第四十一話 仇討ち(後編)

 「明日屋敷へ伺いたく候」


 伊藤金五郎からの知らせが届いたのは、今朝のことだった。

 なかなか返事が来ないと心配していた宗珉も、日の出とともに飛び込んできた文を見て、ほっとした。

 

 早速菊にも知らせてやらねばなるまい。

 明日は二人して屋敷で待つことになるだろうな。

 

 翌日の朝から、宗珉は客間の隣にある奥座敷に、菊を控えさせることにした。

 

 「本当にやつは来るのかしら?」

 「ああ、間違いない」

 「いよいよね……」

 「大丈夫だ。お前ならきっと勝てるさ。だが油断はするなよ」

 「ふん! あなたに言われなくても、そんなことわかってるわよ」

 「いや、勝負は何が起こるかわからん。落ち着いて考えるんだぞ」

 「はいはい」

 「万一危機に陥ったときは、あれを思い出せ——宗英名人直々の揮毫だ!」

 

 そう言って宗珉が指さしたその先には——

 第九世名人、大橋宗英直筆の掛け軸が壁に掛けられていた。


 「……達筆すぎて読めないんだけど」

 「……す、すまん」


 

 昼過ぎになって、金五郎が大橋分家の屋敷を訪ねてきた。


 (のこのことやってきたか……)


 玄関口で案内された金五郎が、客間へと入ってきた。

 その姿は衣服も汚れ、無精髭も伸ばし放題、彼の困窮ぶりがすぐに見て取れた。

 挨拶もなくむすっとした表情の金五郎が、座布団に腰を下ろす。

 そうして、不躾な態度のまま、気だるそうな掠れ声で、

「宗珉殿よ、本当に……親父に話をつけてくれるのか?」

 と、開口一番そう言った。


 目はくぼみ赤く充血している。

 憔悴しきったその顔には、疑心暗鬼の相が浮かび上がっていた。

 兄に利用され父にも見捨てられたことで、生来不器用だった彼の心に暗い影を落としているのだろう。


「ええ、本当です」

「……なぜ、俺に手を貸す? 親父を敵に回すぞ」

「ご恩返しでございますよ」

「恩返し……だと?」


 本当だった―—

 幼かった宗珉を、何かにつけて励ましてくれたのが金五郎だった。

 伊藤家のはみ出し者だった彼は、当主の息子でうだつが上がらない宗珉に、親近感を覚えていたのかもしれない。

 そんな金五郎が、宗珉の大長考にいつまでも付き合ってくれた場所。


 それが今二人が座っている客間だった——


 父の宗与ですら、宗珉の大長考を「優柔不断」とののしったのに。

 宗珉の目の前に座っている金五郎だけは、何も言わずに待ってくれた。

 敵討ちを手伝うことに偽りの気持ちはない。

 が、一方で落ちぶれてしまった金五郎もやはりなんとしても救いたかった。

 宗珉が菊の話に乗った真意は、実はここにあったのかもしれない。

 今の宗珉があるのは、なによりもこの人のおかげだったから。


「ただし――条件がひとつだけございます」

「ぬ……条件、なんだそれは? 銭か?」

「いえ、実はこの者と平手で一局指していただきたい――」


 すっーと奥座敷へと続く襖の端が開き、部屋の中で菊が控えているのが見えた。

 金五郎が途端に怪しむ素振りを見せる。


「なんだ……この小娘は?」

「大橋本家門下の池田菊殿です。この者と一局指していただきとうございます」

「池田……菊。女の門下生とは聞いたことがないな。……まぁいい、そんなことならお安い御用だ」


 手合は平手。

 将棋家では、有段者が無段者と平手を指すことは厳禁だった。

 しかし、背に腹を代えられぬ金五郎は菊の要望を飲むしかなかった。

 結果、平手それも先手を指すことになった。


 『よろしくお願いします』

 互いが呼吸を合わせて、盤上に集中する。


 金五郎も菊も相当な早指しだった。

 一気に序盤をふっとばして中盤へと進む。

 盤面は、菊の「石田流三間飛車」と金五郎の「棒金戦法」——

 

 「ぬ? なんだこれは?」


 間髪入れずに指し続けてきた金五郎の手が、ここで初めて止まる。

 怪訝な顔をして菊の顔を見つめている。

 ここまでに何か違和感を感じ、菊の素性を怪しんでいるようだ。

 菊はそんな金五郎と目を合わせようとせずに、じっと黙って盤上へ視線を落としていた。

 

