第十一幕目 玉と歩

 時は少し遡ること半刻(約一時間)前——


 新町遊郭の大門前。

 そこで大橋柳雪が天野宗歩を見送っていた。

 宗歩の姿は、遊女の恰好から男装へとすっかり変わっていた。


「これ……ぶかぶかですね。」


 太郎松の着物を拝借したせいで、丈がぜんぜん釣り合っていなかった。

 胸に巻くさらしも用意できなかったせいで、胸の膨らみが抑えられていない。

 なんとか手拭いで誤魔化しているのがさらに心許こころもとない。


「まぁ、崩して着こなせば小粋ですよ」

「そんなもんですかねぇ」

「ふふふ、しっかり似合ってますよ」


 柳雪の言葉を聞き、一応はさまになっているかと宗歩は思い直す。


「さて、宗歩さん。私はここで待っていればよろしいですか?」

「はい。もし夕霧さんが先に戻って来られたら、米村様のお座敷まで御案内ください」


 夕霧がこのまま何も知らずに置屋の方に戻ってしまうと、楼主との間で話がややこしくなるかもしれない。

 それを心配して、宗歩はまず夕霧を探すことにした。

 一方で夕霧と入れ違いにならないよう、柳雪にも協力してもらう。


「はいはい、分かりました。ではここでちゃんと見張ってますので、宗歩さんもお気をつけて」


 大門の番役は男装した天野宗歩を見て、特段の疑いを持たずに宗歩を通した。

 花柳界でも有名な大橋柳雪と一緒にいたことで信用されたのかもしれない。


 ――さてと、それじゃあ夕霧さんの菩提寺に向かうとするかな。ここからだと、そうだなぁ、よし、稲荷神社の境内をそのまま突っ切ろう。


 宗歩が稲荷神社へと急ぐその途中には、茶店があった。

 小林家の近くに位置しているこの店は、以前から良く利用する店だった。

 その前を宗歩が通り過ぎようとしたところ——

 茶店の前に並べられた床机しょうぎに玉枝が腰かけていたのだ。


 ――あ、玉枝さんだ……。


 ぼんやり顔で回転焼きをほおばっていた彼女と目が合う。

 どうやらあちらも宗歩の姿に気がついた様子。


「あ、宗歩様やないの……」


 玉枝がぺこりと頭を下げた。


「あ、玉枝さん……」


 ――うおお、これは結構気まずいぞ……。


 ふんどし一丁の太郎松の姿が、宗歩の脳裏を一瞬よぎる。

 玉枝の気持ちを慮ると、どうしても彼女の顔を真っ直ぐ見ることができない。


 ――だめだ、今はちょっと話せる気分じゃない。と、とりあえずここはいったん通り過ぎることにしよう!


「あ、あの……。私、さ、先を急ぎますので。し、失礼します!」


 宗歩はその場から脱兎の如く立ち去ろうとした。


「あ! ちょっと待って!」

「え!?」


 玉枝が床机から立ちあがって、宗歩を呼び止めた。

 そうして意を決するようにして、

「……ちょっとだけ話していかへん?」


 逡巡する宗歩の返事を待たずに玉枝は、

「おっちゃん、回転焼きあと二つお願い」と店主に注文した。


 そのまま茶店の床机に座り直し、ぽんぽんと隣を叩く。

 ここに座ってということだ。


 ――話って……絶対太郎松のことよね。


 だがこうなっては仕方がないと宗歩は観念し、彼女の隣に腰掛けることにした。

 だがそれ以上は何もできず、ただ石のように固まっているしかない。


 ――どうしよう……。あいつに男色の気があるなんて、玉枝さん知ったらきっと悲しむに違いない。ああ、言えない! そんなこと口が裂けても絶対言えないわ!


 うおおおと宗歩が頭を掻きむしる。

 なんとか玉枝に気づかれないうちに、太郎松を改心させることはできないかとあれこれ思案を巡らすが、一向に良い考えが浮かんでこないのだ。


 ――なんで!? 将棋の妙手ならぽんぽん思いつくのに! 私の馬鹿!


