本当に生き写しみたいじゃねぇか。なるほどなぁ、あいつはこの人と取り換えっこしてたってわけか。これでようやく合点がいった」


 褌一丁姿の太郎松が、腕を組みながら納得した様子でうんうん頷く。

 その仁王立ちが、粋でさまになっているなと菱湖は思わず感心してしまう。


 ずっと二人の話を聞いていた夕霧が口を開いた。


「はて、ぬし様。それでは宗歩様は……一体どこに行かれたでありんしょう。わっちが戻ってくるまでの間、新町の置屋で待っているはずでありんすが?」

「おう! それだよ、それ。なんでも俺が大橋柳雪様から聞いた話だと、行きずりの素上がり客を取らされちまったらしい!」

「えええ!? お、お師匠様が遊郭で!? そ、そんなぁ……」


 菱湖の顔面がたちまち蒼白になる。


「ああ、それであいつはよぉ。悲しみに暮れちまってな……。そう、きっともう混乱しちまってたんだろう……。俺の着物をかっぱらって遊郭を飛び出しちまいやがったんだ。ええい、畜生め! なんて可哀そうな奴だ!」

「悲しみ……混乱……男装……。ああ、お師匠様、なんてことだ! うわぁぁん」

「しっかりしろ、荘次郎! 柳雪様のお話では、宗歩は『夕霧さんを探しに行く』と言っていたらしい……あいつが取り返しのつかないことをしないうちに探すんだ!」


 それを聞いた夕霧の顔も、みるみるうちに蒼白になる。


「なんと……! そんな……宗歩様がわっちの代わりに、ああ……えらいことになってしもうた」

「まぁ、とりあえず宗歩を探そうや。たぶん、あんたの菩提寺を目指しているはずだよ」

「で、でも、私達はその菩提寺から遊郭を目指して真っ直ぐに戻ってきたんですよ!」

「うーん、よし、なら別の道だな。稲荷神社の境内を突っ切る方向が近道だ。あっちを探してみようぜ」

「わっちは……このまま遊郭に戻ったほうがいいでありんすか?」

「いや、夕霧さんはまだ揚屋にいることになってるから、まだ少しは時間に余裕はある。それに一人で戻っても門番に怪しまれるからな。ひとまずみんなで宗歩を探そう」

「はい、わかりんした」

「うかうかしていると女郎が足抜けしたと騒ぎになって大変なことになる。急げ!」


 こうして三人は宗歩を探すべく、稲荷神社へ向かうことになった——


 ——乙——

 真剣な眼差しで盤上の駒を睨みつける大男。


「ぐぬぬ……」


 客のいない飯屋の奥座敷。

 大男が錦旗と将棋盤を挟んで対峙していた。

 その顔つきは——かなり険しい。


「ほほほ、ほれ勝負はすでに決しておる。もう降参すりゃれ」

「ぐぬぬぬ……」

「それにしても、伊藤家の二段というのも意外と大したことないのう」


 いつの間にか錦旗が大男の扇子を奪い取って、ぱたぱた悠然とあおいでいた。

 そんな勝利を確信する錦旗の顔を、大男がちらりと見て、

「くぅ! ま、参った! 降参だ!」と根をあげた。


 年端も行かぬ少女を相手に、自慢の将棋で不覚を取ったのが相当悔しい様子。


「ありがとやんした。まぁ分かりきっておるが、いちおう数えるかの」


 二人は、互いの手に持つ駒箱を盤上にひっくり返す。

 その中からじゃらじゃらと駒が弾け出した。

 それぞれの駒を升目に揃えて、その枚数を数え出した。


「ほほ、わっちが三十枚、おんしが十五枚。圧勝じゃな」

「ぐはぁ! こ、この娘、つ、強すぎる……」


「将棋崩し」


 古来より伝わりし将棋道の裏芸——

 駒を駒箱に詰めて盤上にひっくり返し、そのまま箱を持ち上げる。

 すると、駒が山のようにうずたかく積み上がった状態となる。

 その塊を己の指一つで切り崩す真剣勝負である。

 山が崩れたり、駒音を立てると失敗。

 音を一切立てずに盤外まで駒を滑り落とせば成功。

 互いに山を崩し合いながら、より多くの駒を奪い取った方が勝ちとなる。


「いやぁ、錦旗殿は強い。将来は将棋崩しの名人であるな! はっはっは!」

「ほほ。なんせ屋敷では、宗歩様も菱湖もわっちに勝てやせんからの」


 いつの時代も将棋盤を前にすれば知らぬ仲でも打ち解け合うもの。


 すっかり仲の良くなった錦旗と大男に、

「あ、あのう……。お二人とも……そろそろ神社に待ち伏せに行かんと……」

 と暖簾をめくりながら小男が、恐る恐る声を掛けた。


「おお、もうそんな刻限であったか! ではそろそろ行くとするか」


 そう言って、大男は用意していた狐のお面をかぶった。


「なんじゃそれは?」と錦旗がそのお面を見て、不思議そうに首をかしげる。

「これから身代金を奪いに行くのだ。一応用心のためと思ってな」

「余計に目立つような気もせんではないが……」


 その後、三人は飯屋を出て、神社の境内まで歩いた。

 日は少し傾きつつあるが、夕刻までにはまだ少し時間がある。

 幸いにも境内には誰もいなかった。


「よし間に合ったようだな。では儂たちはお社の裏側に隠れておこう」

「兄貴、それにしても東伯齋は本当にやって来るんかな? やっぱり一千両なんて大金、用意できへんのんとちゃいますか」


 すると、錦旗が機嫌悪そうに、

「ふん。おんしらあんまり期待せん方がええぞ。東伯齋は金の亡者じゃ。わっちを助けになんぞ来やせんよ」と呟く。


 そうして三人でじっとしていると――。

 ガラガラ。

 お社の入り口から物音が聞こえてきた。

 物影から大男が覗いてみると、ふらふらしながら歩いてくる男がいた。


 東伯斎だった。

 髪を振り乱し、その表情はまさに鬼の形相である。


 ドカッ!