 「金五郎様、なにか?」


 ここで菊の素性に気づかれてしまっては元も子もない。

 宗珉はさり気なく牽制を働かせて、金五郎の注意を逸らそうとする。

 金五郎もやはり気のせいかと思い直した様子で、

 「いやなんでもない」とだけ呟き、盤上に視線を戻した。


 中盤から互いの駒が激しくぶつかり合い、局面は混迷を迎えてきた。

 

 (おとっつぁん……。とうとうここまで来たよ)


 今までずっと俯き加減だった菊が、がばっと顔を上げた。

 そして駒台にある角に手を伸ばしたまま、金五郎を睨みつける。


「伊藤金五郎。父の仇! 食らいなさい!」


 バチィィィ!


 運命の△5五角――


「こ、この……角打ちは!」


 菊の鋭い手つきで指された着手を見て、金五郎の様子が一気に豹変する。

 そして何かを思い出したかのように、低い呻き声を上げながら「そうか、これはあの時の……そうだったのか」と呟やきだした。


「そうよ、あなたも覚えているでしょう?」


 金五郎が突如「あっ!」っと奇声を上げた。


「お、お前はまさか……」

「あら、ようやく私のこと、思い出した?」


 金五郎を見つめるその瞳には力強い気迫がこもっていた。

 

 ――仇討ちである以上、おとっつぁんが指し掛けた棋譜の続きを指したいの。

 ――指し継いだ上で、勝ちたいのよ。

 これこそが菊の仇討ちだった。

 

「お前は、あのとき店にいた娘なのか……。おのれぇ! 謀ったな、宗珉!」


 金五郎が、顔を真っ赤にして宗珉を睨みつけた。

 このまま黙っていれば金五郎は、「騙された。この勝負はなしだ」と難癖をつけて煙に巻くのが見えている。

 仇討ちを成功させるにはここが正念場だった。


「だまらっしゃい、金五郎殿! この者は真剣勝負を望んでいるのですぞ。勝負を挑まれてこれを受けて立った以上、正々堂々と最後まで指し切るのが将棋家の将棋指しではないか!」

 

 宗珉も負けじと金五郎を一喝する。

 ここで気合負けすれば勝負がなし崩しになり、菊の努力が気泡に帰す。


(それだけは避けねばならぬ)


「ぐぬぅ」


 温和な宗珉に予想外にも猛反発されて、金五郎の態度が一瞬ひるんだ。


(よし! 気迫が通ったぞ、今だ)


「金五郎殿! 良いですか。伊藤名人に宥恕を求めるにしても、正々堂々と戦おうとした、そんなあなたの態度こそが身の証となるのです。父上様に貴方の――」

「しゃらくせぇ! 講釈なんぞ垂れてんじゃねぇよ! ああ、そういうことか。よしこうなったら親娘ともども打ちのめしてやるわ!」


「望むところよ! 盤上であなたを打ち取って見せる!」


 ここまで父の棋譜をなぞってきた菊も、ここから先は自分の力で指さねばならない。

 

 だが、菊は金五郎に予想外にも苦戦をした——

 

 定例会で連勝続きとはいえ、菊の棋歴は浅く所詮は付け焼刃。

 それに比べて金五郎の将棋は、想像以上に強く、そして怪しかった。

 錆びてしまった「なまくら刀」とはいえ、腐っても将棋家の五段格。

 これは宗珉と菊の完全な誤算だった。


 ——仇討ちに出た武家の娘が、敵に返り討ちに会う。

 そんな悪夢のような想像が、一瞬菊の脳裏をよぎる。


 金五郎の鍛えの入った一手一手に、菊はその差をどんどんと縮められていく。

 手負いの虎とはいえ、金五郎の才能は兄二人を遥かに凌ぐものだった。

 局面が悪くなればなるほどその怪しい力が解き放たれ、中終盤に一見して意図が計りかねる勝負手を平然と放ってくる。

 

 ちまたで「妖刀使い」と呼ばれる棋才——

 それこそが金五郎の正体だった。


 妖刀を指された相手は、意表を突かれ、その真意をくみ取れずに罠に嵌る。

 刃から滲み出た毒が身体を蝕み、窒息するかのように悶えながら自滅する。

 最後の一手までまったく気の抜けない逆転含みの泥将棋。

 将棋家が嫌う異端の将棋。それが金五郎の将棋だった。


 金五郎の妖刀が、菊に向かって勝負手をどんどん放ってくる。

 △5五角打ちまでは金五郎の敗勢だったのに、局面の形勢はほぼ互角にまで持ち直されてしまった。

 傍目の宗珉にも、勝負の流れが金五郎に傾いていることは明らかだった。

 

