終幕 大団円

 ——壱——

 夕陽がほとんど落ちかけていた。

 橙色の光が二人の男の影をめいっぱいに引き伸ばす。

 東伯齋と寅吉が、軽くなった台車をガラガラと引いていた。


「はは、行きと違って帰りは軽いもんやな」

「そうでゲスネ……」

「ほんまは錦旗をここに載せて帰れたらよかったんやけど」

「わたしのせいです。本当にすみまセン……」

「なぁに心配せんでもええ。きっと錦旗は帰ってくるさかい。大丈夫や」

「……はい」


 寅吉はそれ以上何も言えない。

 自分の迂闊さのせいでこうなってしまったのだから。

 そう考えたら、いっそのことここから逃げ出したくもなった。

 だが、一番錦旗のことを心配しているのは東伯齋なのだ。


 ——きっと帰ってくる。きっと錦旗は戻ってくる。


 そう何度も自分に言い聞かせているのだろう。

 二人は何も言わず、屋敷に向かってカラカラと台車を引き続ける。


 東伯齋と寅吉が屋敷の前まで戻ってくると、玄関に水無瀬がひとりで立っていた。

 居ても立っても居られないのは水無瀬も同じだったはず。

 自分たちが戻って来るまでの間、ああやって終始錦旗が戻ってくるのを立って待っていたのだろう。

 水無瀬は、台車を引く東伯齋を見つけた途端に、そばへ駆け寄ってきた。


「あなた!」

「おお、水無瀬。約束通り千両箱を、ちゃあんと置いてきたったで!」

「そ、それで……?」


 それで錦旗はどうしたのかと言う意味だ。

 どうやらまだ錦旗はこちらに戻っていないことがこれで分かる。

 つまり状況はあまり良くない。


「……」


 東伯齋は水無瀬に向かって黙って首を横に振った。

「あとは神様に祈るしかない」とでも言いたそうにして。


「そんな……。ああ、錦旗ちゃん!」

「こうなったら屋敷でじっと待つしかないやろな……」


 その後しばらく屋敷で錦旗を待っていると、宗歩と菱湖が先に帰ってきた。

 何かあったのだろうか。

 二人ともほとほと疲れた様子だったが、錦旗の件を伝えるなり屋敷の周辺を探しに飛び出してくれた。

 それでも見つからず、みんなで半刻ほど経ったときだろうか。

 いよいよ事は深刻になり、町奉行にも相談しなければと言っていた矢先——


「ただいま——」


 玄関先から錦旗の声が聞こえてきたのだ。


「錦旗ちゃん!」


 これを聞きつけた水無瀬が、矢も楯もたまらず錦旗の側まで駆け寄っていく。

 少し疲れた様子だったが、錦旗の顔色は悪くないようだ。

 遠めから見たところどこも怪我などはしていなさそうだ。

 寅吉はそれを確認してまずはほっとする。

 水無瀬はそれでも錦旗の身体を優しくさすりながら、

「大丈夫!? どこも怪我してない!?」としつこく尋ねた。

「わっちは……大丈夫じゃ」

「ああ、本当に良かった——」


 水無瀬はふっと力が抜けてその場に倒れ込む。

 彼女もここまでずっと神経を張り詰めていたのだろう。

 

「ええ! いったい、何があったのん?」


 玉枝は錦旗と一緒に帰ってきたのだった。

 玉枝に聞くと、帰り道に屋敷の近くで錦旗がひとりうずくまっていたらしい。

 それをたまたま見つけた玉枝が声を掛けてここまで連れてきたそうだ。

 

「錦旗……ほんまに……無事でよかった」


 そう言って、東伯斎が錦旗の側へと近づく。

 だが、錦旗はじっと黙ってうつむいている。


「……ごめんなさい」と錦旗が東伯齋に言う。

「うん? 何でわしに謝るんや?」

「……わっちのせいで……一千両……失ってしもうたじゃろ……」

「……なんや、そんなん全然気にせんでええよ」と東伯齋があっさりと言う。

 それを聞いた錦旗がたまらない様子で

「わっちが、寅吉にあんなこと頼まんかったら、一千両なんて言わんかったら!」

「錦旗……もうええ」

「なんでじゃ、東伯齋!? おんしはわっちを奉公に出すつもりじゃろう? なんで一千両も……捨ててしもたんじゃ……。わっちは東伯齋にとっていらん子じゃと——」


 パチン!