 地面に何か大きな物を置く音——


「おお、あれはまさしく小林東伯齋。本当にきたぞ! しかもあれはまさに千両箱!」

「す、す、すげぇ! おいらあんな大金が入った箱、初めて見た!」

「……」


 驚嘆する大男と小男をよそに、錦旗は神妙な面持ちで黙っている。


 ――なんじゃと……。東伯齋が本当に来よった……。わっちのために!?)

 

 動悸が激しくなり、錦旗は困惑する。


 ――なんでじゃ……? あやつはわっちのことを奉公に出そうとしたはず……。小林家を……乗っ取るつもりじゃなかったのか?

 

 いきなり屋敷に転がり込んできた、がさつな中年の居候だったはず。

 錦旗の遊び相手だった菱湖を奪った敵だったはず。

 水無瀬を娶って、跡目にまんまとついた卑しい男だったのにはず。


 果たして――そうではなかったということか?


 ああ、そうだ。

 東伯齋は父母を失った自分たちを養女にし家を守ってくれたではないか。

 だから錦旗も彼のことを少しずつだが、信じるようになっていた。

 なのに――。

 玉枝を嫁にやり、菱湖を弟子に出し、挙句の果てには錦旗を奉公に出す。

 そんな話を偶然耳にした途端——錦旗は混乱してしまったのだ。


(わっちは……わっちは……ひょっとしてとんだ勘違いをしてもうたのか……?)


 そのときだった——。


「錦旗を返してくださぁい! お願いします! ほんまに後生ですさかい!」


 境内に、東伯齋の悲痛な叫び声が大きく響き渡ったのだ。

 体面や格好などなりふり構まわず、ただひたすら娘を想う父親がそこにいた。


「お願いしまぁす! なにとぞぉ! なにとぞ、錦旗を……わしの娘を返してくださぁい!」


 ――ああ、東伯齋が……泣いている……。


「錦旗……殿?」


 大男が、錦旗の顔を見る——


 彼女もむせび泣いていた。

 

 「…………おとう……ちゃん……。ごめんなさい……」


 声をおし殺して、ただぽろぽろと。

 大粒の涙を石畳へ落としながら。


 大男はそんな錦旗をそっと抱きしめた。

 彼の袖の中で、錦旗は声を出すまいとただ静かに泣き続けるしかなかった。

 寂しさゆえに東伯齋の気持ちを試した己を強く恥じた。

 東伯齋を信じてやれなかった自分が呪わしかった。

 だが東伯齋の愛情を知って、ただただ嬉かった。


 なにとぞぉ、なにとぞぉ……。

 東伯齋の声が少しずつ遠ざかっていく。

 どうやら千両箱を置いて、立ち去ってしまったようだ。


 その後も、暫く三人は黙ってじっとしていた。


「すまぬ。もう大丈夫じゃ……取り乱してしもうたわ」

「き、錦旗ちゃん……」

「……錦旗殿、そこまで送っていこう」


 二人は錦旗を小林家の屋敷に近い東側の出口まで連れて行った。


「それでは……あっしらはこの辺でいいですかねぇ」

「ああ、そうだな。錦旗殿、では達者でな」

「うん……おんしらも……」


 錦旗は表情はそれでも暗かった。

 自分が犯した罪をこの小さな体で必死に受け止めようとしているのだ。

 大男がふと口に出す。


「なぁ、錦旗殿。本当に儂らはあの一千両を頂戴してよいのか?」


 錦旗はかぶりを振りながら、

「……ああ、それは構わぬ。あれはおんしらが手に入れた身代金じゃ。好きに使ってくりゃれ。この責めは——わっちが一生かかっても償うとする」


 彼女の毅然な態度に、大男はそれ以上何も言えなかった。

 突然、小男が感極まって、

「錦旗ちゃん、うううぅ。本当にありがとな。おいらざびしいよぉ」

「ええい、小鬼め、泣くんでない! わっちまでかなしゅうなるわ」

「うぅ。おれは小男だよぉぉ! 錦旗ちゃん、おいら兄貴と一緒に性根入れ替えて生きてからね」

「ああ。短い間じゃったが二人とも達者でな」


 錦旗は二人にそう言い残し、最後に悲しい笑顔を見せた。

 そうして、屋敷の方へと消えていった。


「やれやれ、あの親子も仲良く暮らせばよいのだが……」

「ほんまに。錦旗ちゃんには幸せになってほしいですわ」

「うむ。だが、これで儂らも思わぬ財を得た。これを元手に道場を再興しようぞ」

「おお! 兄貴ぃ、こっからもう一度やり直しましょうや!」

「うむ!」


 そんなことを言いながら二人は、千両箱が置かれてある場所へと戻っていく。

 戻ってみるとお社の賽銭箱の前には、やはり千両箱が残されていた。


 だが、しかし——


「げえぇ! な……なんでぇ!?」


 小男がその場で『飛』び上がった。

 大男も驚きのあまり、声が震えている。


「ど、どうゆうことだ!? 何故あやつが……麒麟児があそこにいるのだぁぁ!」


 千両箱の上に天野宗歩がぼんやりと座っていたのだ——

                            (第十一幕へ)

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