 「な、何よこの手、気持ち悪い……」

 「くく、どうだ。お前に分かるか? 俺の狙いが」

 「いや、やめて……」

 

 実は、金五郎の勝負手ははったりやこけおどしに過ぎない。

 すべては幻影なのだ。

 だが、対局中の当の本人の菊にとっては、その手が怪しく映える。


 パチン

 

 「あ! しまった!」


 菊が指した瞬間、失着であることに気づく。


 「はっはっは、やっちまったなぁ。お嬢ちゃん」

 「ちくしょう、だめだ」


 ——将棋は対話なり。


 将棋の手には「筋」というものがある。

 こう指せばこう指す。阿吽の呼吸のような自然な指し手が確かに存在する。

 この「筋」を外した手は、悪手であるが相手に強烈な違和感を与える。

 それはまるで互いの思考が噛み合わずに、ちぐはぐな会話を続けるようなもの。

 読みをすべて外された相手は、混乱し翻弄される。

 悪手にまるで合いの手を打つかのように、自分もつられて悪手を重ねてしまい、ますます気が動転する。

 まさに泥仕合だ。


 「つ、強いわ……このままじゃ負ける」

 「ふん、驚かせやがって。お前の親父の将棋もまぁ無様なものだったよ」

 「な……、こ、この野郎!」

 「所詮は、下品な草将棋に過ぎんのさ。まぁ最後までやってたら結局俺が勝ってただろうなぁ」

 「絶対に……絶対にあんたを許さない」


 菊がキッと金五郎を睨む。


 ——菊、落ち着いて考えるんだぞ。


 一瞬、菊の脳裏に宗珉の言葉がかすかによぎる。

 そのとき菊の目に何かが飛び込んで来た。

 壁に掛けられた一枚の掛け軸——

 

 「明鏡止水」

 静かに落ち着いて澄みきった心の状態、大橋宗英の揮毫。

 対局前の宗珉の教えだった。


(そうか。落ち着くのよ。ゆっくりと考えを巡らせば――)


 菊が目を閉じて深呼吸を重ねていく。

 

 水面みなもに一滴の雫が落ちた。

 波紋が十重二十重と広がり、円を描く。


 周りを取り囲む妖刀の幻影が晴れていく――

 

 不思議なことに菊の目にも、金五郎の勝負手が悪手としてはっきり見えてきた。

 冷静を取り戻した菊が、妖刀を見切り始めた。


 (よし! 行ける!)

 

 バチダァン!


「……なん……だと」

「伊藤金五郎! 父の仇、お覚悟めされよ!」

「くそぉ、そんな馬鹿な」


 その後は菊の猛襲がさく裂した。父親譲りの勝気で一本気な攻め将棋だった。

 それでも瀕死の金五郎は、最後まで抗おうする。

 菊に詰めろをかけられても、巧みに玉をするりと逃がし、相手陣までなりふり構わずに突貫し、入玉しようとした。

 菊が仕留め損なうのを虎視眈々と待ち続け、起死回生の逆転を狙っているのだ。

 手負いの虎が暴れ――掛けられた縄を食い破った。

 

「はは! 逃げ切った! 俺の勝ちだ!」


 そのとき、菊の指がすーっと駒台の載っていた香車を挟む。

 イカサマに使われたあの香車だ――


「な! きょ、香車だと……そんな馬鹿な」


 金や銀でなく、香車がなければ絶対に詰まない筋が今、盤上に生まれていた。


「とどめよ――」


 バチィィィン!

