第七幕目 銀と金

 ——甲——

 神社から走り去った宗歩を見つけるために、菱湖りょうこは市中を探し歩いていた。

 宗歩が立ち寄りそうな茶屋、菓子屋を軒並み覗いていく。

 が、姿かたちはどこにもなく、菱湖は途方に暮れて道端に佇んでいた。


「お師匠様……一体どこに……」


 その手には宗歩が落としたかんざしがひとつ。

 刻限はすでに昼過ぎとなっていた。

 ひょっとしたら、もう屋敷に戻っているのかもしれない。


 菱湖はいったん屋敷に戻ってみるかと考え、振り向き歩き出す。

 朝から歩き通しであったが一向に疲れを感じることはなかった。

 日ましに頑強になっていく自分の身体に、菱湖はただ驚いていた。

 小林家に養子に入った頃は、しょっちゅう熱を出して養母を困らせたものなのに。


 ——お前の名は、これから菱湖だよ。

 ——りょう……こ?

 ——そう。菱湖、八犬伝を知ってるかい?

 ——ううん。

 ——この物語の主人公はね。ひ弱だったから女の恰好で育てられたんだよ。

 ——そうなの?

 ——ああ、お前も信乃しの様のように、どうか元気に育っておくれ。


 養母のあの優しい顔を、菱湖は今も忘れられないでいる。

 血の繋がっていない親子だったが、本当に大切に育ててもらったと思う。

 水無瀬、玉枝、錦旗も自分のことを温かく迎えてくれたし。


 自分は本当に幸せ者だ——


 それに比べて——


 東伯齋が初めて小林家にやって来た時のことを、菱湖は今も鮮明に覚えている。


「お前たち。この男はな、儂の遠縁にあたる者で、名を小林東四郎という」


 養父が座敷に並んで座っている四姉妹に向かって、いきなりそう言ったのだ。

 その養父の隣には、見知らぬ薄汚い恰好の中年男が座っていた。

 身体はひどく痩せて、目が異常にギラギラしていて、薄気味が悪かった。

 養父の話によると、年は三十をゆうに超えているらしい。

 なによりも商家の人間とは全く違う、堅気でないうさん臭さを全身からかもし出していた。


「この者はな、江戸で将棋修行をしていたが故あって破門となり、当家で引き取ることにしたのだ。以後住み込みでうちの店を手伝わせるから皆よろしく頼む」


 突然の話に皆困惑していたのか、誰も返事をしなかった。

 たしかにこの店には、たまに子供が丁稚奉公に来ることがある。

 だが、こんな中年男が屋敷に土足で上がり込むなんて。

 それも年頃の娘(自分は男だけど)が四人もいるこの屋敷にだ。


「お嬢様方、わては小林東四郎と申します」


 薄気味悪いその男が、畳に両の手を付き、自分たちに向かって挨拶を述べた。


「紀州の生まれで、これまで江戸将棋家で修行しておりました。やむにやまれぬ事情あって将棋家を破門されたところを、こうして旦那様に拾っていただきました次第です。お嬢様方、何卒なにとぞよろしゅうお願いします」


 そう言って、東伯齋は自分たちににっこりと笑いかけた。


 だが、座敷には白けた雰囲気だけが残った。

 皆、養父が何か事情があって仕方なくこの男を引き取ったと思っていたからだ。

 それに得体のしれない男と一緒に生活することについて、嫌悪感や不安をそれぞれ感じていたのかもしれない。


 それでも長女の水無瀬は、そんな東伯齋とも仲良く付き合おうとした。

 内実は、長女として父親の言いつけを単に守っていただけなのかもしれないが。

 孤独だった東伯齋にはそのときの水無瀬の優しさが五臓六腑に染みわたったそうだ。

 今でも東伯齋が事あるごとに彼女に感謝を述べているのを、菱湖はよく目にするからだ。


 特に酷かったのは、玉枝と錦旗だった。


「なんやねん、あのおっさん。ほんまに気持ち悪い」

「ほんまじゃ、わっちもいやじゃ」


 菱湖は自分のときと比べ、えらい違いの二人を見て心底驚いた。

 兄弟ができたと、あんなに喜んでくれたのに。


 東伯齋は、最初丁稚扱いだったので、よく屋敷の雑事もさせられていた。


「ちょっと!? 東四郎さん! 私の部屋に勝手に入らんといて!」

「へ、へぇ! すんまへん、玉枝お嬢さん。ほんまに申し訳ありまへん」


 ぺこぺこと何度も頭を下げる東伯齋に、玉枝は虫けらでも見るかのように、

「あっちいけ! うっとうしい!」


 玉枝も十三歳、少々気難しい年頃だったのだろう。

 

