第三十九話 宿命
「父の仇を討つ、それがあたしが将棋家に入門した理由よ—―」
パチン
そう囁いて、池田菊は盤上の駒を進めた。
夕暮れの中に大橋宗珉と菊が、大橋分家の客間で将棋盤を挟んで座っていた。
屋敷には二人以外誰もおらず、局面はそろそろ終盤へと差し掛かるころ。
この対局の前、宗珉が天野宗歩に恐れを感じ身体を震わせていると、菊が突然口づけを交わしてきた。
一瞬、何が起こったのか分からなかった宗珉の頭はひどく混乱した。
(大丈夫、あなたはきっと負けないわ)
混乱して何かを言おうとする宗珉に、菊はそう囁きながら優しく抱擁してきた。
菊の柔らかく温かい素肌に触れて、あれほど恐怖に支配されていた宗珉の気持ちが不思議と落ち着いてくる。
菊を求めて宗珉が再び口を重ね合わせた瞬間、彼女もまた悲しい何かを抱えていることを感じ取った。
だから宗珉は菊を強く抱きしめた。
(ああっ)
耳元で吐息のような声を吐き出す菊を、宗珉はさらに激しく抱きしめて気づいた。
菊の身体が驚くほど華奢で壊れてしまいそうなほどにか細かったこと。
そして——菊もまた宗珉の腕の中で震えていることを。
(そうか、この娘もまた何かに恐れているのだ……)
だからこうやって迫りくる恐怖から逃げるように、二人は互いの身体を重ね合わせて愛撫し、抱擁し合うことにした。
どれほどの時間、二人でそうしていたのだろうか――
ようやく気持ちが落ち着いてきて、二人は静かに身体を離す。
そしてそのまま何も言わずに対局を始めようとした。
今度は盤上で互いの心を重ねようとでもするかのように。
抱擁で乱れた髪と着物を整えた菊が、凛とした表情で盤上に集中している。
心なしか菊の頬や肌はまだ火照っているようだ。
宗珉は、そんな艶っぽい菊の対局姿にこれ以上見惚れてしまわぬよう、何か別のことを考えようとして、首を横にぶんぶんと振りまわす。
(伊藤金五郎……。たしかあれは四年前の定例会だったな)
宗珉が突然口を開いて、
「俺は……、伊藤金五郎が天野宗歩に大敗したときのことを、よく覚えている」
「あら。あなたもそこにいたの?」
「ああ。将棋家の、それも名人の血を引く者が『麒麟児』に敗れるその姿を見て――」
俺は戦慄したよ、と自重気味に呟いた。
そうしている間も、宗珉は盤上から視線を一向に逸らさない。
「情けないのね」
突然菊が見下すかのような目をして宗珉をむげな言葉でなじった。
さっきまで天野宗歩の影に怯える宗珉を、母のように抱擁していたというのに。
それでも宗珉は自分をこうしてなじり、さげすむ菊のことを、ますます愛おしく思えてくるのだ。
(きっとこの娘の中には「勝負師」と「女」の本能がせめぎ合っているのだ)
宗珉のいくじなさに腹を立てる「勝負師」の菊も、いつまでも卑屈な宗珉に愛想をつかす「女」の菊も、どちらも菊に違いはない——
「たしかにな。情けないと言われればそれまでだ」
「そうよ。江戸で一番と噂されるあなただから、私はこうして頼ってきたのよ」
「一番……かどうかは知らんが、要するにお前は俺に金五郎との接点を持たせようとしているのか?」
「そうよ。私はあいつの居場所も分からないし。そもそも会ってもらえないかもしれない——」
でもあなたなら、あいつはきっと会いに来るわ。
菊の大きくつぶらな瞳が宗珉を見据えた。
ドクン——
さきほどまでの熱がまだ残っているのだろうか、菊の潤んだその瞳が、宗珉の胸の鼓動を再び高ぶらせた。
「会って何をする? まさか出会った瞬間、小刀でぶすりといかないだろうな?」
「はん! 武家の娘じゃあるまいし。将棋に決まってるでしょう」
「そうか……」
「私は金五郎と会って真剣勝負がしたいの。父が果たせなかった真剣勝負の続きをね。そうすれば……父も浮かばれるんじゃないかと思ってさ」
宿命――か。
将棋指しの業は悲しくそして深い。
将棋に父を奪われた娘が、将棋で仇を討とうとしている。
そもそも菊は金五郎との勝負に勝ってどうするつもりなのだろう?