 対局中かと見まがうほどに、思いつめた真剣な表情をする宗歩。

 そんな宗歩を横目に、玉枝は落ち着きを払いながら回転焼きをそっと差し出した。

 と同時に、玉枝の方から口火を切ったのだ。


「あんな。今朝のことやねんけど……」

「は、はいぃ……(はわわ、やっぱりそのことだ!)」

「なんか、その、勘違いされてへんかなと思って」

「へ!? か、勘違いですか? えっと、それは……」


 ――勘違いは玉枝さん、あなたなんですよ! あいつは好色男なんです!

 

 宗歩は頭の中でしきりに反駁はんばくする。

 もう喉元あたりまでその言葉を吐き出しそうになるが、ぐっと堪えた。


 そんな宗歩の気持ちを知ってか知らずか玉枝が、

「あたしと太郎松さんが、その……ええ仲やと思ってへん?」

 と思わぬことを口に出したのだ。


「え……そ、そうじゃないんですか!? だって今朝も神社で抱き合っていたし」

「ち、ちがうねん! あれはな、私が……一方的にふられてん……」


 手に取った回転焼きをほおばろうとしていた宗歩の口が、あんぐりと開く。


 ――ふ、振られた! 玉枝さんが!? 太郎松に!? なんじゃそりゃ!?


「どど、どういうこと!?」

「えっと、あたしな。前から太郎松さんのことちょっとええなぁって思ってたんよ。ほら、以前宗歩様と太郎松さんが洗心洞で一晩かけて対局したとき――」

「ああ、あのときですかぁ。そんなこともありましたねぇ」

「そうそう、なんか勝負師ってかっこええなって。あたし実はいろいろあって、将棋のことあんま好きやなかってん……」

「へぇ、そうだったんですか」

 と、宗歩は回転焼きを美味そうにほうばりながら、玉枝の告白に相槌を打つ。


「せやけど、二人の対局を側で見守ってたら……。あたし将棋のことぜんぜんわからへんけど、なんか熱いなぁ、かっこええななぁって思たんよ」


 玉枝がそこまで言って頬を染める。


「そ、それで太郎松にぃ!?」


 コクッ。

 玉枝が頬を染めながらうなずいた。


「でも、あいつただの馬鹿ですよ」


 宗歩が迂闊に口を滑らした。

 その瞬間だった——。

 玉枝の顔が、みるみる怒りの表情へと豹変する。


「ほら! そうやってすぐあの人のこと馬鹿とか言うやんか!」

「ええ!? っとと」


 いきなり玉枝に叱られて、宗歩は手に持っていた回転焼きを落としかけた。


「そもそも、宗歩様があかんねんで!」

「わ、私がですか!? な、なんで?」

「太郎松さんはな。あの日、洗心洞で宗歩様に連敗してから、毎日毎日将棋の勉強してたんよ……」

「え、太郎松が……将棋の勉強……ですか?」


 宗歩は玉枝の発言に言葉を失ってしまう。

 すごく意外だったから――。


「そうや。宗歩様がなにかにつけて太郎松さんのこと『勉強不足』とか『馬鹿』って言うから。あの人……それが心底悔しかったんやろなぁ。こっそり宗歩様の部屋から御本を拝借して、神社の境内で独りで勉強しとったんよ。それも毎日、毎日……雨の日も、寒い日も」


 なんで、そんなこと、私ぜんぜん知らなかった――


「そ、そうだったんですか。でもだったら私にそう言ってくれたらいいのに……」

「あのね、もし太郎松さんが宗歩様に定跡のこと尋ねたら、宗歩様はなんて言うんかな?」

「……うーん、この馬鹿…………はっ!」


 宗歩の脳裏にさまざまな過去の言動が巡り出す。


 ――あんた、こんなことも知らないの!? これって常識でしょ。

 ――この前も教えたじゃない! なんで覚えてないのよ、馬鹿!

 ――こら! そうやって直感で指すんじゃないの! ちゃんと自分の頭で考えなさい!


