第三十八話 伝説の詰将棋

 将棋家の後継者候補は元服や昇段時に幼名を捨てて改名した。

 将棋家の身分は御用町人だったが、慣習は武家のそれにならう部分が多かったからだ。


 だが、伊藤金五郎は死ぬまで幼名のままだった。


 金五郎には二人の兄がいた。

 長男の名を看理、次男の名を看佐と言う。

 初代伊藤宗看から伊藤家に代々受け継がれてきた「看」の字。

 この字を贈られた二人こそ、伊藤家継承者たるに相応しいことを意味していた。

 二人とも良く言えば利発、悪く言えば要領の良いだけの嫡子だった。

 気難しい父の伊藤宗看の意をくみ取りつつ、終始そのご機嫌を伺い続けた。


 一方で、三男の金五郎は元服を迎えても「看」の字を贈られなかった。

 気の利いた世辞のひとつも言えない不器用な金五郎の性格が、宗看には粗野で無骨に写ったのかもしれない。

 兄のように旨く立ち回れない金五郎にしてもその焦りが一層空回りさせていた。

 それでもなお棋才に恵まれれば話は別だが、棋力もまた凡庸に過ぎなかった。

 そんな不器用な三男を、宗看は後継者候補として早々に見切っていたらしい。

 要するに才能や能力以前に人格すら認めていなかったのだろう。

 どこか寺にでもやってしまおうかと考えたが、そんな金五郎を一番可愛がった妻に泣いてすがられて反対された。


 そんな正月のある日ことである。

 

「お前たちに駒をくれてやろう」


 屋敷で開かれた正月の宴に伊藤家の親類縁者が一同に集まっていた。

 宴もたけなわのさなか、父宗看が息子たちを手招きしてそう告げたのだ。

 自分の駒を持つことは将棋家の棋士にとって一人前を意味する。

 ましてや当主からの拝領となれば正当な後継者に選ばれたと考えて良い。


 見事な錦絵が描かれた駒箱がぱかっと開かれると、将棋駒が垣間見えた。

 最高級の本黄楊を用いた掘り埋め駒だ。

 駒の表面にはめったに見かけない「虎斑とらふ」の模様が現れている。

「虎斑」とは虎の横縞のように黄褐色の地に黒い縞のある模様をいい、高価で希少な駒であること意味していた。

 将軍御前の御城将棋で実際に使用される将棋駒と同じ最高級ものだ。


「さぁ、お前たちわしの前へ来なさい」


 父宗看の言葉を聞き、看理と看佐がうやうやしく前へと進み出る。

 慌てて金五郎もその横に並ぶように座した。

 だが近づいて父の側をよく見たら、その脇には駒箱が二つしかないことに気がついた。

 兄弟三人をわざわざ呼び出しておきながら駒箱が二つとは一体どういうことか、金五郎は首を傾げて不思議に思う。


「看理よ。これを受け取りなさい」

「父上、ありがとうございます!」


 長男の看理が頭を畳すれすれまで下げながら両手を差し出して駒箱を受け取る。


「看佐もこれを」

「ははっ! ありがたき幸せにござります!」


 次男の看佐も兄にならい父に敬服を示す。


「さて、お前たちには来年から御城将棋に登城させるつもりだ」


 兄二人がこの言葉を聞き、互いに顔を見合わせ頬を緩ませる。

 周りの親類縁者もおおっと歓声が上がった。


「三代目宗看様と弟の看寿様のように、これからも兄弟二人で家を盛り立てよ」

『かしこまりました!』


 このとき金五郎はなぜ自分がここに呼びつけられたのか、ようやく理解した。

「お前たち」の中には、最初から自分は含まれていなかったのに。

 父は兄二人に対して、結果を残さなければ金五郎のように疎外され無視されることを教えようとしたのだろう。

 「捨て扶持を食わされる一生を送りたくなければ精進せよ」ということか。

 世襲の時代にあってもなお、ゆめゆめ油断なきようにと父なりに息子たちに薫陶を与えたということかもしれない。


 (なんにせよ俺は親父の視界に最初から入っていなかったんだ——)