 東伯齋が錦旗の頬を軽く打つ。

 あまりに突然のことで、錦旗がその目を見開く。


「いらん子なんかあらへん。錦旗、あんたは儂の娘やで——。しっかりしいや」

「…………」

「あんたが帰ってきたんやから。わしはなんも気にしいへん」


 たしかに、錦旗がしたことは決して褒められることではないだろう。

 それでも東伯齋のまなざしはとても優しかった。

 娘の寂しさに気づけなかった父親がその娘に申し訳なく、そして愛おしく想う目だった。


「おとうちゃん! ごめんなさい! ううええん……」


 水無瀬と寅吉も泣いていた。

 玉枝だけは今日一日で一体この家に何があったのかと、ひとりぽかんとしている。

 そのときだった——


「おおい、今帰ったぞ」


 勝手口の方から男の声がしたので東伯齋が振り向くと——

 ふんどし一丁姿の太郎松がぽつんと立っていた。

 東伯齋は一瞬呆れて、その姿に思わず目を見開いてしまった。

 一体何をやったらそんな恰好になるのだろう、皆目見当がつかない。

 だがいずれにしても問題はそこではなかったのだ。

 太郎松の両手に抱えられているその大きな木箱。

 それを見て、東伯齋の大きな目がさらに見開かれる。


「な、なんでや。なんでお前がそれを……持ってるんや!?」


 あるべきはずのない物がそこにあった。

 千両箱——

 そう、あの千両箱が、太郎松の両手に抱きかかえられていたのだ。

 東伯斎と錦旗の顔は、狐に包まれた顔になってしまった——

 コーン、コーン

 遠くの方で狐の鳴く声が聞こえた気がした。

 そんな寅吉であった。


 ——弐——

 すべての駒がこうして揃った。

 長い長い一日がようやく今、終わろうとしている。


 朝餉に皆で集まった大広間には、天野宗歩、市川太郎松、小林東伯齋、平居寅吉、水無瀬、玉枝、菱湖、錦旗がぐるりと円になるように座っていた。

 こうしてまた将棋駒の種類の数と同じだけ八人がここに揃ったのだ。

 将棋は駒と駒が互いに連携し、紡ぎ合って、躍動する。

 彼らもまた今日一日、互いに連携し、紡ぎ合い、そして躍動した。

 

 みんなの様子を見て、東伯齋がおもむろに口火を切る。


「まぁ、みんな今日一日ご苦労さんやったな。なんやいろいろあったみたいやけど」


 車座のだれもがその口を開こうとはしなかった。

 それぞれが今日一日起きた出来事について静かに反芻していたのだ。


 だが、最後に一つだけ大きな謎が残っていた。

 「なぜ太郎松は千両箱を抱えて戻ってきたのか」ということだ。

 宗歩は率直にこの問いを太郎松に投げかけることにした。


「それがさ……夕霧さんが俺の目の前でいなくなっちまったんだ」

「いなくなった……。それって、どこかに逃げたってこと?」


 まさかそれはないだろう。

 わざわざ身請けの算段がついた矢先に足抜けをするなんてありえない。

 それにあの夕霧がそんなことするとは到底思えなかった。


「いや、新町遊郭の大門を潜り抜けたところでよ。夕霧さんが俺に声を掛けたんだ」


 ——太郎松様、ありがとうでありんす。

 ——わっちはこれでもう思い残すことはありんせん。

 

