第四十三話 廓文章

 ——壱——

 一月六日の夜。


 大橋柳雪が、大坂の外れにある旅館「浮無瀬」で、一冊の和綴本を読んでいた。

 そこへ白装束を身に纏った女がひとり、静かに障子を開けて中へ入ってきた。

 座敷の隅に置かれた行灯に照らされながら、一心不乱に虚構の世界に没我する彼の姿もまたとても美しい。


「柳雪様、熱心に何を読んでいらっしゃるのですか?」と女が柳雪に声を掛けた。


 女は外風呂から戻ってきたばかりと見え、白い素肌が桃色に火照っている。

 それがいやに艶っぽいのだ。

 年は三十を越えたばかりであろうか。

 この女こそ、京都で柳雪の身の回りの世話をしていた、あの女中であった。


「ああ、この本ですか? 戯作本ですよ。素人が書いたそうですが実に興味深い」

と、柳雪が女中の問いに喜々として応える。

 戯作とは、当時流行した庶民向けの読み物のことである。

 柳雪は「話の展開が少々強引ですが」と断りを入れながら、女中にその和綴本を手渡した。

 受け取った女中が、まずその本の表紙を眺める。


 題名には「戯作宗歩好み」——とだけやや控えめに記されていた。


 その左側には、戯作者の名であろうか。

 ——平居寅吉。

 やはりこちらも申し訳なさそうに小さくそう記されていた。


 女中にとっては全く聞いたことがない戯作者の名だった。

 新人だろうか、それとも柳雪の言うようにずぶの素人なのだろうか。

 女中は、首をかしげながら

「これが明日、難波新地で芝居劇として公演される天野宗歩様の物語ですか?」

「ええ、まぁその台本みたいなものです。私と宗歩さんの公開対局に先立って、難波の芝居小屋で演じられるそうですよ」

「あらら、じゃぁ宗歩様、きっと今夜は緊張しておられるでしょうね」


 くすくすと女中が笑う。


「そりゃそうですよ。なにせ一介の将棋指しが、芝居の舞台に立つなんて前代未聞ですからね。つくづく東伯齋殿の考えられることは時代よりもまこと新しい」


 大橋柳雪が将棋の定跡書を出版するにあたって、東伯齋から連絡があったのはおよそ半年前のこと。

 二人は、江戸の大橋分家で兄弟弟子として切磋琢磨していた旧知の間柄。

 関西で共に在野棋士として活動するようになってからも、折に触れて知己を得ていた。

 話を聞いて欲しいという東伯齋からの文を見て、柳雪はこう思ったそうだ。

 斬新な発想で奇抜な取り組みを次々と思いつく弟弟子のこと。

 また風変わりな催しごとでも思いついたのだろうと。

 だが、まさかこれほどとは——


「あんな、柳雪兄さん、わし、ええこと思いつきましてん」と大坂からはるばるやって来た東伯斎が、意気揚々と柳雪に向かって話し出す。


「ほぉ、今度は何でしょうか?」と柳雪も弟弟子の話を嬉しそうに聞いている。

 江戸にいた頃から、東伯斎の与太話に付き合ってくれたのはいつも柳雪だけだった。

 だから東伯斎は柳雪のことを実の兄のように慕っていた。


「実は今度、宗歩はんのお芝居をしようかと思てますねん」

「ほぉ、芝居……ですか。それは藪から棒な話ですね」


当時、歌舞伎や能、人形浄瑠璃以外に市中では庶民向けの芝居が数多く見受けられた。その題材は歴史の英雄から史実の好人物、果ては戯作の物語を題材にした架空のものまで多岐にわたっている。


