第四十四話 エピローグ

 天保七年三月の終わり。

 まだまだ肌寒い明け方のことである。


 旅の支度をすべて済ませた天野宗歩が、小林家の離れにある自分の部屋から、音を立てずにそっと出てきた。

 宗歩がこっそり玄関先までやって来てみると、そこには既に彼女を見送るためにみんなが待ってくれていた。


(みんな……待ってくれていたんだ……)


宗歩は泣きそうになるのをぐっとこらえて、

「それじゃあ皆さん、行ってまいります」と、明るくみんなにそう告げた。


そうして宗歩は、草鞋を履き、スゲ笠をかぶり立ち上がる。


「宗歩はん、くれぐれも道中に気をつけるんやで! 山賊にかどわかされたらあかんよ!」

「大丈夫ですよ、東伯斎殿。本当にいろいろとお世話になりました。それにこんなに路銀までいただいて」

「そんなん気にせんでええよ。阿波に着いたら脇町の旅籠を訪ねるんやで。宗歩はんの世話するようきちんと伝えてあるさかい」


 小林東伯斎は、これからも大坂で商売にいそしみながら、地道な将棋の普及に精を出すつもりだ。

 もちろん宗歩の西国行脚を、後方支援する役割も欠かさない。


「宗歩サン、旅先からちゃんとお手紙を送ってくだサイネ!」

「ああ、わかっている。勝利の棋譜を寅吉に送れるよう、精一杯がんばるよ」

「大坂に戻ってきたら、約束通り私とチェスもしまショウネ!」


 平居寅吉は、東伯斎とともに大坂に残っ、宗歩の西国行脚を庶民に伝えるつもりだ。

 彼の書く瓦版が、昨今の世情で暗くなりつつある関西の人たちにきっと勇気と元気を与えてくれることだろう。

 さらに宗歩はこの異国からやって来たチェスマスターに、西洋将棋『チェス』を教えてもらうこともちゃっかり約束していた。いっそのこと二人で中国将棋『象棋シャンチー』を研究してみようかという話すらしているようだ。

