第九幕目 馬と成金

 ——甲——

 天野宗歩落つる――


「ふぅー。なかなかの暴れ『馬』やったわ……」


 ちょろりとひたいに汗垂らす布袋さんが、銀の煙管きせるをふかして外を眺めた。

 ぷはぁっと白い煙を格子窓から外へ吐き出し、自分の隣に目を移す。


 座敷に敷かれた布団の上には――


 何も言わずにうつ伏せになっている宗歩がいた。

 その肩は小刻みに震えている。


「…………」


 ふと見ると枕がすこしだけ湿っていた。

 涙の跡だろうか。


「あんさん、初めてやったんやな……」

「…………」

「にしてはなかなか筋良かったで。すまんな、つい本気出してもたわ……」


 黙ったままの宗歩が一瞬びくっと全身を震わせる。

 さきほどまでの悪夢が脳裏によぎったのだろうか。


 そして宗歩は顔を上げて布袋さんをきっと睨んだ。


「くやしい……だから……もう一回相手して……」


 悔し涙にその目を赤らませながら、宗歩が言う。


「なんや、あんたもなかなかの負けず嫌いやなぁ」


 布袋さんがにたぁっと笑いながら、手を伸ばすその先には……


 

 とても大きな将棋盤があった——



 宗歩と布袋さんの間に、縦十二マス、横十二マスの将棋盤が置かれていたのだ。

 そして、盤上には九十二枚の駒が無造作に散らばっている。


 中将棋――


 通常の本将棋よりも盤面が縦横三マス分ほど広く、駒の種類が圧倒的に多い。

 江戸時代、特に関西で流行したもう一つの将棋だ。


 本将棋と大きく異なる点は、まず取った駒が使えないということ。

 そして、駒の種類が豊富であること。


「麒麟」、「鳳凰」、「獅子」、「盲虎」、「猛豹」、「醉象」、「角鷹かくおう」、「飛鷲ひじゅう」など神獣の名がつけられた破壊的に強力な駒。


「奔王」、「太子」、「銅将」、「仲人」など王族や将軍の名がつけられた特殊な駒。


 本将棋の指し手が中将棋を初めて指す——

 このとき、駒の種類の多さに見た目ほどの負担は感じないようだ。

 単に覚えてしまえば済むからだろう。


 だが、本将棋に慣れれば慣れるほど、違和感を強烈に感じる駒が一つあった。


 その駒を「獅子」という――


 なんと二回行動が許される反則級の駒である。


 その獅子を用いた中将棋独自の手筋に「居食いぐい」があった。


 居食いとは、目の前に来た駒を取って、また元の位置に戻る行動のこと。

 この居食いが本将棋に指し慣れた者にとっては鬼門となるのだ。


 将棋は、相手の駒と同じマス目に辿り着くとその駒を取ることができる。


 本将棋には、自分の駒(たとえば歩)を相手の駒に接近させ、相手にその駒をわざと取らせたうえで反撃するという発想(これを突き捨てという)が非常に多い。


 だが、中将棋において獅子の前に突き捨てた駒は、単に喰われて終わる。


 獅子の周りは死屍累々――


 宗歩もまさにこの居食いの計略に陥れられたのだった。


「うぅぅ、将棋家で中将棋の作法は教わったけど、まさかこんなに勝手が違うとは……。なかなか深いわね」

「そうやでぇ、中将棋は将棋が単に大きくなったわけとちゃうんや。麒麟が成ったら獅子になる。そしたら盤面に最初の獅子に加えて二頭。この二枚獅子の扱いこそ中将棋の花や」

