第二幕目 箱入り娘

 もぐもぐ。


 宗歩が、あじの開きを箸で器用につまんで口元へと運ぶ。

 脂がのって少し苦みを含んだ旨味が、一瞬で口の中にじゅわっと広がる――。

 後を追うように白い飯を口に放り込ませ、噛みしめる。

 するとご飯の甘味と魚の油が絶妙に絡み合って、何とも言えない心地になってくるのだ。


 (うまい!)


 むしゃむしゃ。


 豆腐の味噌汁を一口飲んで、小松菜の和え物を食べ、また白い飯を口にかき込んだ。

 いくつもの味が口の中で蕩け、融合し、そして極みへと至る。

 

(水無瀬さんが作ってくれる料理って、なんでこんなに美味しいんだろう?)


 朝餉に舌鼓したつづみを打ちながら、宗歩は自分も少しぐらい料理を覚えてみようかしらと考えていた。

 宗歩は今月ちょうど二十歳になったばかり。

 将棋の道を志してからはや十数年。これからも厳しい修行の道は続くだろう。

 だが、一方で女としての生き方にも最近思うところがあった。

 誰かと結婚するとかそんなことは、まだまだ自分には想像すらできない。

 けれど将来のことを考えて、少しくらい女らしいことができるようになってもいいんじゃないかと思い始めている。

 そんなことをぼんやりと考えていると——。


 ――最近、玉枝の様子がおかしい。


 東伯斎がそう言いだしたのは、宗歩が朝餉を食べ終えようとしていたときのことだった。


 東伯斎が宗歩の目の前に回りこんできて、声を潜めながら話しかけてきた。


「玉枝がな、さっきみたいにふらっとどこかにいきよんねん。『どこいくのん?』ってわしが聞いても『え? ちょっとそこまで』って……なぁ、つれないやろぉ?」

「へぇー、そうなんですか。そういえば太郎松も最近外出が多いんですよねぇ。さっきみたいに」


 心配顔の東伯齋をよそ目に、宗歩はたくあんをポリポリ噛み締める。

 ごくっと飲み込んで、湯呑に手を伸ばした。


「まさか……、二人で逢引でもしとんちゃうやろな」


 ぶはッ!


 予想外の発言に驚き、宗歩が口に含んでいたお茶を吹き出す。


 真正面に座っていた東伯斎の顔面に、宗歩の口から噴射されたお茶の飛沫しぶきが浴びせられた。


(まさか、あの太郎松に限って……いやいやいや)

(でも、今日も朝からそそくさと二人とも出かけて行ってしまったわね)

(今日は休日だから出かけるのはぜんぜん構わないけれど……)

(にしても、内弟子なんだから師匠にせめて行先くらいは言って欲しいものよね)

(うーん……ってことは、なにか後ろめたいことでもあるのかしら……)

(は! そ、そういえば玉枝さん、さっきも黙って太郎松の膳だけ片付けてた……。考えてみると二人の関係がますます怪しく見えてきたわ)


 宗歩が疑心暗鬼に陥っていると、東伯齋はびっしょり濡れた顔のまま、

「二人でどっかでこっそり会うだけならまだしも、あんなことやそんなことまでしとるんと違うやろか?」

 とのっぴきならないことまで言い出し始めた。


「あ、あんなことや……そんなこと……とは?」

「ぶっちゃけ、乳くりあっとるかもしれん」

「ち、乳!? くり!?」

「わし、そう思うたらなんか腹立ってきよったわ! 宗歩はん、玉枝は嫁入り前の大事な箱入り娘なんやで。ほんまにそうやったら、どう責任取ってくれるのん?」

「ど、どうって!? というかなんで私が?」


 東伯齋から矢継ぎ早に投げかけられる言葉に、宗歩はくるくる目を回している。 すると、横から透き通るような美しい声が聞こえてきた。


「ふふふ、貴方、冗談が過ぎますわ。ほら、宗歩様が困っていらっしゃるではありませんか。それに逢引なんかとは違いますわよ」


 水無瀬はそう言って、御櫃おひつからしゃもじで飯を掬いあげた。

 そのまま小さいお茶碗に乗せて、食べ盛りの錦旗に手渡した。


(き、錦旗ちゃん、これでもう三杯目なんだけど……)


「せやかて……玉枝も今年で二十歳や。そろそろ嫁の行き先も考えたらなあかん年頃やで。万一男ができたんやったら、それはそれで親としても知っときたいわ」


(そうか、玉枝さんて私と同じ歳だったんだ……。結構意外だなぁ、もっと年上かと思ってた。ていうか、玉枝さん最近急に大人っぽくなってない!?)


