第四十話  仇討ち(前編)

 大橋宗珉は金五郎の行方を追うため、門人達を使って市中を探させていた。

 金五郎が遠国まで足を延ばすことはできないと踏んでいたからだ。

 なぜなら彼は勘当寸前の状態でそのまま伊藤家を追い出されている。

 路銀も相当に心もとないはず。

 それに関所を超える通行手形がなければ、江戸を出ることはほぼ不可能。

 おそらく金五郎は市中に潜伏して、伊藤家への復帰の機会をうかがっているのだろう。

 そう、宗珉は推理したのだ。


 宗珉は捜索状況を菊に報告するため、三日経つごとの夕刻に彼女の菩提寺を訪れることに決めていた。

 菊の方が分家の屋敷に訪ねてくるとなれば、それはそれでややこしいからだ。

 なにせ神経質な父のことだ。

 きっと菊の姿を目にした途端、「この泥棒猫が!」と追い払うにきまっている。

 それで宗珉は、寺の御堂の縁側で秘かに彼女と落ち合うことにした。


 息を切らせながら山門を駆け上がる。

 すると、先に来ていた菊が縁側の石段の上に座って待っていた。


 「あ、来た。遅い」

 「すまん、すまん。父上のお小言がなごうてな。まったく叶わんよ」

 「ふーん。それで金五郎は見つかった?」

 「すまん。手掛かりはまだ掴めておらぬ。もう暫く待ってくれないか」


 すまなそうに謝る宗珉に、菊が口をすぼませながら不満げな表情を見せる。

 

 「市中の盛り場を当たれば、いつか尻尾を捕まえられるはず。暫し辛抱せよ」

 「いやよ。こうなったら私も自分で探すわ」

 「ま、まぁ待て。女が盛り場などに行けば余計に要らぬ世話がかかる」

 「大丈夫。自分でなんとかする」

 「ええい、俺はお前のことが心配なのだ! 頼むから言うことを聞いてくれ」

 と、宗珉が困り顔で説明する。

 菊は「もう、わかったわよ……」と渋々顔で納得した。


 その後も日が暮れるまでの間、縁側に座りながら二人で他愛のない話をした。


 「やっぱり、宗珉様って子どものころからずっと将棋ばかりしていたの?」

 「ああ、そうだ。物心ついたときには将棋の駒を触っていたな」

 「うえー。じゃあ外で子供っぽい遊びとかしなかったわけ?」

 「いや、まったく」

 「芝居小屋を観にいったり、神社のお祭りに出かけたりとかは?」

 「……特に記憶にはないな」

 「ええぇ……。なんだか可哀そうね……」


 菊に憐れむように見られて、宗珉は意外そうな顔をする。


 「む、そうなのか? 当家ではそれが普通だと思うのだが」

 「あのね。将棋家では普通のことでも、世間では普通とは限らないでしょう? 将棋ばっかりしていると、そのうち将棋馬鹿になってしまうわよ」

 「ふむ、そうなのか……。あっ! 俺にも遊んでもらったことがあったぞ。今お思い出した」

 「え!? なになに?」

 「その昔、父上に川辺で凧を上げてもらったたことがあったのだ」

 「凧? 凧ってあの空に飛ばすやつ?」

 「ああ、そうだ。俺がほんの小さいころにな。あれは楽しかった。凧がとんでもないくらいの高さまで飛び上がったのだ。まぁ、それもたった一度だけだったが……」

 「え? どうして一度だけなのよ?」

 「定例会で俺が早詰めを解けずにいたことが父上のお耳に触れてしまってな。将棋に対する精進が一向に足らぬと、凧をその場で破り捨てられてしまったのだ」

 「…………」 

 

