第八幕目 桂と香

 ——甲——

 ――刻は少し遡って、天野宗歩が神社を立ち去った後のこと。


 茶店の床几しょうぎに腰かけた宗歩が、回転焼きを頬張ほおばっている。


(太郎松と玉枝さんが逢引なんて……結構な衝撃だわ……)


 宗歩は馴染みの茶店で、動揺を抑えるためにさっきから好物の回転焼きをヤケ食いしていた。


「まったく! 太郎松のばか! 将棋の修行をほっぽらかして、女にうつつを抜かすなんて……あるまじきだわ!」


 これで三つ目の回転焼きとなるのだが、構わず手を伸ばそうとしたとき——


 宗歩の目の前を、あの太郎松がすたすた歩いていたのだ。

 その手には一冊の和綴本を持っている。


(え、なんで!? さっきまで神社にいたのに? ひょ、ひょっとして——)


 一瞬、自分のことを追ってきてくれたのかと思った——


 が、そうではないということがすぐに分かった。

 誰かを探しているというよりも、どこかを目指しているようだったからだ。


 宗歩が目と鼻の先にいるのに気付いてないらしく、そのまま足早に目の前を通り過ぎる。


 ずきん――と宗歩の胸が少しだけ痛む。


 そんな太郎松を見過ごしているうちに、宗歩はふと気がついた。

 太郎松が一人で歩いていることに。


「……玉枝さんは? なんでひとり?」


 そう思ったら、いても立ってもいられず宗歩の足は勝手に前へと進んでいた。

 太郎松の跡をつけるため。

 回転焼きを口に頬張りながら——

 

(これは何かあるわ。絶対尻尾を捕まえてやる……)


 それから太郎松が細い道に入っては出て、出ては入ったりして右往左往する。


(いったいどこに向かっているのよ。ひょっとして道に迷ってるのかしら?)


 うろうろしながらかなり時間がかかって、ようやく長屋の裏横丁に出てきた。

 太郎松は躊躇なく裏木戸を勝手に開けて、鬱蒼とした裏長屋の敷地を勝手に通り抜けていく。


(ちょ、ちょっと! 人ん家に勝手に入っていくんじゃないわよ!)


 仕方がないから宗歩も裏長屋を通り抜けていくしかない。


 その長屋町を通り抜けたその先に——


 つややかな雰囲気をかもし出す異様な空間が一気に広がった。


 お堀でぐるりと囲まれた上に、背の高い木塀で二重に取り囲まれたそこは、城塞のようであり牢獄ようでもあった。

 

「え! ここって……」


 そう、ここは新町遊郭だ――


 予想外の目的地に、宗歩は驚きというより呆気に取られた。

 しばらく町の雰囲気に飲まれていたが正気を取り戻すと、今度はふつふつと怒りが込み上げてくる。


「なんで遊郭に……? ぐぬぬぬ、あいつ、玉枝さんという人がいるのに、女郎にまで手を出すなんて……。なんちゅう不埒な奴だ! 折檻してやる!」


 宗歩は、どんどん前へ進んでいく太郎松の跡を追うように、堀に架けられた大橋を渡ったその先、遊郭の入り口「大門」の前へと辿り着いた。


 するとそこで——

「待て待て! おい、お主ここがどこかわかっておるのか?」


 番屋に駐在する番役に声を掛けられ、宗歩は足を止められてしまう。

 まぁ、女が一人で遊郭に入ろうとしているのだから、止めるのは当然なのだが。


「知っているわよ。ほらこれでしょ」

 と、先行く太郎松を目で追いつつ、宗歩は一枚の札を門番に見せつけた。


「ほぉ、手形持っておるのか。うむ本物だな。通れ」


 門番は手形を見るとあっさり道を開けた。


「帰りも必要ゆえ、決して無くさぬよう」と親切に声をかけながら――


 宗歩は「ありがとう」と言いながら一目散に大門を走り抜ける。

 門の先には、幅の広い大通りが真っ直ぐに突き抜けていた。

 

