第九章 伊藤金五郎

第三十七話 印将棋

 「おとっつあん。今日はもう店閉めてもいいのかい?」


 小袖に前掛け姿の池田菊が父と呼ぶその男にそう尋ねた。

 狭い店内にはすでに客は一人しかおらず、すっかり稼ぎ時は過ぎたと見える。


 「ああ、俺は仙吉さんと一局やってくから、お前はもう奥で休みなさい」


 菊の父、池田喜兵衛は江戸の八丁堀で飯屋を切り盛りする町人だった。

 喜兵衛は齢四十に差し掛かり働き盛りの峠を越えたのか、最近は仕事が終わると心身ともに疲れを感じていた。

 だが飯屋のくせに将棋が三度の飯より好きなこの男は、店を閉めた後にこうして馴染み客といつも賭け将棋をしていた。

 賭け将棋と言っても雀の涙ほどの小銭をかける程度だったが、若かった時分は結構派手な勝負もしていたらしい。

 喜兵衛が「かつては名のある在野棋士も店に訪ねてきたんだよ」と懐かしそうに自慢していたことを菊は覚えていた。


 喜兵衛は子供の頃から将棋の腕がずいぶんと立った。

 結局許してもらえなかったが、将棋家に入門したいと親にせがんだこともある。

 しかたなく家業の飯屋をこうして継ぎ、菊の母と出会い、そして菊が生まれた。

 昨年に母が病で亡くなった後も、父と娘は二人でこうして店を切り盛りして懸命に生きてた。

 長屋の貧乏暮らしではあったが、菊も優しい父と暮らせることが幸せだった。


 喜兵衛は、大橋本家から初段の允許を推薦してもいいと言われたことさえある。

 だが、飯屋の主人にはその免状代が高すぎて、結局支払えずに諦めてしまった。

 悲しそうな父の背中を見て、幼かった菊はいつか自分が稼いだ金で父に免状を贈ってあげたいと秘かに心に決めたのだった。


 そんなある日の晩のことだった。

 喜兵衛がいつものように同じ長屋に住む馴染み客の仙吉と賭け将棋をしていたところ、一人の男が閉めたはずの店の引き戸をこじ開けて中に入ってきた。


「すんません。今日はもう終いなんです」


 申し訳なさそうに入店を断ろうとする喜兵衛に、その男はじろりと睨み返し、

「親父、酒だ。それと俺と印を一局指せ」

 と喜兵衛にすごんできた。

 

 印とは賭け将棋の隠語である——


 男は既にずいぶんと酔っていて足元がふらついている。

 喜兵衛はこの男の顔を知っていた。


 将棋家の伊藤金五郎だ——


 由緒ある将棋家元の人間でありながら、賭け将棋に手を染めているらしい。

 最近は見知らぬ者と指さないようにしていた喜兵衛だったが、この時ばかりは不相応な功名心に火がついてしまった。

 目の前の男は仮にも将棋家の御曹司、この男に勝てばあわよくば自分も在野の将棋指しとして世に出られるかもしれない。

 そんな淡い期待を胸に喜兵衛は、賭け将棋の現場を押さえられたことを自分への言い訳にしながら、金五郎の申し出を渋々顔で了承することを告げた。


 手合はもちろん平手。

 振駒の結果、後手となった菊の父が早々に飛車を3筋に振る。


 石田流三間飛車——


 かつて盲人の棋客、石田検校いしだけんぎょうが発明したとされるこの優秀な戦法を、菊の父は昔から得意としていた。


 後手番でありながら速攻を見せられる石田流に対して、金五郎は何かをぶつぶつと唸りながらゆっくりと指してゆく。

 ぼんやりと指す金五郎のその指し回しが、喜兵衛に狙いを掴まさせず気味が悪い。

 

 (こいつは一体何を狙っていやがるんだ?)


 ▲2七金


 金五郎が右側の金将を前面に繰り出して前線に厚みを築き始めた。

 金将は通常は玉将の守りに配置される。

 その金将が前線に突貫してくるこの「棒金戦法」を、喜兵衛はこれまで見たことがなかった。


 このままでは押さえ込まれ完封されると、喜兵衛も無理に飛車を捌こうとする。

 否が応でも盤上の攻防が激しくなり火花を散らす。

 手数が百手を超えて、局面は複雑にもつれ合いながらいよいよ終盤に突入した。

 

 終盤は駒の損得よりも速度――


 将棋は一手でも早く相手の玉を詰ませた方が勝ちとなる。

 そのためには玉将以外の全ての駒を犠牲にしても良い。

 だが、駒を捨て相手の玉将を追い詰めたものの仕留め損なえばどうなるか?

 相手に渡した駒がすべて寝返って自分に返ってくる。

 ここからは集中力を高めて慎重かつ正確に玉の寄せを読む必要がある。


 ダン!

 △5五角打ち!