  

一瞬、何が起きたか分からないように、あたりが静寂に包まれる。

盤面をじーっとにらみ続けていた金五郎がやっと口を開き、

「お、俺の…負けだ。ありません」

「……ありがとうございました」


(おとっつぁん、やったよ。あたし仇を討ったよ)


 金五郎ががくっとその場でうな垂れている。

 その姿はまるで自慢の妖刀をへし折られて膝をつく剣士のようだった。

 暫く放心状態だった金五郎が、突然恨み言を言うように口を開き始めた。


「あのとき、お、俺はわざとじゃなかったんだ」


 その言葉を聞いた途端、今まで呆然としていた菊の態度が豹変した。


「ふざけるんじゃないよ! おとっつぁんはねぇ……あれからどんだけ苦しんだと……」

 

 菊が飛び掛かって金五郎の胸倉をつかむ。

 金五郎が後ろにのけぞり倒れそうになった。

 

「き、聞いてくれ! 俺はイカサマを鼻からしようとしてたんじゃねぇ。お前の親父さんの角打ちに痺れちまった俺はくらっときちまって……。よろめいた拍子に着物の袖が香車に偶然当たっちまったんだ。」


 金五郎ががっくりと肩を落としながら弁解を重ねる。


「だが、それを拾った瞬間……魔が差しちまった……すまねぇ、このとおりだ!」

「なんで、そんなことを……」

「俺の親父はな……何をやっても俺のことを認めてくれねぇ。あの時の俺は……自暴自棄になっていたんだ。何でもいいからとにかく勝ちたかった。勝って自分を慰めたかったんだよぉ!」

 

 金五郎の「勝負手」頼み将棋は、形の善さを大事にした将棋家の将棋とは相容れないものだった。

 金五郎にとって何よりも不幸だったのは、褒める者が周りにいなかったことだろう。

 父や兄達に押さえつけられ卑屈に生きるしかなかった金五郎は、健全な心を育てることができなかった。

 心の弱い金五郎は、イカサマと言う形で自分にすら負けてしまったのだ。


「だったら……どうしてその後一言でも詫びに来なかったのよ!」

「お前の父が具合が悪くなったことを、俺は人づてから聞いた。とにかく謝りに行こうとしたんだ! 俺は!」


 金五郎が魂の抜けたような顔で白状を続ける。


「けどな、親父がそれを許しちゃあくれなかった……。将棋家の威信にかかわるから、証拠などないのだからもう放っておけと……。それを聞いた俺は……それ以来人間が駄目になっちまった……」


 宗珉は思った。この男もまた将棋家に取り憑かれた男だったのだ。

 自分の運命に飲み込まれてしまった憐れな男。

 なんと将棋とは業の深いものなのだろうか……。


「もういい」

「……え?」

「もういいよ。あんたのこと恨んでたけど、もう仇討ちは——お終いよ」

「俺を……許してくれるのか……ううぅ。すまねぇ、申し訳ねぇ……」

「許しはしないわ。ただ、もういいのよ」

「……」

「ねぇ、宗珉様。この人の、金五郎さんの宥恕を伊藤家に申し出てあげて」

「本当にいいのか?」

「ええ。将棋に勝ってきっと父もあの世で喜んでくれているわ……」


 そのとき——金五郎が口をはさんだ。


「ありがとうな、菊さんよ……。だが、俺はもういいんだ。あんたにガツンとやられてようやく目が覚めちまったよ」

「……どういうこと?」

「俺はな、ずーっと勘違いをしていたんだ」

「……」

「『将棋家が俺を守ってくれる』って勘違いをな。兄たちのように行儀よく振る舞えないくせに、俺は親父にも将棋家にも結局甘えていたんだな。俺は……あんたと真剣勝負をして、ほんとうに良かったと思ってる」


 今まで黙って聞いていた宗珉が、

「金五郎殿、伊藤家を出てそのあと一体どうされるおつもりなのか?」と聞いた。

「そうだな。一介の在野の棋士として、やれるところまでやってやるさ」


 そう言って、金五郎は自分の懐からぼろぼろになった浅黄色の駒袋をおもむろに取り出した。

 金五郎がその駒袋の中を開くとそこには——


 なにも駒が入っていなかった。


「俺はな、親父に駒を貰えなかったんだ……。それでもいつかくれるもんだとずっと待ってたんだ……。それじゃあいけねぇってことが今、腑に落ちたよ」


 金五郎が真っ直ぐに二人を見据えた。


「俺は——自分の駒を探しに行くことにする」

 そう言った彼の顔は晴れやかで、長年の迷いが消えているかのようだった。


『伊藤金五郎』

 六代目伊藤宗看の三男。伊藤家を勘当された後、消息が不明となる。

 伊藤家の記録では、天保十四年三月二十二日に死亡とされているのみでその詳細は残されていない。

 だが、現在の国立国会図書館には、彼が運営に関与したと思われる当時の在野棋士達の大会記録が数点残されている――

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