 部屋に戻って金五郎は激しく泣いた。

 父にも認められず兄や親類縁者たちからも蔑まれ、憐れみを受けながら生きていかねばならない自分の運命をただただ嘆くしなかなった。


 ――弐――

 数年後の文政七年(1824年)――

 昨年第十世名人に襲位した伊藤宗看のもとに一枚の知らせが届いた。


「な、なんだと看理が病にかかっただと……」


 すでに六段まで昇段し、御城将棋の常連ともなった伊藤家の跡取り伊藤看理が病に倒れたという知らせだった。

 在野棋士との交流のため奥州へと旅立ったその先での発病だった。

 次の知らせが届いたときには、既に看理が旅先で息を引き取ったという内容に変わっていた。


「おお、なんということだ。うおおお」


 手塩にかけて育てた息子に先立たれた宗看は狂ったように悲しんだ。

 悲劇はさらに続き、三年後の文政十年(1827年)二月には次男の看佐も没した。

 父の前では真面目な息子を演じていた看佐だったが、その実は遊里に通いつめ遊び歩く放蕩息子だったのだ。

 挙句の果てには伊藤家の財産を勝手に持ち出し賭け将棋に手を染めて、多額の借金を抱えたまま首を吊った。


 二人の後継者を立て続けに失った宗看は、異名「荒指し」の源となった剛毅さをみるみると失い、とうとうやつれた老人になり果ててしまった。

 金五郎の方は、次兄の看佐が自分の名を騙って賭け将棋をしたせいでその評判はますます貶められ、もはや勘当寸前にまでなっていた。

 自分がやったのではないと何度弁明しても最初父は全く耳を貸さなかった。

 看佐の死後に騙りであったことが発覚した後でさえ、御城将棋に出仕する御曹司が賭け将棋に関与したとあらば家名を汚すとそのまま金五郎のせいにした。

 

 にもかかわず金五郎は、兄の死に打ちひしがれる父を心配してなんとか元気づけようとした。

 父への悔しさもあったがその実は心の中が寂しさで埋め尽くされていたのだ。

 兄二人がこの世から去り、ようやく自分にもお鉢が回ってきたと考えていたのかもしれない。

 金五郎はどうにかして父に認められたかったのだ——


 この頃から、金五郎は屋敷の蔵から伊藤家秘伝の詰め物集「将棋無双」を持ち出してきて、自室で解き始める。

 「将棋無双」は、三代目伊藤宗看が作った珠玉の芸術品だった。

 その中でも後世特に最高傑作と誉れ高いのが第百番「大迷路」。

 百六十三手詰めのこの詰め物を解けた者はこの時点ではまだいなかった。

 そもそもこの作品には解答が記されていなかったため、「詰むや詰まざるや」と不完全作の疑いをかけられたまま一切の謎に包まれていた。

 徳川将軍家に献上された原本を除けば写本が一冊だけ存在したが、この写本も将棋家以外には非公開とされ、百年以上解き明かす者は現れなかった。

 まさに伊藤家の蔵に眠りつづける「伝説」と呼ぶにふさわしい詰め物である。

 