「あの、錦旗お嬢様……夕餉ができたと申しておりますが……」

「……」

「錦旗お嬢様……?」

「……」


 錦旗は、東伯齋が屋敷に来てから二年の間、まったく口をきかなかった。

 人見知りが激しく気難しい娘だったが、その気性が東伯齋にだけ苛烈を極めた。

 


 東伯齋はそれでも毎日一生懸命に働くことで、徐々に養父や職人達から信用され始めた。

 そうなのだ。

 養父は、遠縁のこの男に対して単に同情したわけではなかったのだ。

 泣く子も黙る幕府お抱えの将棋家に真っ向から衝突する——

 この男のそんな胆力の中に、大坂商人の気質を感じ取ったのだろう。


 そんなとき——

 皆が寝静まった、とある夜更けのことだった。

 東伯齋が客間に独りで座っているのを、厠へ立ち寄ろうとした菱湖が見かけたことがあった。

 東伯齋は朱色の駒袋の紐を手に取り、おもむろに解き開いていた。

 彼が江戸から持ち帰ってきた唯一の私物だった。

 そしてその袋から使い込まれた飴色に輝く将棋の駒を、一つずつ大切そうに取り出しては、手拭いで駒を丹念に磨き始めたのだ。

 将棋を捨て商売に打ち込むと養父に誓った以上、東伯齋が将棋盤の上で将棋を指すことは決してなかった。

 だがこうして人知れず駒を磨くことで、東伯齋は昔の自分を忘れないようにしていたのだ。


 東伯齋は磨き終わった駒を手に取り眺めつつ、優しくその駒に話しかけた。


「銀が……泣いてるわ……」


 月夜の晩だった。


 月明かりに照らされた東伯齋の寂しそうな顔を、菱湖は今も確かに覚えている。


 今から思えばそれは——


 将棋に生き、勝負に生きてきた男の顔だった。


 そうか、この男は今も夢を諦めていないのか。


 将棋家を破門されて、染物屋の丁稚になり下がってなお、駒を活かしてやれないと呟くこの男の姿に、菱湖は怨念にも近い執念すら感じ取った。


 ああ、将棋とはなんと業の深いものだろう——


「あの……東四郎さん……」


 気づいたら声を掛けていた。


「あれ? なんや、菱湖お嬢様やないですか。こんな夜更けにどうしましたん?」

「あの……僕に……その……」

「?」

「将棋を……教えてくださいませんか?」



 そんなことをつらつらと思い出しながら歩いていると——


 なんと! 菱湖の前から天野宗歩がのこのこと歩いてきたのだ。


 僥倖ぎょうこう


「やっと見つかった……お師匠さま……」


 宗歩は全く気づいていないのか、真っ直ぐ菱湖の方へと向かってくる。


「おーい、お師匠様ぁ」


 手を振りながら宗歩に駆け寄る菱湖。


「お師匠様、本当にどこ行ってたんですか。僕、滅茶苦茶探しましたよ!」

「はぁ……人違いではありんせんか?」


 宗歩が首を傾げてそう返事した。


「え……? 人違いですか?」


 たしかによく見てみると着ている着物も違っていたし、簪を付けていた。


 いや、しかし——


 菱湖はこんなにも宗歩と生き写しのような人が世の中にいるのかと心底驚いた。


「本当にそっくりですね。あの……すみませんがお名前は?」

「わっちは夕霧でありんす」

「ゆう……ぎり……さん?」

「はい、ぬし様は?」

「菱湖と申します。どうやら人違いでしたね……本当にすみませんでした。それでは失礼します」

「あの……しょっとして……」

「はい?」

「天野宗歩様のお知り合いでありんすか?」

「え!? そ、そうですが……お師匠様を知っていらっしゃるんですか?」

「お師匠様?」

「そ、そうです。私の将棋のお師匠様なのです」

「そうでありんしたか。わっちは宗歩さんからこれをお借りしんした」

「そ、それはお師匠様の出入り手形!」

「菱湖さんは、宗歩さんをお探しでありんすか?」

「そうなんです。どこを探してもいらっしゃなくて……」

「そりゃそうでありんすよ。宗歩さんは今新町遊郭におりんす」

 