「麒麟が獅子に……へぇ、面白いね! おっちゃん! 私にもっと教えて!」

「ほほう、小娘のくせに味を覚えよったか。あんさんなかなかの好きもんやなぁ」

「えへへ」


 ——将棋好きは、ひとたび将棋盤を前にすれば寝食を忘れて指し続けるのだ。


 そんな風に二人で中将棋談義に盛り上がっていると――


「やれやれ、うるさいですねぇ。こんなところで将棋の話ですか?」


 と、隣の座敷から男の声がして、突然こちらの部屋の障子戸が開いた。


 そこには――


 宗歩の良く知っている「あの人」が立っていた。


 漆黒の総髪に、氷のような透き通った瞳。

 燃え盛るほどの紅蓮の着物を身にまとい、帯には派手な金の刺繍入り。

 歌舞伎めいたその出で立ちは、まさに稀代の美丈夫。

 その手から放たれる「捌きのいかづち」は、見る者を圧倒し魅了しさえする。


 天下無双の将棋指し、大橋柳雪——


 ――ああ、この人はいつだって美しい。



 宗歩が柳雪の姿に見惚れていると、柳雪がこちらに気づいて、

「おや? あなた……ひょっとして……」

「おおお、お久しぶりです! 柳雪さまぁ!」

「何ですか、宗歩さんじゃありませんか。ほんと久しぶりですね」


 突然の出会いに感極まった宗歩が柳雪に抱きつく。

 と、その拍子にはらりと着物の前がはだけてしまった。


「きゃっ! 恥ずかしい!」と頬を露骨に赤らめる宗歩。


(全然恥ずかしそうに見えへんねんけど……)と布袋さんが冷めた目をする。


「おやおやその格好は? 宗歩さん、とうとう遊女にでもなったのですか?」

「ちちちがいます! これは行きがかりで――」

「ゆきずりで知らない男とこんな淫らなことをしているのですね」

「ゆきずりではなくて、行きがかりです! てか遊女にもなっていません! 純粋に将棋を指していただけです!」

「将棋……、中将棋に浮気するなど本当にあなたは節操がないですねぇ。宗歩さんは意外と尻軽女なんですね」

「えええ!? それって将棋の話ですよね!? なんか違う意味に取れるんですけど! そうではなくて、この方が中将棋を私に教えてくれてたんですよぉ。信じてください……」


 挨拶とばかりに宗歩をおちょくり十分満足したご様子の柳雪。

 彼が、宗歩の隣に座っていた男の方を見る。


「おや、あなたは……」

「おお! 柳雪やないか! 久しぶりやな」

「え、柳雪様……、この人のこと御存知なんですか!?」

「ええ、よく知っていますよ。三河の米村利兵衛様。在野の六段です」

「よ、米村利兵衛六段……」


 宗歩も江戸にいた頃その名を聞いたことがあった。


 東海の鬼ごろし――


 京出身の在野棋士でその指し手は凄まじく、江戸にも名が届くほどだった。

 若かりし頃の柳雪も何度も手を焼いたらしい。

 今は一線から身を引き、縁あって将棋好きな大名家の将棋指南役として三河に身を落ちつけている。

 そこで中将棋の普及とその歴史の研究に勤しんでいるそうだ。


(な、なんだ、助平な布袋さんじゃなかったのか……)


「そうですかぁ。布袋さんって、そんなにも凄い方だったのですね」と、宗歩が感心したように言う。

「ほ、布袋さん……? 米村先生は、明日の公開対局の立会人として私がお呼びしたのですよ」と、柳雪が応える。


 すると布袋さんこと米村利兵衛が、

「なんやぁ、柳雪は夕霧はんのこと知ってるんかい?」

「いえ、米村先生。この方は夕霧ではなくて、天野宗歩という将棋指しです」

「は? 天野宗歩……。あの噂に聞く江戸の麒麟児かいな!? どおりで将棋の筋がええわけや。ていうか天野宗歩って女やったんかいな?」

「ええ、故あって男装しているのですよ」


 そのときだった――


 宗歩は柳雪の後ろに——決して見てはいけないものを見てしまったのだ。


 廊下にふんどし一丁姿の太郎松が立っていた。

 その手には和綴本を一冊持っている。


「たたたた太郎松!? あんたなんでここにいるの?」

「お前こそ何やってんだ? こんなとこで」


(太郎松って柳雪様に会いに来てたの……? ていうかなんで裸なのよ!)