 夕陽がとっぷりと暮れてしまった。

 鬱蒼とする草木に囲まれた境内も、徐々に暗くなってくる。


 「私……、もうそろそろいかないと」

 「ああ、そうだな。ではまた三日後にな」

 「うん、じゃあね」


 去り際に、菊は宗珉の手を強く握りしめる。

 そして、「きっとあいつを見つけてね。きっとよ」と何度も言った


 思い詰めている彼女の表情を見つめながら、宗珉も黙ってうなずいた。


――弐――

 菊は、金五郎の行方が見つかるまでの間、将棋家定例会に毎回出席した。

 その度に破竹の勢いで連勝を重ねることになる。

 来るべき敵討ちに備えてなのか、日に日にその対局姿にも真剣味が増していく。


 ――親を殺めた男を娘が殺す、将棋とは言え仇討ちとは残酷なものだな……。


 この時代、親の仇討ちを子が行うことは法で許されていた。

 だが、実際に成功する事例は遥かに少ない。

 ほとんどは、相手を見つけられずに諦めてしまうか、道中で山賊と出くわしかどわかされるか、幸運にも仇を見つけたとしもそのまま返り討ちにあった。

 文字通り、仇討ちとは命懸けだったのだ。


 天保五年十一月——江戸。


 大橋分家で執り行われた将棋家定例会には、宗珉が師範代として座っていた。

 この日、宗珉は激しく懊悩していた。

 なぜなら菊が定例会で一言も自分と口を交わしてくれないからだ。


 ――むぅ、おかしい。なぜ菊は俺のことを無視するのだ。寺で二人でいるときはよく話すにもかかわらず……。


 宗珉は、最近まで定例会で菊を見かけるたびに、「調子はどうだ」とか「今度指導対局でもしようか」などと声を掛けることにしていた。

 もちろん菊のことが心配だったからだ。

 しかし、今日宗珉が声を掛けても菊の方は鬱陶しそうに一礼し、無視されてしまったのだ。


 ――わからぬ。女と言うものはかくも複雑な生き物なのか。


 これなら将棋の定跡のほうがよっぽど簡単だと宗珉はため息をつく。


 ――あぁ、そうか。菊はただ自分のことを利用しているだけなのだ。


 彼女に無視されたとなれば、その意図がわからぬほど宗珉は愚か男ではなかった。


 ――なるほど、将棋家に影響を与えうる中で最も御しやすい存在、それが俺だったということか……。


 菊は宗珉を「駒」として選んだのだ。仇討ちを成功させるための駒として。

 宗珉はそういう風に考えるように決めた。

 そのほうが全てが終わったときに、辛い思いをしなくて済みそうな気がしたからだ。

 だが、それでもなんとかして菊の力になってやりたかった。

 鬱屈していた自分がこうして何かに真剣に取り組んでいられるのも、思えば菊のおかげだったからだ。

 だから最近は門弟にだけ任せずに、自分で人づてに歩いて金五郎を探すようにすらしていた。

 

 各家の門下生たちが真剣勝負を行うさなか、宗珉が上座から遠目に菊を探す。

 菊がいた——。

 彼女は一人将棋盤の前に着座して、棋譜並べをしている。

 その姿はまるで仇討ちに備えて刃を研ぎ続ける武家の娘そのものだった。

 

 ――将棋とはいえ仇討ちは仇討ち。思えば将棋家に仇をなした天野宗歩を、俺が打ち倒すことも見ようによっては仇討ちみたいなものかもしれん。


 そんなことを考えていると、

「ねぇ、ねぇ。宗珉様」


 日本晴れのように爽やかな顔をした上野房次郎が、彼のもとへと近づいてきた。

 対局中は真剣な顔つきのこの少年も、盤の前を離れればまだ十を超えたばかりの童子。

 房次郎は、年齢が比較的近く物静かな宗珉を普段から兄のように慕っていた。

 そのせいか、こうして何かにつけては腰巾着のようにまとわりついてくる。


「なんだ、房次郎。今日の対局はもう済んだのか?」

「うん、三連勝! きしし」


 にっかり笑って、宗珉に向けて三本指を立てる。


「お前の良くないところはそうやって自惚れることだぞ。油断大敵、この前も菊殿に一発してやられたではないか」

「うえー。その話はなしだよぉ」


 房次郎が拗ねた調子で言って、子犬のように板の間にひっくり返ってバタつく。

 物心ついた時から将棋家で育ったせいで鬱屈な性格になってしまったと自分では考えている宗珉からすれば、感情を素直に出せる房次郎が羨ましい。

 何よりも宗珉は、天真爛漫な房次郎に好感が持っていた。


 ——こいつには、自分にはないものがある。


 そんな房次郎も定例会で菊に痛い負け方をしたことでさらに強くなっていた。

 伊藤家への養子が内定したこともあってか、負けを重ねることで着実に成長する房次郎の姿には、すでに大器の片鱗すら見え隠れしていたのだ。

 宗珉から見て、房次郎の将棋にはこだわりといったものが見つからなかった。

 ただ、これまでの歴代名人達が築き上げてきた将棋の定跡というものを誰よりも重んじていた。

 将棋の定跡は暗記をしても全く意味がない。局面が少しでも異なれば暗記では役たたずとなる。だが、その定跡の理念や本質を理解してさえいれば、どんな局面にであってもそれを応用することができる。