仮に勝てたとしてもその後は?
将棋を捨て町娘にでも戻るのだろうか?
いずれにせよ、入門と同時に菊は運命に立ち向かうことを覚悟したのだろう。
そんな風に何かと真正面から戦える菊のことを、宗珉はひどく羨ましくなった。
「どうして俺なら会いにくると言える?」
「今あいつは親から勘当されて相当困っているわ。解決するにはなにかきっかけとか糸口が必要なはずよ。それも伊藤家の中からじゃなくて外からの横やりがね」
そう言いながら、菊は自分の脇腹に人差し指をぷすりと指し込ませた。
細く白い指先が、柔らかい脂肪にずぶりと沈み込み、みずみずしい弾力に抵抗されて弾かれた。
「横やりだと?」
「三家の当主以外に横やりを挟めることができるのは……江戸で一番と噂されるあなただけよ。あなたが伊藤名人に金五郎の
(そんなうまい話、まずありえないだろう)
御城将棋の経験もないひよっこの
それに上野房次郎という神童を養子に迎える今、金五郎を許す必要性もない。
菊は宗珉の考えをまるで見通したかのように、
「いいのよ、それでも。その話に金五郎が乗りさえすればいいの」
「あいつがのこのことやって来たところを仇討か。なるほどな」
「こんなことあなたにしか頼めないの。ねぇ、お願いよ、協力して」
菊はそう言って、宗民に擦り寄って膝に手を置いた。
「そもそもが将棋家の身から出た錆か。よし……考えておく。」
(身から出た錆か、俺もよく言う。)
どちらかと言えば、宗珉は菊のことを素直に応援したくなったのだ。
こうして宿命に立ち向かう者を前にして、宗珉の心にも何かが共鳴し始めていた。
「それにしても……あなた、ちょっと指すのが遅すぎない? さっきから全然局面が進んでないわよ」
「ああ、すまんな。俺は『長考派』なんだよ」
「……なにそれ?」
「文字通りの意味さ。人よりも広く深く読まないと気が済まない性質なんだ。だから一手に相当な時間をかける」
「手が見えないの?」
「手が見える見えないとかじゃなく、可能性のある手を着実にすべて読み切ってから指すんだよ」
「すべてって……そんなの無理に決まってるじゃない。一体いくつあると思ってるのよ」
「もちろん言葉の綾だ。だが気持ちは『すべて』かもしれん。どうも直観に従って指すのが苦手らしくてな。だから早指し戦や詰め物の早解きは……正直苦手だな」
そのとき、宗珉の頭の中に子供の頃の記憶が一瞬よみがえった。
——将棋家定例会の風景。いつもの詰め物の早解き競走。
——子供たちの競争心をあおるだけのこの取り組みに、いつも俺は取り残されていた。
——ああ、覚えている。俺を憐れんだ目で見下げてきたあの者達……。
とうとう日が暮れてしまったので対局を差し掛けにすることにして、宗珉は菩提寺まで菊を送っていくことにした。
怖いから一緒に来て欲しいとせがむ菊が、さきほどまでの気丈で強気な彼女と違っていてとてもかわいらしく思えた。
薄暗い夜道の途中、宗珉は菊を喜ばせようと、「金五郎の居場所を調べてやる」と約束をした。
「ありがとう。やっぱりあなた、私が見込んだとおりの男だわ」
「どういうことだ?」
「文字通りの意味よ。うふふ」
こっち向いて手を振りながら山門へと消えていく菊を黙って見送りながら、宗珉は自分が知り合ったばかりのあの娘にすっかり協力する気持ちでいることに気づいた。
今朝まで将棋家に対して鬱屈した感情を膨らませ続けていた自分が、菊と出会うことで何かに吹っ切れたような感じがしたからだ。
断じて言う。菊の色仕掛けに嵌ったわけではない。たぶん。
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