「そうやねん。まぁ順を追って一から話すことにしますわ。まずはこれ見てください」


 それは——相撲の番付だった。

 大関、関脇、小結、十両の下には、それぞれ関取のしこ名が列挙されている。

 東伯齋が難波新地で将棋相撲をしたときに、親方から貰ったものらしい。


「この番付を参考に、東西の在野棋士で『将棋番付』を作ろうと思てますねん」

「ほぉ、将棋番付ですか。それは面白そうですね」

「そうでっしゃろ。名人の一存で決まってしまう段位とは違う、本当の将棋の実力を写す番付でっせ」

「たしかにこれだと弱い者は徐々に下がっていきますから、いったん上がればそのままの段位制度とは違いますね」

「ですけど、この番付表を正確に作るためには全国の在野棋士に一斉に声をかける必要があるんですわ……」と言って、東伯斎は少し心配そうな顔をした。

「そうですね。各地に散らばっている在野棋士に出会うための旅費や懸賞金など、勧進元はまとまった資金が必要になるでしょうね」


 番付には勧進元という言わば主催者が必要となる。

 勧進元は番付表の売上げの収入を得る代わりに、作成のための資金を負担する。


「これまでみたいに、有力者からの支援だけでは全然足りへんのです。そこで市井のもんに援助してもらうつもりなんですわ」と東伯斎が言う。

「その義援金を集める方法が芝居ですか。 将棋の対局ではなくて?」

「あんな兄さん。将棋に興味ない人、ぜんぜん知らん人に将棋の対局見せたかて金は取れません。まず将棋の魅力を伝えるにはどうしたらええと思います?」

「それは……将棋の指し方を一から丁寧に教えるほかないでしょう」

「それも大事なことですけど……。そもそもぜんぜん興味ない人に将棋を教えても、それでほんまに楽しんでもらえますかいな?」

「なるほど、まずは将棋そのものに興味を持ってもらうべきと?」と、柳雪が感心しながら身を乗り出した。


 急がば回れ。こうした風変わりな普及活動も意外と重要なのかもしれない。


「そう。将棋っちゅうのは、それを指したこともない人にはちょっととっつきにくいものなんですわ。ところが『将棋指し』っちゅう人間は、それ自体が大層魅力があるんです。わしは……、天野宗歩と言う稀有な人物を、まず世間の皆様に知っていただきたい。そう思い立ったんです、はい」

「天野宗歩を世間に?」と柳雪が東伯斎の言葉をおうむの様に返した。

「そうです。確かにあの子は将棋の天才や。けどそれだけやなくて愛嬌とか人間味があるんです。そして、なによりも人としての『弱さ』がある」

「人としての弱さ……」

「小難しい顔して愛想のない将棋家の優等生とはえらい違いでっせ。せやから、将棋に興味を持ってもらうんやったら、まずは『天野宗歩』という不世出の破天荒な人間に、まずは興味を持ってもらうのがええんちゃいますやろか?」

「そのためには対局以外の何かがいる、そしてそれをきっかけに将棋に興味を持ってもらう、ということですか……」


 ——それが芝居。

 ——たしかに天保の世になってから女が演じる芝居が流行し始めていた。

 ——稀代の天才棋士が主演する女芝居。

 ——大橋柳雪の本の出版と重ね合わせて。



 柳雪は、女中に向かって、東伯齋との会合を話し続けていた。

 女中はそんな風に嬉しそうに話す柳雪の顔を見ながら、

「すごいことを思いつくお方ですねぇ。東伯齋様って」

「ええ。それから彼は、渋る宗歩さんを毎日のように説得したそうですよ」

「うふふ、あの方の嫌がるお顔がまざまざと目に浮かびますわ」


 ——宗歩はん、ええか。将棋指しはな、技芸を磨けばええっちゅうもんちゃう。

 ——ただ強いだけの者に人の心は動かされへん。

 ——将棋盤の前に座って苦しんでいる姿、将棋だけを信じて苦悩するその生きさまにこそ、人は感動するんやで。


 ——せやからあんたの生きざま、人柄をまず皆に見てもらうんや。

 ——そのためにはあんたが女であることも言わなあかんやろうな……。

 ——赤裸々に全部さらけ出して知ってもらうんや。


「宗歩が好き!」

 みんなにそう言ってもらえるために。


先ほどから柳雪は、障子窓の外から暗闇をぼんやりと眺めている。


「東伯齋殿の熱い思いが通じたのか、宗歩様は渋々了承されたそうですよ。なんと、果敢にも濡れ場に挑戦するのだとか」

「あらら、あの方ってたしか童女ではなかったのかしら? なのに遊女役なんて大丈夫なのかしらね?」

「ふふふ、おりつさん。たしかに貴方から見れば宗歩さんの太夫役は、役者不足に映るかもしれませんね。なにせ、あなたは——


 ——島原の大橋太夫。


 日本三大遊郭の吉原、新町と並びたつ京都島原遊郭において最高位にあった者。

 かつて島原の太夫には朝廷から正五位の地位が与えられ、御所で天皇による謁見すら認められたほどであった。

 柳雪の恋人であり女中でもある、このお律はかつてその地位にいた者だった。

 そんなお律だが、柳雪に少しだけ嫌な顔をする。


「柳雪様。その名はとうの昔に捨てた名ですわ。今はあなただけの律です」

「おやおや、そうでした。そうでした。これは申し訳ありません」


 ドーン!


