第十章 大橋太夫

序幕 Ensemble Play

 それは――冬の始まりのことだった。


(あの日は、宗歩はんにとっても、みんなにとっても、長い一日になってしもうたなぁ……)


 小林東伯齋が遠い目をしながら、何かに思いを馳せていた。


 天保六年一月六日――大坂。

 正月も明けたばかりの晴天のある朝のこと。


「コホン、えーと食事の前ではございますが、皆様に折り入ってお話しがございます」


 天野宗歩が、朝餉のために皆がそろったのを見て、突然話を切り出した。


 大坂の豪商小林家の大広間。

 そこに天野宗歩一派と小林家の面々が、一同顔をそろえている。

 座敷の広さは、八人全員が集まるにはちょうど良い。

 上座には東伯齋と宗歩が並んで座っている。

 向かってその右側には市川太郎松、渡瀬荘次郎、平居寅吉が、反対の左側には小林家長女の水無瀬、次女の玉枝、四女の錦旗がそれぞれ並んでいた。

 各自の前にはお膳がひとつずつ置かれ、その上に水無瀬が夜明けとともにこしらえた数々の料理が添えられている。


 鯵の開きに、小松菜の和え物と冷や奴、味噌汁と白いご飯。

 至って素朴な献立ではあったが、実に美味そうだ。


 東伯齋の妻、水無瀬が作る料理は絶品だった。

 屋敷の離れに暮らす宗歩一派がこうして毎朝集まってくるのも、水無瀬の手料理を食べたいからに他ならない。

 天野一派の朝はとても早く、夜が明ける前から稽古が始まる。

 朝稽古が終わり次第、宗歩は東伯斎と出稽古の予定や興行の企画を話し合う。

 太郎松と寅吉は、染物屋の掃除と下準備。

 荘次郎は、玉枝とともに水無瀬の料理を手伝うことが多かった。

 みながそれぞれの役目を果たし、こうして朝餉を頂くのが慣例になっているのだ。


「皆さん、大事なお知らせがございます」

「……」


 一同が固唾を飲んで、宗歩が話し始めるのを待っている。


(なんでこの居候は、儂が飯を食おうとするとこうやって話し始めるんやろう……ここの主人、いちおう儂なんやけどなぁ……)


 東伯齋は、そう思いながら深い溜息をついた。

 だが、有力者にも知名度が高い宗歩には、何かと世話になっているのも事実。

 商歴が浅く商売敵も多い彼にとって、宗歩は大事な客人であることに違いない。

 ここはとりあえず彼女の話を聞くことにする。


「こ、今度はなんやろうか、宗歩はん。だれぞまた破門にでもするんかいな?」

「ふふふ、違いますよ、東伯齋殿。皆さん! まずはこれをご覧いただきたい」


 そう言って満面の笑みを見せる宗歩が、全員の顔をきょろきょろと見渡しながら、懐の中に手を突っ込んだ。

 その拍子に、小袖の胸襟がぐいっと前に大きく開かれた。

 真横に座っていた東伯齋から、彼女の胸元がちらりと垣間見える。

 その胸元には——きつく縛ったさらしが巻かれてあった。


(宗歩はんって、意外と胸大きいんやなぁ。さらし巻いとっても分かるくらい膨らんでるわ……)

 

 宗歩が懐の中から取り出したのは、一枚の紙切れだった。


「おお、そいつぁ……、新町遊郭の女出入手形じゃねぇか」

 

 宗歩の斜め隣に座っていた市川太郎松が物珍しそうに言う。


 新町遊郭――

 江戸の吉原、京都の島原と並ぶ日本三大遊郭の一つ。

 最盛期には遊女千二百人を擁した不夜城。


 この新町遊郭に隣接するように花街「堀江」がある。

 堀江には相撲場、芝居小屋が立ち並び、付近一帯が難波新地と並ぶ大坂の一大歓楽街を形成していた。

 度重なる飢饉で贅沢を戒める風潮が強くなる昨今でも、その華やかさ、賑やかさは一層の輝きを増しており、いまだ衰えを見せない。

 この新町遊郭に入るには、東と西の大門を通るほかなかった。

 地区の中で暮らす遊女の逃亡を防止するために、周囲が堀でぐるりと取り囲まれていたからだ。

 これをくるわという——。

 この大門を女が通行する場合、定めにより出入用の手形が必要となる。

 もしも女が手形を持たずに中に入ってしまったら……おそらくただでは出て来られないだろう。


 宗歩が持つ手形を見ながら、東伯齋はあごに手を当て思案顔をしていた。


 キュピーン!