 新町遊郭の中央に横断する目抜き通り「瓢箪町」。


 この大通りの左右には一番格上の「大見世」が目立つような看板を引っ下げて整然と立ち並ぶ。


 圧巻であり壮観だった——


 この瓢箪町に十字交差するように「狸横丁」、「土屋横丁」、「道屋横丁」と細い道筋が走っており、そこにも「中見世」と「小見世」がひしめき合う。

 更にその外回りには「切り見世」——最下層の女郎屋がある。


(え!? これ全部が遊郭なの……町ひとつ分あるわね。信じられない……)


 幕府公認、遊女二千人を要する三大遊郭の一つ、大坂新町遊郭。


 娑婆しゃばとはしきたりも価値観も異なる妖艶で耽美な世界がそこに広がっていた。

 まさに宗歩にとってここは異界そのもの——

 そんな所に覚悟もなく踏み込んだ自分が、不意に恐ろしくなって尻込みする。

 前に進もうとするが、宗歩の足が震えて上手く動いてくれない。


「あれ? あいつどこ行った?」


 必死で首を回しながら太郎松の姿を探そうとする。

 が、どうやら完全に見失ってしまったようだ。


「しょうがない……とりあえず町を探してみるかな……」


 宗歩が町をうろうろしていると、妓楼ぎろう(遊女がいる建物)の張見世はりみせ(格子状の囲い)の中に佇む遊女がじろじろと宗歩を見つめてくる。

 惣籬そうまがきの中から睨みつけるその目からは、言葉こそ発しないが「女が一体何をしにきた」という強烈な敵意を感じる。


(男には猫なで声で声をかけるのに……なんて恐ろしいところなのよ)


 目抜き通り「瓢箪町」の一番奥にある大見世「扇屋」——

 宗歩がこのひと際大きい遊郭の前を通りかかったときだった。

 ふと、二階の回り廊下の手すりに腰掛けた女と目が合ったのだ。


「あれって……私?」


 宗歩は上から見つけた。


「え……? なんで私がそこにいるの?」


 いや違う——

 あれは自分ではない。自分とそっくりの顔だった。


「ほぉ、これは珍しい。ぬしはわっちじゃな」


 その遊女が、宗歩に上から声を掛けてきた。

 明るく朗らかな優しい声だった。


「ほ、本当ですね……」と、宗歩はその女に生返事をする。


(こんなことってあるんだな……)


「なんとも奇遇でありんすな」

「そ、そうですね。びっくりです」

「これも何かの縁かえ。ちと話でもしていきしゃんせ。わっちは夕霧ゆうぎりでありんす」

「わ、私の名は天野宗歩です」

「宗歩様……素敵な名じゃな。よし裏口にまわってくりゃれ」


 建物の裏側に回るとそこに勝手口があった。

 夕霧が下に降りてきて、その勝手口を開けて待ってくれていた。


「今は昼見世の前じゃから、みんな昼寝しているでありんす。店の者もほとんどだれもおりんせん。さぁ、上がってくりゃれ」

「お、お邪魔します……」


 勝手口から台所を通って、ぎしぎしと響く古い階段を上がると、二階の廊下に出た。

 廊下の右手側には、座敷が四つばかり並んでいてすべて障子が閉められている。


「ここはな。座敷持ちの遊女がおるところでありんすよ」

「座敷持ち?」

「人気がある遊女でありんす。他の者は下の広間で雑魚寝しんす」


(へぇ、遊女にもいろいろ身分があるんだ……)