 困惑顔の宗歩をよそに、太郎松の方は一向に気にしていない様子。


「ちょちょちょっと、柳雪さまぁ! た、太郎松とは一体どういうご関係で?」


 焦りながら必死に食い下がる宗歩。


 それを見た柳雪がものすごい意地悪そうな顔で——


「あちゃあ、ばれてしまいましたか」

 と舌をぺろりと出した。


 ――ああ、そんなお姿も可愛い美しいわ……


 いやいや断じてそういうことではない、と宗歩は首を振り振り思い直す。


(なんということでしょう。あの柳雪様と太郎松が……)


(太郎松がここまでやってきたのは柳雪様に逢うため……?)


 宗歩の頭に衆道(男色)めいた妄想がたちまち広がる。

「ああ! 柳雪様、どうして俺の手を縛るんだ!? や、やめろぉ!」

「ふふふ、太郎松さん、飛んで火にいる夏の虫とはこのことですね」

「くうっ! だ、だめだ! おぉ、俺はぁ……あーっ!」



「ぐはぁ! だめ! それはやばすぎる!」


 妄想破裂寸前の宗歩がくねくねさせながら悶え死にしそうになる。

 それを見ていた太郎松が、

「おい! ど、どうした宗歩?」


(は! ということは……太郎松は玉枝さんと柳雪様を両天秤に……!?)


 もう宗歩の頭脳は限界だった。

 今日は、朝からいろんなことがあり過ぎたのだ。

 だからもう仕方がなかったのだ。


 ブチッ!


 宗歩の頭の中で何かが事切れる——


「……この……畜生めがぁ!」


 グボォ!!


 宗歩が太郎松のみぞおちにいきなり鉄拳を食らわす。


「ぐふぉ! な、なんで……?」


 バタッ!