 喜兵衛が持ち駒の角を中央に放つ。

 盤面中央に威張った角を見て金五郎が痺れた。


 (くそぉ。俺のほうが分が悪いか……とりあえず香車を取って……)


 金五郎が駒を取ろうと手を伸ばしたが、取る直前に躊躇して慌てて引っ込めた。

 駒から手が離れなければ着手ではないため反則ではない。

 だが手を真っ直ぐに伸ばしている間、金五郎の着物の裾が盤面に覆い被さった。

 その瞬間だけ盤面が見えなくなる。

 

 そのとき——


「おい!」

「な、なんだ!」


 菊の父が金五郎の右手を指さして、

「今、香車を駒台に乗せただろう!」


 盤上の一番右下の自分の香車をさりげなく下へ落とし、それを拾う際に盤のもとの位置に戻さずに自分の駒台へと乗せる行為。


 いかさまだ——


 終盤に盤上が混乱してくると、相手の持ち駒の把握も困難になってくる。

 盤面に集中しているときにこのいかさまを上手くやられると大抵は気づかない。

 やられた相手は自分が駒台の駒を見落としてしまったと勘違いする。

 僅か一枚の香車ではあるが、これが駒台にある無しでは終盤大きな違いとなるのだ。


 だが、喜兵衛は金五郎のいかさまを見逃さなかった。


「なんの言いがかりをつけやがる! この香車は最初から駒台にあったんだ!」

「うるせぇ、いかさまじゃねぇか!」


 男たちの怒号が店中を飛び交い、辺りは殴り合いの修羅場と化した


 ガツン!


 不意に金五郎の拳が喜兵衛の眉間にあたり、よろめいた喜兵衛が躓き地面に突っ伏して頭をしこたま打ち付けた。


 「あ痛てぇ!」


 金五郎は酔っているのかふらつきながら、呂律が回らない状態で、

「まったく言いがかりをつけやがって。この勝負はなしだ。わかったな!」

 

 そう言い捨てた金五郎は、さっさと店から立ち去ってしまった。


 「菊ちゃん! おとっつあんが!」


 仙吉の慌てふためく叫び声を聞いて、驚いた菊が奥の部屋から駆けつけてきた。

 そうして倒れている父の側に駆け寄って、

 「おとっつあん! 大丈夫かい!」


 その後、娘に介抱された喜兵衛だったが、頭の当たりどころが悪く手足に痺れが残ってしまった。

 そんな体ではろくに働きに出ることができず、終いには酒に溺れて数年後の春先に中毒で死んでしまった。


 ――弐――

 菊は、長屋の旦那に手伝ってもらって亡き父を弔った。

 菊がわんわんと泣きながら「父の仇を討ちたい」と懇願しても、長屋の旦那は「諦めな」としか言わなかった。


 ——なにも直接殺されたわけでもない。

 ——よくある賭け将棋のもつれで起きた喧嘩じゃねぇか。

 ——いかさまってったって本当にあったのかどうか今となっては分らないし。

 ——ましてや相手が将棋家の御曹司ならなおさらだよ。


 菊は愕然とした。

 いかさまをした方が平然と生きて、いかさまをされた方が苦しみながら死ぬ。

 こんなことが許されるなんて——


 (おとっつあんは、賭け将棋で伊藤金五郎に殺されたんだ——)


 菊が弔いに寺に参ったときに、たまたま居合わせたこの寺の住職が菊の身の上話を聞いてくれたうえに大いに同情してくれた。

 それではと奉公先が見つかるまでの間、菊を寺の見習いとして預かることさえ提案してくれたのだ。

 さらに菊にとって運命的なことはこの寺が大橋本家に縁がある菩提寺だったということだろう。

 将棋の心得があった住職はすぐに菊が父親譲りの棋才を持っていることに気づいて、この寺にいる間だけでも将棋家に入門してみてはどうかと勧めた。


 「あんたが将棋で身を立てるようになれば、きっとお父上も浮かばれるんじゃないかと思ってねぇ」

 「和尚様、でもあたしは女ですよ。女が将棋を指すなんて……聞いたことがないわ」

 「そんなことないさ。最近は囲碁も将棋も女の指し手が増えているんだよ。江戸にも何とか小町っていう強者がいるらしい」


 そう言って住職は将棋家に菊のことを推薦してくれた。


 「宗桂殿、女子が将棋家に正式に入門できないことは十分承知しておる。だが、せめて通い稽古でもいいからお菊さんに将棋を習わせてやってはくれないか?」

 

 当主の大橋宗桂も菊の父のことを覚えていて、父の死を憐れんでくれた。

 

 宗桂は正式な入門は幕府との決まりでできないが、通いの入門なら自分の判断で大丈夫だろう。ただし何しろ初めてのことだから、近く当主が集まる会合で菊を披露して他家に相談するということで了承してくれた。

 

 菊は自分の運命に驚いた。

 将棋の神様は、あたしに父の仇を討てとでも言っているのだろうか——

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