 迂闊だった――


 ――私ってあいつのことずっと傷つけてたんだ……。


 宗歩の顔が、恥ずかしさにあまりどんどん真っ赤に染まっていく。


 ――あいつなりに将棋を強くなろうと努力してたんだ……。

 ――でもそんなとこ、ぜんぜん私に見せてくれないから分かんなかった……。

 ――ていうか、定跡覚えた形跡全くなかったし。


「だから太郎松さんは、毎日暇を見つけては神社の境内でこっそり勉強しとったんよ。苦手な漢字にも苦労しながら、こつこつとね」


 彼が本を片手にうんうん唸っているその様子が、宗歩には容易に想像できた。

 そしてそれを思い浮かべた途端、彼の健気さに思わず涙が流れた。


「…………そっか、そうだったんだ」

「あたしね、少し前に太郎松さんの跡をこっそりつけてみたんよ。それで知ってしもうてん」


 結構な衝撃ショックだった――


「なんでよ……ちゃんと私に言ってよ……ひどいよ。だって! だって私、あいつの――」


 ――私、あいつの師匠なのに!


「弟子に頼られない師匠って……なんなのよ……。本当に恥ずかしいわ」

「そんなん宗歩様には絶対に言われへんよ」

「え、どうして? 私、太郎松の師匠なんですよ!?」


 玉枝がふーっと息を吸い、そして一気に吐いた——。

 そうして、意を決して宗歩に告げた。


「好きな人に弱いところなんか見せたくない。それが……男の人ってもんなんよ!! このわからずや!」


 玉枝が涙目になっている。


「へ……す、好きな……人? 太郎松が……私のことを?」


 まったく予想していなかった答えを玉枝に告げられて、宗歩は激しく動揺する。

 一気に動悸が激しくなって、呼吸が苦しくなってきた。

 とりあえずいったん落ち着こうとして宗歩は、話を切り替えることにする。


「じゃ、じゃあさ……、今朝、玉枝さんが神社にいたのは?」

「太郎松さんのお昼にと思って、おむすび作って持っていっててん。あの人、それ見ても、何も言わへんけどね」


 黙って玉枝が作った握り飯をほおばる太郎松の図が、宗歩にはこれまた容易に想像できた。

 果たしてそれでも玉枝は良かったのだろうか。

 それが男に惚れてしまったということなのだろうか。

 宗歩が何も言えずにそのまま黙っていると、玉枝が、

「でもな。今日の太郎松さん、宗歩さんのせいで様子がおかしかったんよ」

「ど、どういうことですか!? なんで私のせい!?」


 宗歩のそんな様子を見て、玉枝がふぅーと深いため息をつく。

 この人は何にもわかっていない、そんな呆れた感じだった。


「なぁ……あんた、ええかげんにしいや。ほんまに分からへんの?」

「え!?」

「朝餉のとき、あんたが大橋柳雪の話をあの人にしたからやんか!」

「ああっ!」


 玉枝の厳しい口調に、宗歩はようやくはっとした。


 ――柳雪様に直接お会いできるだけでなく、対局のお相手までさせてもらえるなんて。これほどの名誉はないんだぞ。

 ――こういう気配りができるところがさすが柳雪様ですね。きっと私の身のことを案じてくれているのでしょう。

 ――明日の対局のために、今日はお前としっかり練習したかったんだが。


 ――あああ、私、あいつになんてこと言ってたんだ……。あいつはそれを聞いてさえも、神社に独りで将棋の勉強をしにいったのか……。なんてやつだ。


 好きな人から別の人との与太話を聞かされてなお、黙って耐える太郎松。

 何も言わずに、ただただ将棋の勉強を継続するしかない太郎松。

 

 将棋指しにとって、強さは絶対だ。

 弱いこと言い訳することなんて絶対に許されなかった。

 ただ、黙ってひたすらに強くなるしかないのだ。


「ひょっとしてあいつ、嫉妬――していたの? 柳雪様に?」

「そうよ。宗歩様って、ほんま『にぶちん』やわぁ」

「じゃ、じゃあ、太郎松が柳雪様に会いに行っていたのも……」

「柳雪様に、憎き恋敵を相手に真剣勝負しにいったんやろねぇ。ははは、この国で最強の将棋指しに殴り込みにいったんやであの人。ほんまおもろい人やわ」


 ――あいつ確かに手に本をずっと持っていた。あれって柳雪様の定跡本だったってこと?