 宗歩の将棋に対する興味は飽くなく尽きない。


「お、お師匠さまぁ。どうか、どうかお元気でぇぇ。うぅぅ……」

「う、うん……。しばらくの別れだが、またすぐに会えるさ。だからもう泣くな、荘次郎。お前も達者でな。お律さんにはくれぐれもよろしくと伝えてくれ」

「は、はい! 私も京の都で将棋の修行にしっかり励みます!」


 渡瀬荘次郎は、この春から京の都に移り住むことになっていた。

 彼も今年で十八歳、宗歩が江戸を旅立ったときと同じ年齢になったのだ。

 今回の宗歩の旅に最後まで一緒についていくことを望んだ荘次郎だったが、宗歩は心を鬼にした。

 可愛い子には旅をさせよ。

 京は初代大橋宗桂の出身地。江戸に次いで将棋家の影響が色濃い土地だ。

 これまで大橋柳雪が睨んでいたことで鳴りを潜めていた将棋家に近い在野棋士が活発に動き出す気配があった。

 荘次郎がそんなきな臭い京の将棋界に単身飛び込むことで、彼が「将棋指し」としてだけでなく「人間」として一段と成長することを、宗歩は固く信じている。

 荘次郎の身の回りの世話は、柳雪の女中であるお律が買って出てくれていた。

 どうやら荘次郎を一目見た瞬間、何かに惚れ込んだらしい。

 荘次郎が今度会うときに「菱湖太夫」になっていないことを、宗歩は影ながら祈っている。

 さらに、荘次郎にはもう一つ大事な仕事が与えられていた。

 それは京都に埋もれている古棋譜の収集とその分析だ。

 緻密な作業が得意な荘次郎には、「将来天野宗歩が定跡書を書くための下地を作る」という重要な役割が与えられることになった。


「宗歩さま、わっちはさびしいでありんす」

「錦旗ちゃん……元気でね。奉公先で裸で寝て、風邪とか引いちゃだめだよ」

「うん……大丈夫じゃ」


 錦旗はこの春から商家に奉公に出ることになった。

 花嫁修業の名目なのでそこまで厳しくはないだろうが、錦旗にとってはそれでも不安には違いない。

 奉公先には靭油掛町の染物屋、美吉屋と決まっている。

 東伯斎が天満の私塾「洗心洞」に出入りする際に、美吉屋の主人とたまたま知り合ったのが縁となったそうだ。

 錦旗も立派な商家の娘として、きっと成長して帰ってきてくれることだろう。


「宗歩様……。あの時はいろいろ言ってごめんね。どうかお元気で」

「玉枝さん……」

「あんな……宗歩様。じつはあたしも小林家を出て行くことになったんよ」

「え!? そ、そうなんですか……」

「前からあたしのことずっと好いてくれてる人がおってね。その人のところに嫁ぐことにしてん」

「そ、それはおめでとうございます(ちょっと複雑だけど、玉枝さんが幸せそうだからいいか)」

「あたしね……。もし子どもができたら、将棋をさせることに決めてん。宗歩様、もしよかったらその子に将棋を教えたってくれるかな?」

「も、もちろんですとも!」


 玉枝の嫁ぎ先は、東伯斎の付き合いのある商家の若旦那だった。

 誠実で真面目でやさしそうな男だそうだ。

 破天荒で個性的な将棋指しに囲まれて暮らしていた玉枝には、そんな若旦那がおとなしく映り、少々物足りなかったらしい。

 まったくもって贅沢な悩みではないか。

 多少気が強くておっちょこちょいだが、商家の娘としてこれまで小林家を支えてきた玉枝のことだ。

 嫁ぎ先でも立派な女将としてやっていくことだろう。


「宗歩様、忘れ物はないですか? 旅先でもちゃんとご飯を食べるんですよ。もしも辛かったらすぐに大坂に帰ってきても良いのですからね。ああ、心配だわ、おろおろ」


 東伯斎の妻、水無瀬が宗歩をまるで愛娘のように心配する。

 あれだけ騒がしかった小林家の屋敷から家族や居候が一気に少なくなってしまい、一番寂しい思いをしているのはきっとこの人に違いない。


「あはは、心配には及びませんよ。以前、江戸から京の都まで一人で旅してきましたからね。それに今回は――」


 そう言って、宗歩が屋敷の玄関先を見据える。


 そこには宗歩と同じように旅支度を調えた市川太郎松が立っていた。


 幼い宗歩を相手にいつも将棋を指してくれた太郎松。

 将棋家に入門し、屋敷の外で泣いていたときも宗歩のもとに駆けつけてくれた太郎松。

 京の都で天狗と戦ったときも颯爽と現れて、宗歩を助けてくれた太郎松。


 幼馴染が友になり、その友がやがては弟子となった。

 そして今やその弟子は、宗歩にとってかけがえのない存在になっている。

 

 宗歩は「よし、行くか! 太郎松!」と気合を入れるように声に張り上げ、彼の肩にぽんと手をかけた。

「ああ、まったく待ちくたびれちまったぞ」と太郎松がため息をつきながら返事する。

「ふふ、まぁそう言うな。これから長い旅になるんだぞ。せめてみんなに別れぐらいは言わせてくれよ」

「ふん。なぁにすぐに戻ってくるさ。それに俺たちの勝負はこれからだろう?」

「ああ、そうだな。まったくそのとおりだ」


 宗歩は太郎松の言葉に何度もうなづきながら、みんなの方にくるりと振り向く。

 

 将棋を始めるときの挨拶はいつだって、これだ。

 

「それではみなさん! よろしくお願いします!」


 そう。私たちの戦いは、今始まったばかりなのだ――


                      「宗歩好み! 紅の巻 完」


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読者の皆様へ

ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございました。

後編「雪の巻」は暫くの準備期間を頂いた後、再開させていただきます。

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