 東伯齋が、いきなり背筋をぴんとさせた。

 まるで商売繁盛の神、恵比寿からの天啓にでも打たれたかのように。


 そう。東伯齋の棋才、「棋芸師」が発動したのだった。

 彼は、将棋を単なる勝負事や棋理の研究の対象ではなく、純粋に楽しめる遊戯として活用することに長けていた。

 将棋の魅力を最大限に引き出し、娯楽として昇華させる能力。

 これもまた棋才と呼ぶにふさわしい能力である。


 東伯齋の閃きが、天駆ける竜の如く昇っていく!


 そう、彼はぼんやりと虚空に描き始めていたのだ。


 遊女の恰好で将棋を指す天野宗歩の姿を。


 ――宗歩太夫


 この時代の遊女は、決して身体を売ることだけが商売ではなかった。

 「太夫たゆう」、それは遊女の中でも最も格の高い者。

 公家や大名など高貴な殿方を相手に接客する特別な存在。

 そんな彼女たちには美貌だけでなく高い知性と教養、それに愛嬌と気配りまでが求められた。

 酒食を共にしながら雅な会話を弾ませ、客を心地よくさせること。

 その一環として、太夫は書画、三味線、舞踊、お茶、お花、それに囲碁や俳句に至るまでさまざまな技芸に精通する必要があったのだ。


(せやけど、太夫が将棋を嗜むちゅう話を、これまで聞いたことないねんなぁ。なんでやろ?)

(よう探せば少しくらいはおるんかもしれんけど……どっちかちゅうと将棋は、庶民を中心に広まってることと関係あるんかもしれんなぁ)

(そう考えると、太夫からしてみたら将棋を覚える優先度はいまいち低かったんかもしれん)

(けどなぁ、先の将軍の例に漏れず、偉い人の中にも将棋好きは結構おるしなぁ……)


 東伯齋はここに商機があると見た。

 将棋家の庇護がない在野の将棋指しは、遊女と同じでしょせんは人気商売。

 宗歩もいずれ将棋家から独立するつもりなら、東伯齋以外の強力な支援者がもっと必要になるはずだ。

 これからは、一部の権力者だけでなく大勢の庶民からの支持が欠かせない。

 新町遊郭にやって来る男たちは、町人などの庶民層が大半だ。

 彼らの目を引くのには、もったいぶった三味線や舞よりも身近で気軽な将棋のほうがよく似合っている。


 神がかるほどに将棋が強い「太夫」――


(こ、これはえらい人気を博すに違いないわ!)


 普段は将棋指しとして活動するから、実際に会いに行ける「太夫」


(せ、せや! さらに一歩進んでこういうのはどうやろう?)

 

 将棋に勝たないと絶対に身体を許さない「太夫」――


(簡単には自分のものにならへん分、ものにできた時の気分はそら最高やろう)


 一夜十両とまで言われた傾城の美女たち――

 彼女たちと一夜限りの虚ろの色恋に思いを馳せてみたいと願う男は多い。

 そんな男たちに、宗歩大夫は恋の駆け引きと将棋の駆け引きを巧みに重ね合わせて倒錯させるのだ!


――わっちに勝てたらあんさんの好きにしてくりゃれ。

――ああ! あんさんの手。ほんますごいわぁ。


(躍起になる男どもの顔が、今にも目に浮かびそうやわぁ。くっくっく)


 東伯齋はここまでの内容を一瞬のうちに想像し企画した。

 まさに「光速の助平」と呼ぶにふさわしい慧眼である。


 そして、東伯齋はだらしなくにやけた顔で、こう言い放つ。 

「なんやぁ、宗歩はん。遊女にでもなるんかいな」

「ちがうわい!」


 顔を真っ赤にした宗歩に思いきり否定された。


 ああ、夢幻の如くなり——


 途方もない妄想に浸りきっていた東伯斎の心中を、宗歩は心眼で見透かし、軽蔑の眼差しを向ける。

 水無瀬や玉枝も、まるで東伯齋を虫けらでも見るかのような目つきで睨んでいた。


(け、結構ええ案やと思ったんやけどなぁ……しょぼん)