「そしたら。目の前でふーって……泡みたいに消えていったんだ」


 そう言って、太郎松は両の掌をぱぁっと開かせる。

 さすがににわかに信じられる話ではない。

 なにか白昼夢や幻でも見たのだろうかと宗歩は太郎松を疑った。


「扇屋は? 夕霧さんは扇屋にいなかったの?」と宗歩は言う。

「もちろん、扇屋にも探しに行ったさ……」

 なんだか太郎松の歯切れが悪い。

「どうだったの? いたの、夕霧さん?」

「いや、そもそも扇屋に——」

 夕霧太夫という遊女はいないんだよ、と太郎松は答えた。


 宗歩はしばらくのあいだ絶句する。

 夕霧と出会ったのはたしかに扇屋の前だったはず。

 あれほど大きな建物だ。他の置屋となんか見間違えるわけがない。


「……嘘よ。そんなことって……」

「嘘じゃねぇよ。楼主にしかと聞いたんだから。だがな、以前扇屋に夕霧太夫という遊女がいたことは間違なかったよ」

「以前? ……それっていつのこと?」

「百五十年前だってさ」

「ひゃ、百五十年前……」

「そうだ」


 側でずっと話を聞いていた東伯齋が二人の間に口を挟んだ。


「そう言えば、新町遊郭に夕霧太夫っちゅう、えらい別嬪な遊女がおったそうやわ。仲間内で昔聞いたことがあるさかい」

「でも私は、夕霧さんに扇屋の二階の座敷へ招かれたのよ。一番奥の座敷に——」


 動揺しながらそう話す宗歩に対して、太郎松が口を開けてぽかんとする。

 お前は一体何を言っているんだと、その表情が明らかに物語っていた。

 宗歩はなにか嫌な予感がして、背中に悪寒が走った。


「おい、宗歩。お前……正気か?」

「……え?」

「扇屋にな、二階なんてねぇよ。あそこは平屋建てだぞ。」


 何かの変な冗談ではないか。

 自分は確かに裏口から入って階段を上がったのだ。

 ご丁寧にも座敷の中にまで通されたというのに。


「……平屋……建て? そんなの嘘でしょ……」


 東伯齋がさらに口を挟んだ。

「ほんまやで。新町遊郭の置屋が二階建てやったのは火災を起こす前のずっと昔のことやわ。えーと、たしか五十年くらい前ちゃうかなぁ」


 質素倹約を是とするお上の沙汰に従って、遊郭の建物も相当縮小されたらしい。

 この話も、東伯齋が会合で知り合った商人から昔聞いたそうだ。

 そもそも新町遊郭は堀で隔離された町だ。

 ひとたび失火を起こせばその全てが燃え尽きることになる。

 そのたびに逃げ遅れた多くの遊女の命が無残にも失われたそうだ。


「そんな。じゃあ夕霧さんもその火災で……」

「いや、夕霧太夫は若くして病死したはずやで。たしか……そうやな、命日は——」


 一月の七日、つまり明日やな。


「……」


 誰もがもう何も口にすることはなかった。

 本当にあれは夕霧の幽霊だったのだろうか。

 そうだとすると、宗歩が夕霧に招かれたあの座敷は、この世とは全く別の異界だったのか。


 聞けば、夕霧の遺体は新町遊郭から運びだされ、遊女が葬られる浄寛寺にそのまま埋葬されたそうだ。

 ということは、夕霧は新町遊郭を死ぬまで出られなかったことになる。

 彼女の願いだった家族の弔いもきっと叶わなかったに違いない。

 さぞくやしく、そして心残りだったろうに。

 そんな遊郭にさ迷う夕霧の亡霊が、生き写しの天野宗歩を偶然見つけたことで、説明しようがない奇跡めいたことが起きてしまったのかもしれない。


「ふぅー……」


 もう、宗歩はそういう風に考えることにした。

 だって、少なくとも自分が最後に別れたときの夕霧は笑顔だったからだ。

 きっと、あの世で夕霧は今でも笑っているに違いない。

 再び出会えた家族と一緒に——


 ——参——

 その後、みんなでささやかな夕餉を食べてその場は解散となった。

 それぞれがそれぞれの部屋へと戻っていく。


「……あのさ、太郎松、ちょっとだけいいか?」


 宗歩が座敷から出ていこうとする太郎松に声を掛けた。

 宗歩には最後にまだやり残したことがあったからだ。

 太郎松にちゃんと謝らないと——

 宗歩にそう誘われた太郎松は、何も言わずにこくりと頷きそのままついてくる。

 屋敷の離れの部屋に入ってからも、二人は静かに腰を落ち着けた。


「実はな……、私はお前に謝らないといけないことがあるんだ」

「なんだ、謝らないといけないことって?」

「その……これまで私は、お前にいろいろとひどいことを言ってしまっていたようだ。本当にすまない」と宗歩が頭を下げる。


 将棋のことだけじゃなく、太郎松の気持ちも踏みにじっていたことも含めての意味ではあったのだが、あえてそれを口にはしなかった。


「ああ、そのことか。気にするな」と太郎松がけろりと言う。

「そ、そうか……。あと、それとな今日一日、私の早とちりでお前にずいぶん迷惑をかけてしまった。こちらについても大変申し訳なかった」と再び宗歩が深々と頭を下げる。

「ああ、全然気にしなくていいさ。実際、俺も紛らわしかっただろうからな」


 宗歩は、この際だからふと気になったことを太郎松に思い切って聞くことにした。


「なぁ……、どうしてお前は、柳雪様の前で……その……裸だったんだ?」


 太郎松が思わぬ問いかけに一瞬、恥ずかしそうな顔をする。

 実はそういうことなのだと、太郎松に告白されれば、宗歩はもうそれはそれで受け入れようと思っていた。

 ちょっと良く分からないのだが「それはそれで美味しいぞ」という謎の声が自分の脳裏に囁いてくる。


「いや……、柳雪様に将棋を挑んだんだが、賭け将棋でないと相手にしないと言われてな。賭け将棋をしようにも賭ける物をなんにも持っていなかったんだよ。だからしかたなく自分の着物を賭けたんだ。そしたら、案の定——」