 初めて出会った頃の玉枝は、どちらかというと活発で男勝りな印象だった。

 だがここ最近の彼女には、ふとした仕草にも妙な色っぽさを感じてしまうのだ。

 

 (玉枝さんって、胸も結構大きいし……。太郎松はただの阿保だから一発で誘惑されるだろうな。うん、絶対間違いない。黒だわ、これ)


「だから、そういったことではないですわ」

「いや、そうはいうてもなぁ——」


 宗歩は、水無瀬と東伯斎のやり取りを眺めながら、ふと横に目をやった。

 普段こういったときに口やかましい寅吉が、さきほどから全く言葉を発しないのでだ。

 彼は真剣な顔つきで、じっと俯いていた。

 すでに朝餉を食べ終わえたらしく、日本語の勉強がてらなのか、一冊の和綴本を手に取って一心不乱に読んでいたのだ。

 

 本の表紙には——


「女殺し油地獄」


(……寅吉よ。お前は一体何を読んでいるんだ……)


 物騒な題名の本を読みふける寅吉を横目に見ながら、宗歩はふたたび湯飲みを手にとる。

 そうして、お茶を口に含んだ。


「せやかて! もし太郎松はんと玉枝がええ仲やったとしたら、祝言の準備とかそろそろ考えたらなあかんやろう?」


 ぶホッ!


 またしても口に含んでいたお茶を勢い良く噴き出す。

 案の定、東伯斎の顔面に……以下省略。


「ゲホゲホ。い、いきなり祝言の話ですか……。いくらなんでも急すぎやしませんか?」

「何を言うてますねん、宗歩はん! 弟子ちゅうのは、師匠にとって子どもみたいなもんや。あんたもわしも、お互いの息子と娘のことやさかい、将来のことよう考えたらな、あかんのんとちゃいますか?」


 二十の生娘にして、二十三の息子を持つことになってしまった天野宗歩。

 なんとも言えずに困惑した表情を見せるしかない。


「ですから、そんな気の早い話ではありませんわ。お二人とも、玉枝と太郎松さんはなんでもありません。あの二人のことは、そっとしておいて上げてくださいまし。いいですね?」

「なんやぁ。水無瀬にはわかるんかいな」

「ええわかりますとも。血を分けた妹ですからね。きっと——」


 そのとき、玄関から「御免ください」と誰かの声が聞こえてきた。


「あら、お客さまだわ。ちょっと行ってきますね」


 そう言って、水無瀬はそのまま玄関口に駆け寄っていった。


 ふと気づくと、すでに錦旗と寅吉は広間から消えていた。

 二人で遊びにでも出かけたのだろうか。

 四姉妹の末っ子、錦旗は最近寅吉のことがお気に入りだ。

 ひょうきんで風変わりな寅吉と、やはりちょっと不思議な雰囲気を持つ錦旗は、なかなか波長が合うらしい。

 親子ほどに年の離れた二人ではあったが、妙にお似合いだったのだ。


 だが一瞬、宗歩の脳裏にさきほど寅吉が読んでいた台本がよぎる。


 ――「女殺し油地獄」


 たしかあの話は、遊郭遊びで金に困った男が町娘を強盗したあげく惨殺する話。

 それを神妙な顔つきで読んでいた寅吉って――


 (寅吉、あんた大丈夫よね? 師匠の私を泣かせるようなことしないよね……)


 水無瀬が立ち去ってから、広間に長い沈黙が訪れた。

 しばらくして、東伯齋がぽつりと口を開いた。

 どうやらまだ納得をしていなかったらしい。


「水無瀬にああ言われたかて、わしやっぱり気になるわぁ。このままやと仕事に手がつかんわぁ。チラ」


 東伯齋がめっちゃ見てくる。どうする?


「誰かちょっとでええから二人の様子を見に行ってくれへんかなぁ。今日お暇な人どこぞにでもおりませんやろかなぁ? チラチラ」


 東伯齋が宗歩をめっちゃ見つめてくる。どうする?


 宗歩は観念したかのように、はぁっとため息をついて、

「えーと、分かりました。それでは不肖ではございますが、私が少し調べてみましょう」

 

 渋々承知したという顔の宗歩であったが、その実めっちゃ気になっていた。


(太郎松、あんた一体どういうことよ……。本当だったらただじゃおかないからね!)


「おお、そうか! どうもおおきに。でも二人にはこっそり頼みますで。気に障ったら面倒やからな。ほなわしは仕事があるさかい」

 

 そう言って、東伯齋はさっさと自室へ消えていった。


 さきほどまであれほど人がいたというのに。

 今はこの広間にも宗歩と荘次郎の二人だけが残るばかり。

 二人とも微妙な空気になってしまい、内庭を眺めるしかない。

 ちゅんと鳴いて、雀が屋根から降りてきた。


「お師匠様、あの、僕そろそろお片付けしますので……」

「ああ……そ、そうだな。私も手伝うよ」


 仕方がないので、宗歩も荘次郎と一緒に残った膳を片付ける。


「……なぁ、荘次郎」

 荘次郎の背中から宗歩の声が聞こえた。


「は、はい、何でしょうか? お師匠様」


 膳を持ったまま荘次郎が後ろを振り向く―—


「この後、私の部屋までついて来なさい」

  

 宗歩の目が、据わっていた。


 荘次郎は泣き出しそうになりながら、こう思った。

 

 ああ、今日はきっと修羅場になるぞ、と——

                              (第三幕へ)

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