「コホン、実は、大橋柳雪様が昨日から大坂に来られているのです」と宗歩は言った。

「大橋柳雪様って……?」と将棋界の事情にあまり詳しくない次女の玉枝が聞く。

「まぁ、こいつの師匠だな」と太郎松が言って、宗歩を指差しながら玉枝に丁寧に説明してあげる。


 大橋柳雪は、大橋分家出身の京都の将棋指しだ。

 段位は七段、おそらく日の本でも一二を争う実力があるだろうな。

 それで、宗歩の心の師匠でもある。

 いちおう正式な師匠が江戸に別にいるのだが、宗歩は幼少のころから柳雪を師事し、その高い技術と心構えをその身に叩きこまれていた。

 二人はそんな関係にあるから、一度は京都で喧嘩別れをしたもの、直ぐに仲直りした。

 というか、宗歩が一方的に怒って出奔しただけだから、謝罪の手紙を送って許してもらったというのが実際のところだが。

 宗歩は大坂に来てからも、よく手紙で柳雪といろいろなやり取りを交わしていたようだ。


「その大橋柳雪様が、このたび新しい定跡の御本をお書きになられました」

「定跡の本って?」と再び玉枝が聞く。

「ええと、本の題名は『平手相懸定跡奥義』と言いまして、柳雪様のこれまでの将棋の研究成果が惜しげもなく書かれた集大成なのです。それはそれは大層有難い御本なんですよぉ」


まるで偽の経典を高値で売りつけようとしている怪しい坊主みたいだ。


「なんとも中身が気になるタイトルでゲスネ」

 と、弟子の寅吉が横から調子のいいことを言う。

 宗歩は、いつものように寅吉の軽口をさらりと無視して、

「その出版を記念して、柳雪様が上方の花柳街を順番に巡業されているのです」

「なるほどな。それで大坂の新町遊郭に今やって来てるってわけか」と、太郎松が腕を組んで納得したように言った。


「そうなんだよ。一ヶ月くらい前に柳雪様から手紙が送られきてね。出版を記念して公開対局をされるおつもりらしい。私はその相手を仰せつかったんだ」


 喜色満面の笑顔で宗歩は、太郎松にそう言った。


「それで……お前は了承したのか?」

「ああ、もちろんだとも。柳雪様に直接お会いできるだけでなく、対局のお相手までさせてもらえるなんて。これほどの名誉はないんだぞ」


 宗歩が遊郭の通行手形を手に挟みながら合掌しながら言う。

 そこだけを切り取って見れば、これから遊女として身売りされ、神仏にすがろうとしている悲運の少女のようだ。


「……で、それと宗歩はんが遊郭の通行手形を持ってることと、一体何の関係があるんかいな?」

「先日届いたばかりの手紙の中に、この手形と新しい御本が入っておりました。明日、新町遊郭の大宴会場で、私と柳雪様が公開記念対局を行う予定だそうです」

「なるほどなぁ。宗歩はんも男装しているとは言え、ぶっそうな遊郭のことや。何が起こるかわからへん。万一正体がばれた時に備えて念のため持っておけ、ということかいな」


 なんやしょうもな、という顔を露骨に見せた東伯齋に、宗歩が再び激しい軽蔑の眼差しで、

「そうなのです。こういう気配りができるところがさすが柳雪様ですね。きっと私の身のことを案じてくれているのでしょう」


 途方もない妄想に耽って身をくねらせ始めた宗歩を前に、気の優しい荘次郎だけが無言でほほえましく見守っている。

 他の者達は、話がようやく終わったと勝手に判断し、それぞれ一礼して箸を持ち始めた。

 せっかく水無瀬が作ってくれた朝餉が冷めないうちに――



「ごちそうさん。じゃあ、俺は今から出かけてくるぞ」

 太郎松が、そう言って立ち上がる。

 朝餉をものすごい速さで食べ終わったようだ。


「なんだ、今日も出かけるのか? おまえ、最近外出が多いな」


 まだぜんぜん食べ終わっていない宗歩が、太郎松を見上げながら話しかけた。


「ああ、帰りも遅くなるわ」


 そっけなく返されて、宗歩はちょっと不満げに口を尖らす。


「そっか、それは残念だな。明日の対局のために、今日はお前としっかり練習したかったんだが……」


 それを聞いた太郎松が、表情を変えないまま少しだけ口をつぐんで、

「――すまんな。荘次郎にでも相手してやってくれ」

 と、つれなく言って太郎松は、そのまま広間を後にして行ってしまった。


「やれやれ、しょうがないなぁ。荘次郎、申し訳ないが私の相手をしてくれ」

「は、はい! かしこまりました」


 尊敬する師匠に声をかけられた荘次郎が、うれしそうな顔でそう答える。



 しばらくすると今度は玉枝が、

「ご馳走様でした。水無瀬お姉ちゃん、私もちょっと出かけてくるわ。お昼ごろまでには帰って来られると思うけど……」

 と、太郎松の膳と自分の膳を重ねて持ち上げて、そのまま炊事場のある方向へ運んで行ってしまった。


                               (第二幕へ)

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