 突然の轟音。


 ああ、今年も花火が上がったのだろう——

 橙色の打ち上げ花火が。


「そう言えば、明日は夕霧太夫様のお命日ですね」とお律が外を眺めながら言う。

「ええ、夕霧様もきっと明日の芝居を見守っていて下さるでしょう——ゴホッ、ごほっ、ごほっ、ごぼ……」


 突然、柳雪が苦しそうに咳き込み始めた。

「柳雪様!」と、お律が側に駆け寄った。


 昨年の秋からだろうか。

 柳雪は、高熱を出して重い咳をするようになった。

 最近はその咳がどんどん酷くなってきているよ。

 柳雪の死期が刻々と近づいていることを、お律もよく分かっていた。

 だが安静にと養生を勧めてくる医師に向かって、柳雪は「最後まで将棋指しとして生きたい」と撥ねつけた。

 強情できかんぼうで、意地っ張り。

 まったく「将棋指し」とはこのことだ。

 だからこうして大阪まで無理を押してやって来ている。

 この人は彼女のためならば、命だって捨てる覚悟があるのだろう。

 これが妬けなくて一体なんだと言うのだ。


 そして——この人はこれからたった一人で江戸へと向かうつもりだ。


 伊藤名人と将棋家に対して天野宗歩の独立、すなわち大橋本家、大橋分家、伊藤家に次ぐ第四の将棋家「天野家」、を認めさせるために——

 「二代目大橋宗英」は、一世一代の大芝居を打つ気なのだ。

 そんな柳雪が苦しそうに壁に背もたれながら、打ち上げ花火をじっと眺めていた。

 その姿はまるで一瞬で散ってしまう花火を、自分の人生と重ね合わせているようだった。


(宗歩さん、私とあなたが会うのも明日の対局が最後になるかもしれません)


(だからお互い悔いのないよう指しましょうね)


(そして——『将棋指し』として、最後までたくましく楽しく生き抜くのですよ……)


 『近代将棋の開拓者』大橋柳雪は、この三年後の夏にこの世を去る。



 ——弐——

 天保七年一月七日の夕刻。


「みなさん、ご観覧いただきありがとうございました。天野宗歩を応援いただける方はぜひともご祝儀を!」


 小林東伯齋が舞台袖から出てきて声を張り上げていた。

 宗歩は、多くの舞台役者に囲まれながら、慣れない芝居を最後までやり通した。

 そんな放心状態の宗歩に代わり、東伯齋が観客に向かって口上を述べていた。

 

「これから天野宗歩は、将棋番付を完成させるために四国へと旅立ちます」


 ざわ……ざわ……

 その言葉に大勢の観客がざわつく。


「最初の相手は阿波の四宮金吾! 『四国名人』と讃えられながらも生涯を無段で通す謎多き孤高の天才棋士との一世一代の大勝負! その対局内容を瓦版でお伝えさせてもらいます!」


 おおおお! と観客が歓声をあげた。


「いや、面白かったで! 将棋のことはよう分からんけど、あんたのことは気に入った。これから応援するわ!」

「ほんまや、結局この日本で一番将棋が強い奴は誰なんや? 俺も将棋が分かへんけどそれは知りたい! 応援する!」


 この興行は成功に終わる。

 将棋好きだけでなく、多くの庶民の注目の的になったからだ。

 たしかに一人ひとりの義援金は少なかったかもしれない。

 だが、こうしてみんなから集められた金額は合計して一千両だったとか。


「それにしても天野宗歩が女やったなんて、ほんまにおもろい作り話やな!」

「けど宗歩はんは見た目が女みたいに綺麗やから、女形もさまになってたなぁ」


 誤算だったのは、なぜか宗歩が女だったということが見物客に信じてもらえなかったことだ。

 まぁ、そうならば無理に言うこともないだろうと放っておくことにしたのだが。

 結局、この芝居は過激すぎると役人に目をつけられ、一回だけの幻の公演となってしまった。


 その後の大橋柳雪と天野宗歩の公開対局は、百一手で柳雪の勝ちとなった。

 対局は相当な熱戦だったそうで、将棋がわからない者でも対局者の熱気と気迫がひしひしと伝わる名局であったそうだ。

 そしてこの勝負こそが、大橋柳雪と天野宗歩の生涯最後の対局となった。

 