 宗歩は廊下の一番奥、その四番目の部屋に通される。

 その部屋が夕霧の生活する座敷らしい。

 宗歩の部屋と同じくらい狭い、四畳半の部屋だった。


 新町遊郭は江戸吉原と違い、遊女が生活する「置屋」と客が遊女と遊ぶ「揚屋」に構造が分かれている。

 客は「揚屋」に入ると、そこで所望する遊女を指名し、指名された遊女が「揚屋」に届けられるという仕組みだ。

 「揚屋」を共用することで、「置屋」を最小限に作ることができ、施設や設備をそれぞれが用意する手間が省ける。

 こうして遊郭全体の敷地の有効活用を図っているのだ。

 宗歩が今いるのは置屋だから、客はここにはやってこない。

 遊女以外にここにいるのは、店の主人である楼主とその家族、奉公人などだ。


「へぇーこんな風になっているんですねぇ。私、遊郭って初めてなんです」

「そりゃそうでありんすよ。遊女以外の女がこの町に入ることは、ほとんどありんせん」

「そ、そりゃそうですね!」

「それにしても……わっちらは……ほんとそっくりじゃのう……」


 そう呟いて、夕霧が宗歩の頬にそっと手を当てる。

 白く美しい手が裏返され、さらに頬をなでる。

 宗歩は、なんだか自分に触れられた気がして倒錯した。


「ええ……まさに生き写しですね」


 宗歩と夕霧は部屋で互いのことを話した。

 ひょっとしたら血縁関係ではないかと思ったがそうではなく、本当に偶然だったらしい。


 夕霧が煙管をふかしながら、宗歩の話を興味深く聞く。

 夕霧はとても聞き上手で話していて心地が良くなってくる。

 煙管をふかす姿もさまになっていて妙に艶っぽい。


「ほほ、女の将棋指しでありんすか。それは珍しいの」

「ええ。でも、普段は男の格好をしているのですが……」

「なんと! ぬしは男装の麗人かえ? ほんま渋いのぉ」

「ところで夕霧さんは……その…どうしてここに?」


 宗歩は聞いた後、「しまった」と激しく後悔した。

 

(私の馬鹿! 好きでこんなところにいるわけないじゃない……)


 悪気があったわけではなかった。

 ただ純粋に、自分と同じ姿をしたこの人のことが知りたかったのだ。


「ご、ごめんなさい! 私……失礼なこと聞いてしまって!」

「あいあい。じゃが、わっちのことなぞ聞いてもせんないことでありんしょう」

「いいんです。私……将棋のことしか知らなくて。夕霧さんのこともっと知りたいです」


 宗歩は夕霧の生い立ちとその成れの果てを最後まで聞いた。

 そして号泣した。

 嗚咽を漏らして、慟哭した。


(……つ、辛すぎるよぉ。そんなことって、ほんとにあるんだ……うえぇぇ)


