第四十二話 墓参り

 仇討ちの対局があった日から、一ヶ月経ったある日のこと。

 陽が沈みかけた夕暮れ時、菊と宗珉は、菩提寺にある墓地で佇んでいた。

 境内の裏手に広がるその墓地の隅っこに、菊の父の墓があった。

 墓と言っても自然の石を立てただけで名すら刻まれていない。

 その前に二人は並んでいた——


「おとっつあん、ほら初段免状だよ。あたし、将棋家から免状もらったよ」

 

 菊は、父の魂が眠る墓石に向かってそう話しかけ、一枚の書状を広げて見せた。


「池田菊殿 貴殿の実力を認め此処に初段目を允許する。官賜御将棋所伊藤宗看」


 金五郎への仇討ちが終わってからも、菊は定例会で連勝を重ね続けた。

 そうしてとうとう昨日、晴れて初段への昇段を果たしたのだ。

 だが、名人から書状を受け取ったときの菊の顔は、なぜか晴れなかった。

 金五郎の父、伊藤宗看名人の署名と花押が入った御免状――

 それを目にしたときの菊の心中は複雑だった。


 それでも父上への弔いにはなるだろう——

 宗珉はそう説き伏せて、墓参りを渋る菊をここまで連れてきたのだ。

 菊も来たらきたで思いがこみ上げてきたらしい。


「ねぇ、おとっつぁん。見てよほら、ありがたい名人様から頂いた御免状だよ。おとっつぁん、あんなにも欲しがってたじゃないか」


 宗珉が菊の方を見ると、その切れ長の美しい瞳には涙が溜まっていた。


「おとっつぁんのじゃないけれど……あたし頑張ったんだよ」


 たった一人の肉親を将棋に奪われた少女。池田菊——


「それにね……仇も討ったよ。あの伊藤金五郎に勝てたんだよ。あいつも反省して賭け将棋から足を洗うってさ……」


 父に語りかけることで今までのことを走馬灯のように思い出しているのだろうか。

 菊が涙で喉を詰まらせながら、叫ぶように大きな声を上げる。


「ねぇおとつぁん、返事してよ! ねぇってさ! うぅ、こんなもの……ただの紙きれじゃないか。えい!」


 ビリっ!


 菊はそう言って、両手に抱えていた書状をいきなり破り捨てた。

 高価な和紙で作られた書状が真っ二つに裂かれて、菊の手からはらりと地面に落ちる。

 

「菊、な、なにをする!」

「おとっつあん……。私はおとっつあんと将棋がもっと指したかったんだよぉ……ううぅ」


 菊がその場に泣き崩れて、ただただ号泣した。

 金五郎への仇討ちを果たし、父の念願だった初段免状を手に入れた菊。

 だが、本当に菊が望んでいたのは、父との対局だったのだろう。

 側にいた宗珉にはそんな菊を優しく抱き寄せてやることしかできなかった。



 菊が落ち着きを取り戻したあと、二人は肩を寄り添うようにしながら、境内の縁側まで歩いて移り、そこへ座り込んだ。

 境内を見回すと正月の小間物を売る行商人や屋台がいくつか立ち並んでいて、少しだけ騒がしかった。


「菊、お前はこれからどうするのだ?」

「そうだね……。仇も打てたし、あたしはやっぱり将棋家を辞めることにする」


 菊は、うつむいて路傍の石を眺めながら、ぽつぽつと宗珉に語り続けた。

 まるで自分の宿命を果たし終えたかのようなその姿には、悲しい哀愁が漂っていた。


「いろいろ事情を聞いたらさ、金五郎さんも結構可哀そうな人だったんだねぇ。でもあたし、将棋家のお偉い人たちにはほとほと嫌気がさしちまったのさ」

 

 菊は、少しだけ寂しそうな顔した後、宗珉の方を向いてにこりと笑顔を見せた。

 これから菊は一介の将棋指しとして、将棋を指し続けることにしたらしい。


 菊の中にも父と同じ勝負師の血が流れていた。

 強い者と戦いたいという闘争心が――


「そうか、それは……だいぶ寂しくなるな」

「あら! 私がいなくなると宗珉様は寂しがってくれるの? なんだか嬉しいじゃない」


 菊が、細くて白いその腕を宗珉の腕に絡ませてきて、コロコロと笑っている。


「い、いや、そう言うことでは……」


 笑っていた菊が、急に真面目な顔になって、宗珉を見つめる。


「でもね、これだけは覚えておいてね、宗珉様。私は——ずっとあなたの味方よ」

「菊……」

「あたしは……もしも宗珉様が困っていたら、どこからでも駆け付けてみせる。そして貴方様をお守りいたします。きっと――」

「おいおい、いきなりかしこまって、どうしたんだ。」


血のような夕暮れが二人を照らし、紅く染める。


「ねぇ。宗珉様、一つだけお願いがあるの」

「なんだ?」

「私、凧が見たくなったの。宗珉様が揚げる大きな凧を」

「いきなりなんだそれは?」

「あすこにほら――凧を売っているお店が」


 菊の指さす方向を見ると、もうすぐ正月だからかいろんな小間物に交じって職人作りの和凧がたくさん並べられた店があった。


「よし、わかった。買ってこよう」

「ありがとう」


 宗珉が立ち上がろうとしたその瞬間――


「待って!」


 いきなり菊が宗珉の着物の袖をつかんだ。

 その顔は、はかなげで寂しそうでもあり、狂おしいほどに美しくもあった。


「うん、どうした?」

「……ううん、なんでもないわ。いってらっしゃい――」


 宗珉が出店で和凧を見繕い、一番元気よく飛びそうなものを選ぶ。

六角凧、菱凧、角凧、武者絵凧、字凧――

 こういう物でも慎重に考えるのがいかにも宗珉らしい。



「菊、買ってきたぞ――」


 ようやく宗珉が気に入った凧を買って戻ってくると——



 そこに菊の姿はなかった。



「菊? どこだ……」



 しばらくの間、宗珉は辺りを探し回ったり、参拝者にも尋ねてみたが、どこにも菊は見つからなかった。

 