 太郎松が苦悶の表情を見せながら崩れ落ちた。


「もう知らん! お前のことなぞ本当に知らん! 私は帰る!」


 そう言って宗歩は座敷から飛び出そうとする、がすぐに思い直す。


「は! そうだ、夕霧さん! 私がいなくなったらあの人が大変なことになる。それに手形もない! どうしよう!」と困り果る宗歩。

「おや、どうしました? 宗歩さん」と柳雪がそんな宗歩に声を掛けた。

「柳雪様……、あのちょっとだけお願いがあるのですが……」

「はいはい、なんでしょうか?」とクスリと笑いながら柳雪はそう答えた。


 ——乙——

 ところ変わって——

 小林東伯齋は、大坂今橋の両替商、天王寺屋の客間座敷にいた。

 東伯齋の目の前には、色の白い神経質そうな番頭が座っている。

 その番頭が渋い顔をしながら、

「小林様……、いきなり五百両やなんて急な話やないですか」

「せや、ほんまの急用や。なんとか都合つけてくれまへんか?」


 これだけの大金をいきなり貸し付けてくれるほど東伯齋には信用がなかった。


「先代様ならまだしもあなた様にはちょっとねぇ……」


 市中の商人たちから見れば、商歴の浅い東伯齋が棚から牡丹餅で小林家を継いだように映るのは仕方のないことだった。


「『成金』の東伯齋」


 元将棋指しだけに、陰でそう茶化されていることも東伯齋は良く知っていた。

 この目の前の番頭の顔からも「成金風情が」と露骨な軽蔑さえ感じ取れる。


「せやから屋敷も家財も全部質に取ってくれてええ。頼む! この通りです」

 そう言って、東伯齋は畳に擦り付けるくらい頭を下げた。


「……ほんまにええんでっか。もし返せんかったら、おたくの店潰れまっせ」

「覚悟の上や」

「……銭をなんに使うか教えてもらえんのやろか?」

「それは……言われへん」

「まさか、どこぞの遊女を見受けしようとでも——」

「阿保か! 腐ってもこの東伯齋、商いを放り出して遊びに現を抜かすほど落ちぶれてへん!」


 しばらくの沈黙―—


 東伯齋の鬼気迫る覚悟が、番頭にもようやく通じたのだろうか、

「……ふぅ、わかりました。では五百両、きっちり融通しましょ。けど証文は書いてってや」

「ああ、ああ。おおきに、ほんまにおおきに……」



 東伯齋が五百両を抱きかかえて小林家の屋敷に走り帰ってみると、水無瀬も丁度戻ってきたところだった。


「あなた! きっちり二百両、大叔父様がお貸ししてくれましたわ!」


 汗だくの水無瀬が東伯齋に言う。

 彼女も死に物狂いで市中を走り駆けたに違いない。

 その隣には大叔父が立っていた。

 心配してここまで姪の水無瀬に付き添ってきてくれたのだ。


「おい、東伯齋! 錦旗は……錦旗は本当に無事なんやろうな!?」

「大叔父様……大丈夫です。儂が絶対に助けて見せますさかい」


 こうして瞬く間に一千両の小判が小林家の座敷に用意された。

 千両箱に小判をぎっしり詰め込むと相当な重さになる。


「あなた、一人でこれを担げますか?」

「ぐぐぐ、ちょっと重いわぁ。しゃあない、神社の前まで寅吉と一緒に運ぶことにするわ」

「しょ、承知しましたデゲス」


 二人は、神社まで大きな風呂敷で包んだ千両箱を台車に乗せて運ぶことにする。


 その最中のことだった——


「あの……東伯齋サマ……」

 台車を後ろから押していた寅吉が、神妙な顔付きで東伯齋に話しかけた。


「うん? なんや?」

「じつは……その……錦旗サンの誘拐は、最初私の狂言だったのデゲス」

「……」


 寅吉が東伯齋にすべてを告白する。

 もとを正せば自分が引き起こした事件。

 寅吉の心中たるや今までずっと後悔につつまれていたのだ。

 耐えきれなくなった寅吉は、錦旗が東伯齋を疑っていることも全部告げた。

 東伯齋はそれをじっと黙って聞いている。重たい台車を前へ引きながら。


「本当に申し訳ありませんデゲス……私があのとき錦旗サンに協力しなければ……」

「もうええよ。錦旗をそこまで追い詰めたのは儂のせいなんや」

「え!? ど、どういうことデゲスカ?」


 東伯齋の脳裏に昔の記憶が蘇る——


「あんた……菱湖に何してんねん?」


 玉枝が東伯齋に恐ろしい剣幕で詰め寄っていた。

 その後ろにはじーっと睨みつける錦旗もいる。

 東伯齋が折を見て菱湖に将棋を教え始めたことだった。

 おそらく遊び相手の菱湖を取られて錦旗が玉枝に告げ口でもしたのだろう。


「へ? 菱湖お嬢さんに、しょ、将棋を教えとったんですけど……」

「はん! そんなん言うて、菱湖にいやらしいことしよう思てたんやろ! 気持ち悪いおっさんや!」

「い、いや、そんな……」


 バッ!


 いきなり玉枝が盤上の駒を乱暴に外へと投げ捨てた。


「ちょっと! なにすんねん!」

「……錦旗、この駒全部捨ててきぃ」

「……」


 錦旗は、玉枝の言いつけ通り、散らばった駒を黙って拾い集めようとする。


「これだけは! これだけは、堪忍してください! 玉枝お嬢さん、お願いします! これは儂の命より大事なもんなんです!」

「命!? なんやねん。こんな汚い駒が命より大事やなんて。はは、ほんま笑えるわ。なにが将棋指しや。名人なるのん失敗して、うちの家で丁稚奉公しとるやないの。なんちゅう恥さらしな人生や!」


 玉枝はひどく興奮しているのか、頬を紅潮させて一気に捲し立てる。

 それを正座しながらじっと聴いていた東伯齋が口を開いた。


「……そんなに将棋が憎いですか?」

「ぐっ……! 将棋が憎いんやあらへん、そうやって好きなことして生きてるあんたが……うちはうっとうしいんや!!」

「わしが……うっとうしい?」

「そうや! 好きで始めた将棋を辞めて、商売人に鞍替えした思ったら、また将棋にうつつ抜かしてる。男は……みんな勝手すぎや!」


 激しくそう言い捨てて、玉枝は座敷を後にした。

 小林家の二女として生まれた玉枝には、東伯齋の生き様が羨ましかったのかもしれない。

 男勝りで子供のころから父の背中を追い、いつかは父を助ける染物職人になりたかった玉枝。

 女としてすくすくと成長する自分の身体に、心の方が追い付かず引き裂かれそうになっていたのだろう。

 そんなとき小林家に転がり込んできたこの風来坊のことが、玉枝は許せなかったのだ。


(なんでや!? なんで東四郎はよくて私はあかんのよ! なんで男は好き勝手生きられるのに、女はあかんねん……)