「おやおや、ここにいる娘なぞ、大抵そんなもんでありんすが」

「……自分がいかに恵まれてたか、痛いほど分かりました……」

「そうじゃなぁ。わっちは見ての通りこの町から出りゃれやせん。おそらく死ぬまでな」

「え!? で、でも借金を返せば……」

「借金は膨らむばかりじゃて」


 この町では遊女が生活するために必要な物は、全て彼女たちの負担だった。

 休日もほとんどないから、体調が悪くて休む時は自分で自分を買い上げるしかない。

 よほどの人気を得て金持ちにでも見請けされない限り、生きている間に借金を返すことは難しかったのだ。


「じゃが、慣れてしまえば——ここも悪くはない」

「……そんなものですか……?」

「そんなもんでありんす。飯も寝るところも苦労はせん。外に出たところで行くあてもなく、野たれ死にでありんしょう」

「そうなんだ……」


 宗歩は悶々としながらも、何も言えなかった。

 あまりにも生まれ育った環境が違う彼女たちに、軽々しく頑張ってなんて言えない。

 でも、偶然に出会った自分そっくりな彼女の力になってあげたいと思った。


「あの……何かしたいこととかありませんか?」

「いきなりなんじゃ?」

「私でよかったら……なにかできることがあればと思って」


 夕霧は真剣な顔をしながら暫く考えて、

「そうでありんすな。死ぬまでに一度でいいから家族を供養したいでありんす。わっちがここに連れて来られるまでに死んでいった婆や妹、母さまのな」

 と、夕顔は寂しそうな表情を見せる。

 そうして続けて、

「この遊郭の外にわっちの村と同じ菩提寺があるそうじゃ。そこに行って供養すれば天国に届くやもしれん」

「なら、供養に行ってください」

「ほほ、それは無理じゃ。わっちはここから出られん。ぬしが代わりに行ってくれるのかえ?」

「いえ私が行くより、夕霧さんが直接行く方が良いと思います」


 そして意を決したかのように、宗歩が続けて言う。


「あの、よかったら……私と、とりかえっこしませんか?」


「なんじゃて!? とりかえとな?」

「半日でよかったら、私あなたの代わりにここに座っていますから」

「……まぁ、わっちは今日休みじゃから客を取ることはせんが……。じゃが、もしわっちがそのまま戻って来んかったら……ぬしはどうするつもりじゃ?」

「大丈夫。あなたはそんなことしない」

「ふふふ、ぬしはおひとが良すぎるのぉ。まぁ確かに体一つでここから逃げ出しても、結局は野垂れ死にんしょう。わっちはここでしか生きられん」


 こうして宗歩と夕霧は身体を入れ替えることになった。

 夕霧の部屋で宗歩は遊女の着物に着替え、お白粉を塗られて、『鬘(かつら)』をつけ、簪を四本挿した。

 最後に紅を引くととそこには――


 傾国の美女、宗歩太夫がいた。


 (やれやれ東伯齋の言うとおりになってしまったわね……)


 「よいかえ、遊女はお国の訛りを隠すために言葉尻に『ありんす』となんでもつける。もし誰かに話しかけられたらそう答えてくりゃしゃんせ」

「うん、わかった……でありんす」

「ふふ、ありがとう。では行って来る」


 宗歩から手形を借りた夕霧は、障子をそっと開けて外に誰もいないことを確認する。

 この時間なら、裏口から出てしまえばたぶん気づかれないだろう。

 そのまま音を立てずに階段を下りて、どこかに消えてしまった。


 特に騒ぎが起きていないということはうまく出られたということだ。

 無断で遊女が逃亡すれば、苦しい折檻が待っている。

 それでも家族の弔いをしたいという夕霧の気持ちに宗歩は同情した。

 しばらく部屋でボーっとしていると店が騒がしくなってきた、昼見世の時間だ――


「おーい、みんな集まってくれーい」


 階下で誰かの呼ぶ声がした。

 それに応えるかのように、座敷持ちの遊女たちが階段を降りていく音がする。


(こ、ここに居てもいいのかな? それとも降りていった方がいいのかな?)


 とりあえず、自分だけここに居るわけにもいかないだろうと判断し、宗歩はそっと障子を開けて廊下に出た。


 廊下には誰も見当たらない。

 みんな一階に降りてしまったようだ。

 宗歩が恐る恐る階段を下りてみると、大広間に数人の遊女と禿かむろ(遊女見習の子供)が集まっていた。

 その中心には、下品で派手色の着物を身に付けた中年の男が立っていた。

 この扇屋の楼主ろうぬし(主人)であることは間違いなさそうだ。


「だれぞ、将棋を指せる娘はおらんのか?」


 楼主が遊女たちに尋ねるが、みな首をかしげたりあくびをしている。

 ここには芸事が身についていない格の低い遊女か、遊女見習いの新造しんぞう、十歳以下の禿しかいなかった。

 

「困ったわぁ。だれぞ将棋が達者なもんがおったらええんやけど……」


 宗歩が楼主の話を聞くところでは、揚屋に大口の上得意客が来ているらしい。

 楼主がなんとか苦労して、扇屋の有名太夫を指名させたところまでは良かったのが、楼主が置屋に戻ってみると、運悪く別の客が付いてしまったそう。

 大口客に謝りに行くと、「待っている間に将棋が指したい」とのこと。

 大口客を運良く捕まえれば、苦しい妓楼の経営が一気に上向く。

 楼主にとってもまさに死活問題なのだ。

 ようするに、将棋をその客と指せば良いらしい。


(それなら、私がいつもやってることじゃないの)


