幕間 ある遊女の話
——お前は俺に女郎として買われたんだよ。
——これからお前はずっと
三十石船が淀川を滑り落ちるように進んでいる。
長い黒髪で両の瞳がくりっと大きく、凛としたとても美しい少女だった。
照は、隣に座っているこの男に四十両で買われた貧しい農村の娘だった。
この男は、わざわざこうして大坂から若狭の国まで女を買い付けにやって来ているらしい。
男は、遊郭があるという大坂まで照を連れて行かねばならない。
それがこの男の仕事だからだ。
照は、若狭の生家を出てから男に連れられて、三日三晩ほとんど休みなく歩かされ続けた。
鯖街道に出た後もそのまま休むことなく宿場を歩き継いで、今日ようやく伏見港に辿り着いたのだ。
今はこうして大坂へと向かうため、淀川を下る大きな船に乗っている。
明日の朝には天満八軒屋浜に着くらしい。
旅の道中に男から少しずつ話を聞くと、どうやらこの男は凶作で困窮している農家に目を付けてその親に金を貸しつけ、代償として娘の身柄を引き取る商売をしているそうだ。
買われた娘はすべて遊女にされる。それ以外の道はない。
今年五月半ばに若狭で大地震が起きた。
城下の多くの家屋が倒壊して、死人が大勢出た。
そこに畳みかけるようにして冷夏と雨が降り続いたのだ。
不必要にまで降り続く雨が、なんとか育った稲を徹底的に痛め腐らせ、あっという間に凶作が起きた。
結果、若狭の山あいの村々では餓死者が続出する。
城下町の復興に手を取られていた藩には、田畑が貧弱で交通網の発達が遅れた山間地方の村を救助する余裕などどこにもなかった。
人が人を喰うこの世の地獄がそこにあったのだ。
——照。お前はね、女郎として俺に買われたんだよ。
月夜の船の上で、男が隣に寄って来て、耳元でそう囁いた。
男の身体から今まで嗅いだこともないような甘くていやらしい臭いがしてくる。
——
自分のこれからの運命を知らされて、照はとても悲しかった。
耳をふさぎたかった。
このまま川に飛び込もうかとも思った。
——もしお前が廓から逃げたら、お前の借金は親が全部払うんだ。器量良く生んでくれた親に感謝して、しっかり孝行せにゃならんなぁ。
女衒に手を引かれて家を出たとき、最後に見た母の顔が今も照は忘れられない。
——照、ごめんね。あんたが生き残るためにはこうするしかなかったんよ。おっかあを許してね……。
家から離れていく照を見送りながら、母が戸口で嗚咽を漏らしていた。
そんな姿ですら美しい人だった。
照の生まれた山村は貧しく、凶作がここ数年続いたせいで、とうとう食う物という食う物が消え失せてしまっていた。
ある夜——
照が板敷で雑魚寝していると、父と母の話し声が聞こてきえた。
——隣村で逃散者が大勢出たそうだ。街道に出れば藩が救助しているらしい。
——街道まで山をいくつ越えなきゃならんのですか。この子ら連れて到底行けませんよ……
——だが、隣村に残された爺婆や子供は全員死んだらしい。わしらも……
照が住んでいた村も日に日に困窮を極めていった。
すでに村人の半分は逃げるか死ぬかしている。
まともに食える物などとっくの昔に無くなっていて、木の皮や草の根を口に入れるしかない。
だがそれでも全然足りなかった。
食べ物が足りないのなら、それを食う人間を減らさねばならない。
最初は照の祖母だった。
幼いころから照のことを優しく育ててくれた大好きな祖母——
年老いて足腰が弱りきり、もう自分で思うように動くことができなかった。
照が朝起きたら、その祖母がどこにもいなかったのだ。
父に聞くと、山に捨てたそうだ。
——いらん食い扶持を減らすため仕方ないじゃろて。
父によれば祖母の方からそう願ったらしい。
次は、四歳の妹だった。
妹だけは堪忍してくれと、照は父に泣いてすがりつき必死に頼みこんだ。
だが父は決して許してはくれなかった。
「こうするしか、俺達が生き残れねぇんだ。なぁ、照よ……わかってくれよ」
泣きながら父が、照にそう言った。
妹は、残っていた最後の芋のつるを食わしてもらっていた。
なんの味もしない芋のつるをしがんで、「
妹はそのままどこかに消えた。
最後は父が消えていた。
照が朝起きたら、父の姿が忽然と消えていたのだ。
家にあった荷物のいくつかが一緒に無くなっていた。
きっと逃げ出したのだろうと、母が諦め顔でそう言う。
街道まで逃げるのに女子供は邪魔になるから、だそうだ。
さりとて、北陸飛騨の山々は深く険しい。
途中で野犬や山賊に襲われるかもしれない。
旅慣れていない農民が着の身着のまま山に入って、果たして生きて街道までたどり着けるものだろうか。
こうして照は母と二人きりになり、何もない家に置き去りにされた。
女衒の男が村にやって来たのはその頃だった。
村中ひととおり探してはみたが、売り物になりそうな年頃の娘は、照しかもう残っていなかったそうだ。
「これは上物だ。よく生き残っていたな」
魚や畜生でも見るような目で自分を見てくるこの男に、照は怒りを覚えた。
だが今を思えば、母は照を助けようとしたのだろう。
あんなにたくさんの銭があってもあの村で使い道などあるはずがない。
きっと、残った母もすでに生きてはいるまい。
こうして、自分は天涯孤独になってしまった。
だが、遊郭に行けば、二度の白飯と安全な寝床が保証されるそうだ。
見たことないような綺麗な着物を着て暮らせるんだぞ、と男は笑いながら照にそう教えた。
廓には自分のような娘がたくさんいるということも。
物言わぬ真っ暗な川面を見て、照はこれから何があっても苦しくても生き続けようと決めた。
遊郭が苦界だというが、あの村だって地獄に違いなかったのだから——
一晩中、川を下りながら船に揺られていると、ようやく波止場に船が到着した。
船を降りて町の方を見ると、見たこともないほどの大勢の人がそこに溢れていてた。
「ここが商都大坂だ。少し歩けば新町遊郭に辿り着く。さぁいくぞ」
喧噪のなか女衒が照に向かって気だるそうにそう言った。
こうして、照は大坂新町遊郭の遊女として生きることになった——
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