 彼はこの定跡の理念を理解する能力が特に優れていた。


 将棋の定跡とはまさに王道である――。


 その定跡を理解する能力が優れているということは――。


 房次郎は棋理に従って、まるで王道を歩むかのように、格調高い本筋の手を指しつづけるのだ。

 その棋風は、宗珉のような「泥臭い受け将棋」とも天野宗歩のような「天才的な閃き」とも一風異なったもの。

 序盤、中盤、終盤隙がなく、あらゆる戦型を苦もなく操るその様は、すべての面において弱点らしい弱点がない。

 まさに王者と呼ぶにふさわしい棋風だった。

 将棋の世界に数百年に一度現れ、次世代を担うと伝えられる。


 ——棋才「王棋」。


 ひょっとするとこの少年は、あの鬼宗英にも続く、王たる器なのかもしれない。

 そんなことをつらつら考えていると、房次郎がにやりとして、

「そういえば菊さんてさぁ。なんだかいっつも宗珉様のこと、見てるんだよねぇ」

 といきなり言いだした。


「ぬ、そうか? それはお前の気のせいだろう(こ、こいつ! さては仇討ちのことを何か勘づいたのか?)」


「そんなことないよ。きっと菊さんって……宗珉さまのことを……もがもが!」


 宗珉は、慌てて房次郎の口を両手で塞ぐ。

 口を塞がれた房次郎は、手足をばたつかせて抵抗する。

 この二人を見ていた近くの門人が怪訝そうな顔をするが、宗珉としてはそれどころではない。


「ふ、房次郎! おまえ……今何を言おうとしてたんだ?(さ、さては菊がこやつに何か喋ったのか!? はっ! 屋敷で俺と接吻したことを、ま、まさか!?)」


「もがもがもがもがもが!(菊さんの様子が最近変なんだよ!)」

「……なに? どういうことだ」


 宗珉が房次郎の口元から両手をぱっと離す。


「ぷはぁ。まったくもう、宗珉様は乱暴者だ! ぷんぷん!」

「おまえ、今『様子が変』と言ったな?」

「そうそう。対局中はすっごい怖い顔しているのに、そうじゃないときはずっと宗珉様の方をぼーっと見つめているんだよ。宗珉様……菊さんになんかした?」


 房次郎の純粋な眼が、宗珉を見上げてくる。


――ぬぅ、さすがは神童。勘が鋭い。


 菊の微妙な変化だけでそこまで感じ取る彼に、宗珉はいたく感心する。


「お前がまたしょうもないことで怒らせたのだろう?」と、すっとぼける宗珉。

「違うわい! 宗珉様こそなんか恨まれるようなことしたんじゃないの? たとえば、そうだなぁ。あっ! 菊さんに手を出そうとしてさぁ——」 


 そこまで言った瞬間。房次郎の顔から笑みが消え去った。


 宗珉の背中越しに菊が仁王立ちしていたからだ。

 その顔をまさに鬼の形相と呼ぶにふさわしく、目が据わって全身からすさまじい殺気すら放っていた。


「ひぃぃぃぃぃぃぃ!」


 ボカッ!


「いてぇぇ!」


 菊は房次郎の頭に容赦ない拳骨を食らわした。

 その瞬間、房次郎の目から大きな火花が出び散る。

 宗珉には、百年に一度の頭脳をいとも簡単に打ち据える彼女が眩しく見えた。


「房次郎、あんた……。宗珉様に変なこと言いふらしたんじゃないでしょうね!?」

「ひぃっ! ご、ごめんなさい! 失礼しましたぁー!」


 頭を手で押さえながら菊に恐れをなして、房次郎が走り去ってしまった。


「まったくもう! とんだ悪ガキだわ、あいつ」


 そのとき、宗珉は目を見張った。

 なぜなら、菊の頬が紅く染まっていたからだ——。

 

 ――なるほど、この娘も……こうやって恥ずかしがるのだな……。


 その瞬間、宗珉の脳裏に閃きが訪れる。

 この男は決して鈍感ではない。

 ただ物事を理解するのに人よりも多少時間を要するだけのだ。


 ――そ、そうか。そういうことだったのか。菊は……皆の前で俺に声を掛けられるのが気恥ずかしかったのだな。決して、俺を利用していたわけじゃあなかった。


 そう思った瞬間——。


 宗珉の顔から笑みがこぼれた。

 まるでこの世の終わりのように毎日鬱屈した表情を見せるこの青年に、春が訪れた瞬間であった。


 「くっくっく」

 「……ちょっと、何よ!? 一体なにがおかしいのよ!?」

 「あっはっはっは」

 「……もう、宗珉様なんて知らない!」


 そう言って、菊はどかどか大きな足音を立てて、稽古場を出て行ってしまった。



 数日後——。

 とうとう伊藤金五郎の行方が判明する。

 盛り場に顔を出していた分家の門弟が、金五郎の姿を発見したのだ。

 そのまま後を追って潜伏場所を押さえることに成功したそうだ。

 宗珉の推理通りで居場所はやはり江戸市中、それも日本橋の長屋町とのこと。


 ――やつめ、意外と近くにいたな。


 宗珉は、早速金五郎のもとへ手紙を届けることにした。

 その文には、自分が伊藤宗看との仲裁を買って出てやる——とだけ記して。


 翌日になって菊にその旨を伝える。

 すると、彼女の美しい顔が一気にこわばった。

 

「いよいよなのね……。おとっつあん。あたし絶対に仇を討って見せるからね」 

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