 不特定多数の男と「将棋を指すこと」は、まさに宗歩の商売だった。


「あのぉ。私でよかったら将棋指せますけど……」

 と恐る恐る宗歩が手を上げる。

 すると、楼主が振り向いて、

「なんやお前さん、見慣れへん顔やな。鞍替えでもあったかいな?」と怪訝そうに宗歩を見てきた。

「はぁ、いえ、その……」

「まぁええわ。それで、どれくらい指せるんや? できるだけ歯ごたえのある者を連れて来いって言われとるんや」

「いちおう、五段でありんす」


 それを聞いた楼主の顔がぽかんとする。


「ご、五段って……、お前さん、なんかの冗談やろ?」

「あ! そうそう! ご冗談でありんす(ふぅ危ない危ない……)。田舎で腕自慢くらいでありんしょうか」

「そ、そうか……。まぁ将棋が強いとは、けったいな娘やな。まぁそれやった揚屋に行ってもらおかな」


 楼主はそう言って、満足そうな顔をした。

「ええな。ほんまに大事なお客さんやさかい、粗相して怒らしたりしたらあかんで」

「は、はい……でありんす」



 こうして宗歩は、客の待つ揚屋に楼主と付き添いの禿の三人で向かうことになった。

 

 「ここや」

 「ここが……揚屋……」


 何の変哲もない、大きな二階建ての建物。


(うぅ、将棋指すだけなのになんか緊張してきたわ……)


 楼主は揚屋の玄関で「ほな、たのむで、あんじょうきばってや」と謎の声援を送って妓楼へと戻っていく。

 宗歩は禿と一緒に、今度は揚屋の主人に案内されながら、客の待つ二階座敷の前までやって来た。


「あ、あのー、おまちどうさまでありんす」


 蕎麦の出前のような挨拶をする宗歩に、禿が不振に目を細めた。

「どうぞー」と部屋の中から返事が聞こえてきた。

 返事を受けて禿が障子をすーっと開く。

 宗歩は三つ指を付いて頭を下げているせいで、中の様子が全く見えない。


「は、は、はじめまして! ゆ、夕霧でありんす。お手柔らかにお願いしんす!」

「おお、ようきたな。さんざん待ち侘びとったでぇ。さぁさぁ中に入ってや」

 

 そう言われて、宗歩が緊張な面持ちのまま顔を上げると——


 派手な赤い十徳に身を包み、坊主頭の男が、ニヤニヤと笑っていた。

 傍らに、白い大きな袋が置いてある。


 そう。あの布袋さんだった——


「ええええええ! あんたは! あの時の!」

「おお! この新造さん、滅茶苦茶わしの好みやないかい」


 そう言って、布袋さんが宗歩の手をぎゅっと握る。


――ひぃぃぃぃ。


 脂汗でギトギトな手で触れられて、全身に悪寒が走った。がそれでもなんとか耐えてみせる。


「わしなぁ、さっき道すがらであんたによう似た娘さんに失恋してもうたんよ。傷ついたわしの繊細な心を癒してもらおう思てな、ぶらり遊びに来てしもたんや」

「失恋した直後に、ぶらりと遊郭に来るなぁぁぁ!」


 だが布袋さんは興奮しているからか、宗歩の話を聞こうとしない。


「あ、お嬢ちゃん」と布袋さんは禿を呼ぶ。

「はい、なんでありんしょう?」

「なんとか太夫はもうええわ。わし、この娘と一晩遊ぶさかい。店の人にそう言うといて。ほな、夕霧はん、こっちに来なさい」

「ひぃぃぃ、いやぁぁぁぁぁ!」


 宗歩が布袋さんに手を引かれて、座敷の中にずるずると引きずられていく。

 それを尻目に、禿かむろは「どうぞごゆっくり」とそっと障子を閉めた……。


 一方、楼主は夕霧(宗歩)を送り届けて、妓楼への帰途についていた。

 その道すがら「あっ!」と独り言を呟いた。


「あちゃ。そう言えばあの客は新造でも禿でもお構いなしやったわ。あの新造……将棋と違ってあっちの方の腕前は大丈夫なんやろか? なんぞお客さんに粗相でもせえへんかったらええけど……」