                         「第十章 大橋太夫」 完


 ——付録——

 宗歩が芝居をする半年前のこと。

 小林家の屋敷では宗歩と東伯齋が口論していた。

 他の面々も固唾を飲んで見守っている。


「いやです! 私に芝居なんて無理ですよ! 私は将棋指しなんですから」


 さきほどから宗歩が、自分を芝居の題材にするという話に激しく抵抗していた。

 しかもその芝居に自分も登壇せよ、ということだから当然のことではあるが。


「宗歩はん、そんなん言わんと……。な、これも将棋を世の中に広めるためなんや」

「……まぁ、それは良く分かりましたが……」

「せやろう」

「けど! 一体この台本はなんなのですか!?」とぱんぱんと本を叩く宗歩。

「へ?」ととぼける東伯斎。

「そもそも全然将棋を指してないじゃないですか! それになんでこんなに私、色惚けなんですか? 思い込み激しすぎでしょこれ!」

「いや、お前は普段からそんなもんだぞ」

と、側にいた太郎松がしれっと言う。


 ボガッ!


「ぐは!」


 宗歩から容赦なくみぞおちに鉄拳を喰らわされ、その場に倒れ込む一言多い太郎松。


「い、いや将棋の内容よりもやっぱり先に人間味を知ってもらった方がええかなぁって……、なぁ! 寅吉!」と助けを求めるように東伯斎は寅吉の方を向く。

「そ、そうデゲス。私の祖国ではこういうのをエピソードワンと言うのデゲス」

「え、えぴそーどわん?」と宗歩が首をかしげた。 


 寅吉は阿蘭陀辞書の編纂作業の合間に、井原西鶴などの古今東西の江戸の戯作本、近松門左衛門による人形浄瑠璃の定本を読みあさり、自分でも暇を見つけては二次創作に耽っていた。

 なんでも寅吉の祖国では素人が物語を書き、それを国中の多くの人に読んでもらえる便利な仕組みがあるそうだ。


 ——寅吉は、色彩感覚も優れているし、ものづくりにも興味がある。

 ——なにより普段から思いつきで戯言や狂言をみんなに言いふらしとる。

 ——さぞおもろい話を書きよるやろな。


 こうして東伯斎は、寅吉に宗歩物語の制作を託すことに決めた。

 

 その後も口論は続いたが、結局宗歩の方が根負けをする形となった。


「で、題名は何ていうの? この戯作の」

「そ、そうデゲスな……『好色一代女』とか……ぐはぁ!」


 寅吉が、宗歩から容赦ない鉄拳制裁を喰らう。

 そのまま、横たわる太郎松に覆いかぶさるよう倒れ込む。

 自業自得である。


 そんな寅吉に代わって、東伯齋が天啓を得たかのようにこう言った。


――『宗歩好み』はどうやろう?


「宗歩……好み……。うん、いいかも!」

「みんなに天野宗歩を好きになってもらいたい! そう思って寅吉が一生懸命書いたんや」

「けどこのお話ってさ、本当の話と虚構の話が混ざってますよね?」

「この話が全部嘘やと見てる方は興ざめするやろ。けど全部ほんまの話でも味気ないわ。せやから今年天保六年の半年間、小林家で本当にあったことをたった一日の話にこしらえて、そこにいくつかの『嘘』をまぶしたんや」


 玉枝と太郎松の悲恋物語

 錦旗と寅吉の狂言誘拐騒動

 宗歩と荘次郎の女珍道中


 宗歩の遊郭潜入騒動

 夕霧太夫の幽霊

 大男と小男による錦旗誘拐事件


「事実と虚構を重ね合わせることで登場人物の魅力を一層引き立たせる。名付けて、平井寅吉作『戯作宗歩好み』やな!」


 なるほど。


 だがおかしいぞ。


 一つだけ重要な欠片が足りていない。


 太郎松と宗歩は、結局最後に口づけをしたのだろうか?


 それはこの作品を読んでくれた方のご想像にお任せするデゲス。


 ククク——

                              (おしまい)        

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