 神社で柳雪の研究内容が書かれた定跡本を読んで、太郎松は決心する。

 この人に勝たなければ、俺は一生あいつに振り向いてもらえないと。


 ――そんなの……柳雪様にあいつが勝てるはずがないのに……


「そうか……それで太郎松は柳雪様と一緒にいたんだわ。ようやく納得した」

「『生まれたときから天才だったが全く成長しない才能。それが俺なんだよ』って太郎松さん嘆いてた」

「…………」


 ――でも、玉枝さん、俺は俺なりに成長したいんだ。もういじけるのだけは嫌なんだよ。


「そう言うて、あの人、一人で柳雪様のところに行きよったんよ。それ聞いてもうたら、あたし、たまらなくなって……」


 しばらく、二人の間に沈黙が訪れる。


「あの人ね、結構弱ってたんよ。柳雪様に勝たれへんのわかってるし。定跡はぜんぜん頭に入らへんし。だから私――」

 

 ――二度とない好機チャンスやと思ってんけどな。


 宗歩に聞こえるかどうかわからないくらいの微かな声で玉枝はそう呟いたのだ。

 どこか切なく寂しそうな表情で。

 だがその後、不意に険しい表情に変わって、

「……幼馴染なんて反則やわ」


 そう言い捨てて、玉枝は宗歩の前から走り去っていってしまう。

 宗歩はその場から一歩も動くことができなかった――


 夕暮れ——。

 稲荷神社の境内——。


 宗歩が一人でとぼとぼと参道を歩いている。

 玉枝の言葉がずっと胸にささったままだった。

 ただ、呆然としながらどこにいるのかわからない夕霧をずっと探していた。


「ふぅー、今日はいろいろありすぎて疲れちゃった……。ちょっとだけ休もうかな……。あらら? こんなところにちょうど良い具合の床几しょうぎが置いてあるじゃないの」


 ドスン


 賽銭箱の前に何気に置かれていた木箱がちょうど腰掛け易かったらしく、宗歩はそこで一休みする。


「ふー、やれやれ」


 ——まったくなんなのよ……玉枝さんも、太郎松も、柳雪様も——みんなしてさ。


 ちょっと今は何も考えられなかった。

 しばらくそのまま呆けていたら、結構な時間が立っていた。

 

 ——あ、いけない! そろそろ夕霧さんを探さないと。


 そのときだった——。


「おぉ! 宗歩がいたぞ!」

「おーい、お師匠様ぁぁ!」

「宗歩様、探したでありんすよ!」


 参道の向こうから太郎松、菱湖、夕霧の三人の姿が見えたのだ。

 どうやら彼らも宗歩のことをずっと探していたらしい。


 最初は近所の幼馴染だったはずなのに。

 兄のように慕い始めていたのに、気づけば弟子になっていた。

  

 ——もう……わたし、あいつにどんな顔したらいいのよ……。


 それでも宗歩は、太郎松の方に顔を向ける。

 だってここで目を背けるわけにはいかないから。

 真っ直ぐ生きる、彼を全身で受け止めてあげようと、宗歩の気持ちが初めて大きく揺れ動く。


 そんな彼女の視線の先に——。


 夕陽に照らされながら、ふんどし一丁で手を振る姿があったのだ。

 

 まったくの馬鹿丸出しだった。


「……ぷっ! あはは、あはははは。まったくあいつ! しょうがないわねぇ!」


 宗歩は堪らず噴き出した。 

 そうして床机からおもむろに立ち上がって、みんなのもとへと走り寄っていく。

 

 なぜならそこには——。

 彼女が心から信頼できる仲間と——。

 一番大切な人が待っていたからだ。

                            (第十二幕へ)

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