 ——乙——

 ところ変わって、ここは神社から少し外れた飯屋の奥座敷——

 大男と小男が錦旗の前に正座をしている。というか、させられている。


 錦旗が二人の前に鎮座していたのだ——


 神社で二人は錦旗を担ぎ上げて、颯爽とここまで連れてきた。

 そこまではよかったのだ。

 だが、飯屋の奥座敷に連れ込んだ矢先、激しく抵抗する錦旗は二人を引っ掻くわ、噛みつくわの狂犬振りだった。

 大男は作戦を急遽切り替えて、「誘拐に協力してほしい」と説得を試みた。

「誘拐」という言葉を聞いた途端に、錦旗の動きがぴたりと止まる。

「ほぉ。ぬしら、わっちを誘拐するつもりだったのかえ?」

「そ、そうだ! お、お前を人質に東伯齋から銭を取るのだ。儂らは手荒な真似はしとうない。大人しくすれば命は取らぬ」

「ならええ」

「ええ!? よいのか!?」

「銭が欲しいのかえ?」

「ああ、豪商の屋敷だ。銭はたんまりあるんだろう? そうだな、ざっと百両でどうだ」


 当時、一両あれば米一年分を買えたほど。

 百両あれば一生食うには困らないだろう。

 しがない賭け将棋ばかりをしてきた大男には、相当破格の金額だった。


「さすがは兄貴! ずいぶん大きく出ましたね! 百両なんて大金、おいら生まれてこの方一度も見たことがねぇぜ!」


 二人が意気揚々としていると——


「……おんしら、わっちを馬鹿にしとるのかえ?」


『へ?』


 二人とも狐につつままれたような顔をしている。


「先代亡き後落ちぶれたとは言え、わっちは創業百年、あの小林屋の娘じゃ。安い。あまりにも安すぎる」

「ぐぐ……。じゃ、じゃあ、倍の二百両でどうだ!」

「まったくお話になりんせん」

「よ、よぉし! 三百両だ! これ以上は負けられん!」

「おんし……さっきからわっちのことをなめとるのかえ。ぶちころすぞ」

「ええぇ……(め、目がやばいぞ、この娘)」


 天井知らずに釣り上がっていく身代金に、大男が逆に委縮し始めた。

 先ほどまでの威勢はもはやどこにもなく、これではどちらが誘拐犯で人質か分からない。


「一千両じゃ」


 大男と小男は我が耳を疑った。


「えーと……はい? 何ですって?」

「じゃから、一千両と言うとる。それか、ちょっと安すぎかえ?」


(だめだ、この娘は頭がおかしい。身代金一千両なんて話、聞いたことがない)

 

「む、無理ですぜ、兄貴! 一千両なんて金、今日の今日でどうやったって用意できませんて!」

「そこの小鬼! うるさいぞ!」


 シュッ!


 錦旗が頭に刺していたかんざしを抜き取り、『投げ槍』のように小男に投げつけた。


 ぷすり


 小男の眉間に向かって一直線に飛んだ簪の切っ先が、深く突き刺さる。


「イッテェェぇぇぇ! 俺は小鬼じゃねぇぇぇ。小男だよぉぉぉ」


 小男のおでこから血がたらーっと出てくる。

 

「このうつけめ。よいな、一千両より一文たりとも負かりやせん」


 そう言って錦旗は涼しい顔で、簪についた血を和紙でサッと拭き取る。


「兄貴ぃ、なんでかどわかされた方が身代金を跳ね上げてくるんですか……。おいら意味がわかんねぇですよぉ、とほほ」

「お、おう……。儂はな、この娘が恐ろしくなってきたぞ……」

「おい」と錦旗が呼ぶと『はいぃ!』と二人は直立不動になった。

「ではさっそく、誘拐書状を東伯齋に送るんじゃ」

「書状ですかい?」

「おいそこの大鬼、おんしは文を書け。わっちは……その……まだ字が書けぬ」

「は、はぁ……(この子、なんでこんなにテキパキしとるんだ……)」


 大男は釈然としないまま、筆と墨箱を取り出し準備を始めた。

 

(むぅ、以前にも将棋指しの代わりに「果たし状」を書いたことがあったぞ)

 と、大男が昔のことを思い出す。


「それにしても腹が減ったの。昼餉にするぞ」

「は、はぁ……」

「小鬼、なんでもいいから飯を用意してくりゃれ」

「な、なんでおいらが!?」


 錦旗が簪をすーっと頭から抜き取り、小男の眉間に照準を合わせる。


「へ、へい! ただいま!」


 小男はその場から退散するように店の台所へと逃げていった。


 二人の苦難はまだまだ続く——


                               『第九幕へ』

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