 その二年後のことだった。

 東伯齋が水無瀬と結婚したのは。

 先代の主人が、東伯齋の斬新な発想力と生真面目に働くその姿を見込んで、小林家の跡を託すことを決心したのだ。


 その直後——

 流行り病で先代父母がともに急死する。


 四姉妹はこれに動揺した。

 豪商の令嬢として、これまで何不自由なく育てられた自分たちがいきなり宙へと放り投げられた心地だったからだ。


「小林屋もこれでお終いかねぇ……」

「ああ、跡取りの東四郎さんもしっかりしているが、なんせ商売歴が浅いわ。店の職人を引っ張っていけるかどうか……」

「せやけど、あのお嬢さんらみんな別嬪さんやし、借金のかたに遊郭に売られたでもしたらさぞかし人気出るやろなぁ」


 傾いた店の借金の肩代わりに、遊女に落ちる商家の娘は実際にいた。

 周囲の評判は、東伯齋が商売の素人だからいずれを店を畳むことになるだろうと見ていた。

 

 だが東伯齋は店を継いでからも、なにか特別な事をしたわけでない。

 たしかに古いやり方に疑問を感じることも多かった。

 だが、今はそのときではない。

 ひとつひとつの仕事を丁寧に行い、どんなに小さな商売でも雑に扱わずコツコツとこなし続け、身近なところから信用を着々と積み上げていったのだ。


 (負け将棋ちゅうのは辛抱が一番大事なんや。焦って勝負手、派手な手を放ってすっ転んでもうたら一巻のお終い。一手一手辛抱強く受け続けて、少しずつ挽回するのが儂の将棋……)


 そんな東伯齋の背中を見て、玉枝と錦旗も少しずつではあるが心を開き始める。

 それでもまだ——本当の親子になったわけではない。

 東伯齋もことあるごとに彼女たちには気を使ってきたが、特に幼い錦旗には至らないところが多かったように思う。


 だがいつの日か——

 みんなが揃って本当の家族に成れる日がきっと来る。

 そう信じて東伯齋は一日一日を生きている。


 「よし! ここでええわ。 あとは儂一人で行くさかい」

 「ほ、本当に大丈夫デゲスカ?」

 「ああ、大丈夫や」


 参道までは台車を乗り入れずに、東伯齋は積んでいた千両箱を両手に抱えて、お社の方へと向かっていく。

 千鳥足になりながらも一歩ずつ一歩ずつ前へと進む……。


「ふぅ、ふぅ、千両ってこんなに重いんやなぁ。けどな……錦旗の命に比べたらこんなもん軽すぎるわ! はは、儂うまいこと言うたなぁ」


 賽銭箱の前に着く。

 どかっと千両箱をその前に置いて、周囲を見渡した。

 静かだ。誰もいなかった——

 が、きっとどこかで賊が見張っているに違いない。

 あとは信ずるのみ。


 バッ!


 東伯齋が石畳の上でお社の向かって土下座をした。


 その姿はまるで神へ祈りを捧げているようだ——


「小林東伯齋、ここに参りました。お約束どおりの金一千両、耳そろえてお持ちしましたでぇ!」


 神社の境内に張り裂けるような叫び声が響く。


 沈黙―—


 東伯齋が覆っていた風呂敷を解き、千両箱の蓋を開けてみせる。

 箱の中には、沈み始めた夕陽に照らされて黄金色に輝く小判がみっしりと詰まっていた。


 そうして——


「錦旗を返してくださぁい! お願いします! 後生ですさかい!」


 東伯齋が膝から崩れ落ちて、泣いていた。


「お願いします! なにとぞぉ! 錦旗を……わしの娘を返してください!」


 恰好とか体裁なんてどうでもよかった。

 ただ娘を想い、泣き叫びながら懇願する父親の姿がまさにそこにあった。


                           (第十幕へ続く)

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