 金五郎はこの「大迷路」の完全解明に取り組んだのだ。

 来る日も来る日もたった一題の詰将棋に必死に取り組み、自分の棋才を全てそこに注ぎ込んだ。

 自分の息子があの伝説の詰め物「大迷路」を解いた——

 こんな評判が江戸に広まれば、父はまた元気になってくれるだろう。

 そうして今度こそ自分を認めてくれるに違いないと金五郎はかたくなに信じていた。


 一年たち二年がたった。


 開けても暮れても「大迷路」を解き続け、雪が降り積もった冬のある日のこと。

 天啓とも言える一筋の光に導かれて、とうとう金五郎は「大迷路」を完全解明した。

 変化手順も合わせれば優に数千手を読み切ったことになるだろう。


「と、とうとう解けたぞ……。うおおおお」


 金五郎は泣いた。部屋でたったひとりで男泣きした。

 今まで生きてきて、これほどまでに何かに打ち込んだことがなかったから。

 偉大な先祖、三代目伊藤宗看の詰将棋が不完全作でなかったから。

 なによりも、これでやっと父を喜ばせることができるから。


 ――参――

「それがどうしたのだ?」

「………え?」


 さっそく父に報告した金五郎は一瞬何を言われたのか良く分からなかった。

 宗看が露骨に鬱陶しそうな顔をして金五郎を睨んでいる。

 父に睨まれるとますます恐縮して、金五郎の顔は余計に卑屈になってしまう。

 その顔が宗看を一層不快にさせるのだ。


「『詰め物なぞ君仲にもできる』、お前はそんな言葉も知らんのか?」


 かつて歴代名人は徳川将軍家に百番の詰め物集を献上した。

 世に言う「献上図式」である。

 ところが先代の第九世名人大橋宗英は、この献上図式の習慣を突然取りやめた。

「詰将棋なんぞ、在野の桑原君仲でも作れる戯言よ」と言い捨てて……。

 実戦を重んじた宗英は、芸術性を際立たせるだけの詰め物を特に嫌ったらしい。

 定跡や棋理研究に心血を注ぐ宗英にとって、何より時間が惜しかったのだろう。

 献上図式が廃止されてから、実戦に無用な長手数の詰め物は役立たずの時代遅れとみなされ、勝負に貢献する定跡や戦法の開発へと世の関心は移っていたのだ。


「で、でもよ親父……。『大迷路』は……伝説の……」

「だから今さらそんなものを自慢して、一体だれが褒めると言っておるのだ!」

「……も、申し訳ございません」


 金五郎は父の逆鱗に触れてしまったと激しく後悔した。

 伊藤家が定着させた献上図式を好敵手大橋宗英に一方的に廃止されて、一番悔しい思いをしたのは父の宗看だったはず。

 だが時代が実戦重視へと移った今、復古調の詰将棋の話題を持ち出せば「荒指し宗看殿の先祖返り」とあざけりを受けることは見えていた。

 「荒指しは勝負から逃げたのだ」と——

 

 「もうよいわ。下がれ」

 「……はい」

 「待て。金五郎」

 「な、何だよ?」

 「今度の定例会。お前の手合いが決まったぞ。本家の麒麟児だ」

 「麒麟児……天野宗歩か……」


 最近よく話題になる新進気鋭の天才棋士。

 若干十五歳にしてすでに三段、破格の昇段だ。

 いやでも金五郎の心はささくれ立った。


 「そうだな……もしもお前があ奴に勝てば……跡目の件を考えてやってもいい」


 戯れから出たかもしれない父の言葉を聞いて、金五郎の目がかっと開き全身が奮い立った。

 「大迷路」を解いたことで少しだけ宗看の心に何かが届いたのかもしれない。


 「お、親父! それは、ほ、本当なんだな……?」

 食い下がる金五郎に宗看は黙ってうなづき、「下がれ」とだけ告げた。



 数日後の将棋家定例会。

 「手合いを申し渡す。伊藤家伊藤金五郎五段! お相手は本家天野宗歩三段! 金五郎殿の左香車落ち!」


 「はい! よろしくお願いいたします!」

  

 凛とした涼しい顔つきの天野宗歩が、若々しい甲高い声で返事をする。

 一方の金五郎の顔は緊張のせいか相当こわ張っていた。


 「……よろしく……お願いします」


 宗歩と金五郎の対局は続けて二局行われ、いずれもが宗歩の勝ちとなった。

 金五郎に良いところは少しもなく、無様な負け将棋だったのだ。

 分家の大橋宗与に「香車を落とすのは宗歩の方ではないか。ほほほ」と揶揄されてさすがの宗看も何も言えずに真っ赤になったほどである。


 「ふん、やはりお前は役立たずだな」

 「……」

 「まぁいい。こうなっては養子を考えるしかあるまい」

 「……お、俺は一体どうなるんだ! 親父よぉ!」

 「ええいうるさい! お前の顔なぞもう見とうないわ。さっさと出てけ!」


 金五郎は悔しかった。

 身勝手な父に対しても、そんな父の期待に答えられない自分の不甲斐なさに対しても――


 やけになった金五郎はそのまま町に飛び出して、浴びるほどの酒を飲んだ。

 その結果激しく酩酊し、江戸市中をさ迷い歩くことになる。


(ちくしょう、俺は天下の伊藤家の御曹司だ。それがあんな若造に無様に土をつけられて……)


 気づけば八丁堀の飯屋の前にいた。

 ここの主人がよく賭け将棋をしていることは兄から偶然聞いて知っていたのだ。

 店の引き戸は閉まっているようだが、火の明かりがうっすらと漏れている。

 中ではきっと仲間内でつまらない賭け将棋でもしているのだろう。


(俺は強いんだ。そうだ俺には名人の血が流れているんだぞ……)


 父の怒りを買うのが恐ろしくて賭け将棋に手を付けたことがなかった金五郎だったが、今は自暴自棄になっていた。


(賭け将棋の金五郎か。上等じゃねぇか……。くそぉ、やってやらぁ!)

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