 なんだって……一体どうゆうことなんだ……。


 ——乙——

 少し時間が遡って、錦旗と寅吉が稲荷神社で別れた直後のこと——


 稲荷神社の境内を、あの大男と小男が途方に暮れて歩いていた。


「兄貴ぃ、おいら腹が減って死にそうだよぉ」


 小男がさっきからずっと泣きごとを言い続けている。


「うぬぅ、将棋天狗殿が天野宗歩に負けてからというもの良いことがなに一つもない。とうとう儂らの運もここで尽き果てたか……」


 宿敵天野宗歩を打ち倒すべく、刺客として放った市川太郎松が破れて以降、二人の懐事情はますます困窮していた。


「兄貴ぃ、おいら、あったかい飯が食いてぇよぉ」

「うるさいぞ。手持ちの銭ももはや底をつきかけておる。せいぜいかけ饂飩一杯食うほどしか残っておらぬ」

「そ、そんなぁ……。とほほ。……ってあれ?……あの娘……、おいらどこかで見たことありますぜ」

 と、小男とがお社の賽銭箱のあたりを指さす。


「うん? どこだ……、あれは……たしか小林東伯齋の娘ではないか。たしか洗心洞の対局の時にも応援に駆けつけておったな」

「東伯齋っていったら、天野宗歩一派じゃねぇですかい。一人ぼっちであんなところで一体何をしているんでしょうね?」

「知らぬ。だが、触らぬ神に祟りなしだ。ほおっておけ」


 そう言って大男が立ち去ろうとすると、小男が裾を引っ張る。

 その手が震えている。


「あ、兄貴……おいらとんでもなく恐ろしいことかんがえちまったよぉ……」

「ぬ、なんだ?」

「あの娘をかどわかして、東伯齋から身代金を貰うってのはどうですかい?」

「なぬ! き、貴様ぁ……!」


 大男の顔が、一瞬でゆでだこのように赤くなる。

 小男は、それを見て顔面蒼白になり、

「ひぃ! す、すんません! そうですよね! 兄貴はれっきとした孤高の将棋指しです。こんなお縄に触れるようなことするわけがねぇ。おいら出過ぎた真似を——」

「いい案だな! よし! 背に腹は代えられぬ。ちょっとあの娘に協力してもらうおう」

「へ?」

「なぁに、本気で命を取るつもりはない。だが考えても見ろ。元をただせばわしらがここまで困窮するのもそもそもが天野宗歩の将棋が強すぎるからだ。その宗歩を最初に大坂に招いたのがあの小林東伯齋ならば、その娘も同類のようなものだ」

「はぁ……、そんなもんでしょうかねぇ?」


 小男が納得しかねるように首をかしげてそう尋ねた。


「昔江戸にいたときに、あの伊藤宗看名人にお目にかかったことがある」

「……何の話でっか?」

「さる日本橋の豪商の大旦那様が、儂を伊藤名人に推薦してくれてな。二段免状を拝領する際にお目にかかれたのだ」

「それが、なにか関係あるんですかい?」

「ある。その名人がこうおっしゃられたのだよ。『王将を攻めるにはまず金将から。攻めよ。まず周辺の側近から攻め落とせ!』とな」

「い、伊藤名人って、な、なんだかすごい御方ですね……」

「ああ、まさに豪放磊落の御方だった。だがな、そんな名人が去り際に「儂の『金』は儂を守ってはくれぬのだ……」と嘆いておられたんだが、あれは一体なんだったんだろうな……」


 大男は懐かしそうにそう言って、そのまま黙ってしまった。

 江戸で在野棋士として名を馳せようとしていた頃の、若き自分を思い出したのかもしれない。


 だが——

 意を決したかのように、大男はお社の前に座る錦旗に大きな声で呼び掛けた。


「おい! そこの娘」


 無視


「ぬぅ……おぬし聞こえておろうが。おい娘!」


 無視


「おーい、お、お嬢ちゃん……?」


 無視


 錦旗の人見知りは筋金入りだ。

 それに寅吉との約束もあるから誰とも口をきかんようにしているのだ。

 

「おい、そこの娘! 兄貴を無視すんじゃねぇ! こっちにきやがれ!」


 小男が錦旗の身体に手を伸ばし、無理に触ろうとした。

                          「第八幕へ」

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