 そのとき——


「大橋宗珉殿」


 いきなり後ろから自分の名前を呼ばれた。

 振り返るとそこにはこの寺の住職が立っていた。


「おお住職殿か。ちょうど良かった。すまぬが、菊殿をご存知ないだろうか」

「菊殿ならばたった今、旅に出られましたぞ」


 住職の予想外の言葉に、宗珉は絶句した。


「そんな……行ってしまったのか。俺に何も言わずに……」

「これを」


 そう言って住職が、一枚の手紙を、宗珉に手渡した。

 そこには——たった一行。


「あなたのことを好いておりました。こんな菊をどうかお許しください」


 きっと菊は、仇討ちを終えた時からこうするつもりだったのだろう。

 墓参りを渋っていたのも、別れが近づくから躊躇していたのかもしれない。

 

 宗珉は、こんな勝手なことばかり言う菊にむしょうに腹が立ってきた。

 勝手に自分に近づいてきて、勝手に自分を仇討ちに巻き込んで、勝手に自分から去ってゆく。そして勝手に――させて。

 

突然、宗珉が住職のほうを見て、

「住職殿よ! ここらへんで一番高い場所はどこだ?」

「さて、そうですなぁ。この裏山の頂上でございましょうか」

「よし! わかった、ありがとう!」


 そう言って、宗珉は先ほどの店に戻り、店主になにかを頼み込んでいた。



 はぁ、はぁ――

 宗珉が山道を走って一気に駆け上がる。

 息が切れて眩暈がする。がそんなこと構ってられない、頂上はもうすぐそこなのだから。

 

 走った。


 とにかく走り続けた。


 両足が悲鳴を上げているがもうすぐそこだ。

 もっと身体を鍛えておけば良かったと心底後悔する。

 それでもぐねぐねと続く小石だらけの最後の山道を、駆け登っていく。

 


 走り、登って、なんとか山頂まで辿り着いた。

 頂上付近には高い樹木はなく、見晴らしの良い丘のように開けていた。


 (よし、これならどこからでも目に付くぞ)


 宗珉は、山の頂上の一番上に立ち、今まで走って登ってきた山道の方を振り返った。

 そうしてしばらくじっと立って待っていると、山裾から一陣の風が吹いた。


「よし! いまだ、それ!」


 ダッ!


 宗珉が頂上から一気に山道を駆け降りる――

 速度を急激に上げて一気に坂を走りながら、用意していた和凧を頭の上へ持ち上げた。

 そして——


 下から吹き上げる風に乗せるように凧を勢いよく手放す。


 バッ!


 手に握り締めた巻き糸を緩めると、

 真四角の和凧が一気に空中へと垂直上昇する。


 ぐんぐんと和凧は空の方へと上昇し、反対に巻き糸が細くなっていく。

 巻き糸を少しずつ手繰り寄せて、その高さを調整しながら糸を引きつける――

 すると、凧がある地点でぴたりと止まった。

 

「よし! 成功だ!」


(菊、見ているか! これが俺の気持ちだ。これからもずっと見ていてくれ、きっと俺は天野宗歩を倒して見せるから――)


 気づけば宗珉の中の憂鬱がすっかり消えていた。

 己の運命をただ呪うのではなく、懸命に抗おうとする青年が一人ここにいた。



 そのころ菊は、寺から少し坂を下ったところの細長い参道を、とぼとぼと歩いていた。


(宗珉様……ごめんなさいね。こんな私を許してね)


 菊にとっても辛く悲しい選択だった。

初めは宗珉を誘惑し、ただ利用するつもりだった。

 父の敵を討つためなら、自分の身体を道具にすることなんて気にならなかった。


 将棋家の御曹司なんて――


 最初はそんな風に考えていた菊も、宗珉と心を通わせるにつれて、自分が彼に惹かれ始めていくことに気づいた。

 

 将棋家の御曹司と孤児になった町娘が出会う——

 その先に悲しい運命が待っていることを、菊は良く分かっていた。


 血筋を重んじ、有力な武家の娘を娶ることが多い将棋家のこと。

 真面目な宗珉のことだ、身分の差に眉をひそめる父との間に挟まれて、苦しむことが目に見えている。

 将棋家を背負って天野宗歩と戦う宿命を持つ彼に、そんな思いをさせたくはなかった。

 

 だけど、別れを宗珉に直接告げれば、未練に耐えられる自信もなかった。

 もしも宗珉に「残って欲しい」と頼まれたら――

 自分はきっと断れなかっただろう。

 だからこうして――


 ビュオーー


 そのとき、彼女の背中に一陣の突風が吹きつけた。

 菊がとっさに山の方を振り返ると、裏山の頂上付近に大きな和凧がひとつ浮かんで見えた。


 空中で停止し続けているその大きな和凧には、何かが描かれている。


 菊が目を凝らすと——

 そこには朱色の墨で、漢字一文字が、大きく目いっぱいに書かれていた。


「好」と——


(ああ――)


 菊の目からとめどなく涙が溢れてくる。


(宗珉様……ありがとうございます。どうか、どうかお達者で)


 大橋宗珉と天野宗歩との命を懸けた対決まで――、あと四年のことである。


                       第九章『伊藤金五郎』 完

 

 『池田菊』

 菊は、明治になっても在野棋士としてその名を残している。

 現在と基準は異なるものの、その記録に残された段位は「四段」。

 女性棋士としては史上最高位であり、この記録は今もなお破られていない。

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