 

 ボコボコにされたらしい。それはもう激しく、乱暴に、容赦なく。


「いや、あれは……完全に将棋の化け物だわ。まったく勝てる気がしねぇ。お前良くあの人に勝てたな」

「まぁ実際のところ、私も平手ではまだ勝ったことがないんだがな……。なんだぁ、そう言うことだったのか。よかった、ほっとしたよ。てっきり、私はお前がそのそっちの方が好みなのかと……」

「ば、ばかやろう! 俺はそっちの気はねぇよ! 女が好きに決まってらぁ!」


(女? そ、それって、私のことも含まれているのかな!?)


「あ、そうだ! 俺もよ、お前に謝らないといけないことがあるんだ」

「な、なによ、藪から棒に?」

「いや、実はこれなんだけどよ……」


 そう言って太郎松はぼろぼろになった和綴本を取り出し、恐る恐る宗歩に手渡す。

 大橋柳雪の新しい定跡本だった。

 だが——ところどころ紙が破けていて、汚れてしまっている。

 肌身離さずに太郎松が今日一日持ち歩いたせいで傷つけてしまったのだろう。


「すまねぇ! いろいろあったせいでこんな風になっちまった! 許してくれ」


(そう言えば、以前に太郎松が勝手に本を持ち出して破いたとき、思い切り叱ったことがあったっけ……)


「いいわよ」

「へ? いいのか? 俺はてっきりまた怒鳴られるか、殴られると思ったんだが……」


 太郎松が拍子抜けした顔をする。

 なるほどこれがあったから、さっきまでの宗歩の謝罪にもあれほど寛容だったのか。

 まぁ、おあいこさまということかな。


「あ。あとさ、これもお前の忘れものだぜ」


 そう言って、太郎松が宗歩に細長い棒のようなものを手渡した。


「え? あ、私の簪だ! あ、ありがとう!」

「その簪、良く似合ってたぜ。それに……太夫の恰好もすげぇ綺麗だった」

「……」

「……」


 すごく微妙な沈黙が続く。


「じゃ、じゃあ俺はこれで……」


 突然、そう言って、太郎松がそそくさと部屋を出ていこうとする。

 宗歩は少しだけ勇気を出すことにした。


「待って! ねぇ……、松兄ちゃん……」

「な、なんだよいきなり! その名前で呼ぶなよ、恥ずかしいじゃねぇ……か?」


 宗歩が目を閉じて太郎松に向けて口を尖らせた。

 これは口づけを待っているということか。


「……お前、何してんだ?」

「……」

「いや、だから……」

「……」

「もし、もーし」


 宗歩が目を開けて、はぁっと溜息をついて下を向く。


「……馬鹿」


 そうか結局、自分たちは師匠と弟子の関係でしかないのかな。

 まぁ、それならばそれでも構わないか……。

 宗歩が、そう思ったときだった——


 ドーン!


 障子の外から大きな音がしたのだ。

 外を眺めてみると、打ち上げ花火がぼんぼんと上がっていた。

 綺麗な紅色と橙色の大きな花火。


 ——ああ、これは夕霧さんの色だ。


 宗歩は一瞬でそれが分かった。


「ほら、太郎松! 見て花火よ。まさしく夕霧さんの花火だわ。綺麗ねぇ……」

 と宗歩が外を眺めながら無邪気に言う。


 一瞬——夕霧の霊でも乗り移ったのだろうか。

 その姿はまさに『傾城の美女』と呼ぶべき美しさだった。


「お留……」


 その名で呼ばれた宗歩が、あわてて振り向くと、太郎松の顔が目の前まで迫ってきていた。

 太郎松の手が、宗歩の両肩にそっと優しく添えられる。

 それを見て、宗歩はふたたび目を閉じることにした――

                                 (終幕)


 ——夕霧太夫——

 延宝六年(1678年)一月七日没 本名は照。

 姿美しく、また芸事に秀でただけでなく、気立て良く身分の低い者にも気さくに声をかけたらしい。新町遊郭の遊女約一千人の頂点に立つ最高位の太夫。

 その人気は絶大で、若くして病没すると大坂中がその死を悼んだという。

 現在でも夕霧の墓がある大阪の寺では毎年「夕霧太夫行列」が催されている。

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