第三幕目 乙女心

 ――壱――

 屋敷の裏庭で、寅吉が錦旗を肩車している。


「さて錦旗サン、今日は何して遊びますかネー?」

 

 寅吉は頭をあげて、自分の肩の上に乗っている少女に尋ねた。

 傍から見ればまるで仲の良い親子に見える。


「わっちは散歩にいきたい。寅吉、お外へ連れてってくりゃれ」


 朝餉を食べ終えたあと、一緒に遊ぼうとせがむから、寅吉は錦旗を連れて裏庭へとやってきた。

 庭園と呼ぶほどには立派なものでないものの、さすがは豪商のお屋敷。

 大名でもないのに庭があと一つあった。

 それだけでも、寅吉は大阪商人の財力に感心する。

  

「でもあんまり遠くに行くのはだめでゲスヨ。東伯齋様に怒られマス」

 

 この娘は今年で十才になるそうだ。

 東伯齋から聞いたのが、この子には既に愛すべき両親がこの世にいないらしい。

 流行り病で亡くなったそうで、さぞかし寂しい思いをしているだろう。


「なに構いやせん。寅吉がついて参ればよい」

「そういう問題じゃないんでゲスガ……」


 寅吉も遠国からはるばる大坂まで流れ着いて来た風来坊。

 あまり屋敷の外を自由に出歩けないし、近くに身寄りだっていない。

 普段の寅吉は、宗歩に稽古をつけてもらう以外、染物職人たちの手伝いをしていた。


 最初は寅吉の顔に驚いた職人も、真面目に仕事に取り組む彼の姿を見て、打ち解け、馴染み始めた。


 白眉は寅吉の色彩感覚だった——


 才能の違いだろうか、店の職人たちとは感覚が大きく異なっているようで、斬新かつ画期的なその染色の配列が、職人たちの目を見張らせた。

 その風変わりな作風は、わずかではあるが店の評判になり始めている。 


「それじゃあ、近くの稲荷神社にでもお参りにいきまショウカ?」

「うん、それはええ。あそこには森もあるからの」


 寅吉は、将棋と仕事以外は、特に何もすることがない。

 自然と屋敷の中で暇をつぶすことが多くなり、こうして錦旗と遊ぶようになった。双六やカルタ、羽子板、駒廻し、たまに本を読んであげることもある。

 

 錦旗は、遊び盛りの年頃なのに、いつも大人しく部屋に一人でいる。

 それを見るにつけ、寅吉はこの子が不憫で仕方ない。

 時折見せる彼女の悲しそうな表情が、たまらなく切なかった。


「それじゃあ参りまショウ!」、とわざと陽気に振舞いながら、寅吉が狭い裏木戸に頭をぶつけながら潜り抜ける。

 裏道へ出て、左右を見回したが誰もいないようだ。


「錦旗サン、こっち来てくだサイ」


 寅吉に呼ばれて、体の小さい錦旗が裏木戸をなんなく通り抜けてくる。

 背丈の高い寅吉がやっとのことで通り抜けたのとはえらい違いだ。


 神社の場所だが、この裏道を左に抜けて大通りへ出る。さらに右に曲がって歩き進んだ突き当たりにあった。

 

「それじゃ、はぐれないように私と手をつなぎましょうネ」

「うん……」

 

 そう言って、寅吉が錦旗の手をとろうとした。

 錦旗もそれに応えて寅吉の手をぎゅっと握りしめてくる。


 小さな手が、大きな手のひらにすっぽりと収まってしまった。

 驚くほどに小さくて、か弱い手だった。


 寅吉が見下ろすと、おかっぱ頭の錦旗の髪の毛が見える。

 その髪は、色素が薄いのだろうか黒と言うよりも赤茶に近い。

 肌の色は白雪のごとく、眼の色も透き通った灰色をしていた。

 

 この子の日本人離れしたその容姿が、寅吉にいつかどこかで見たことのある西洋人形を思い出せた。


 ビスクドールのように儚げで、か細い美少女——


 もし自分が力を入れてこの手を握り締めれば、この子の手は骨ごと砕かれ人形のように壊れてしまうのではないか、とすら思ってしまう。


 そんなことを寅吉が思っているなどと、錦旗は露とも知らず、黙ってとことこと歩いている。

 気のせいか、さっきから妙に悲しげな顔をしているのが気になった。

 

 しばらく歩き続けていると、巨大な朱色の鳥居が見えてきた。

 その下を通り抜けて、なだらかな坂道の参道を昇っていく。

 その先に、狐の神様が鎮座するという小さな箱みたいな建物が見えた。

 その建物は「おやしろ」というらしい。

 お社の周辺には鎮守の森が広がっていて、静謐な空気を漂わせている。


「さぁ、着きましたヨ、錦旗さん」


 見渡すと正月の三が日を過ぎたせいだろうか、参拝する人はいなかった。

 近くの木々には、無数の折りたたまれた紙くじが括られていて、まるで季節外れの白い花を満開に咲かせているようだった。

 

「あ、玉枝がいる」と、突然錦旗が向こう側を指さす。

「ほんとでゲスネ。何してるんでショウ?」


 自分たちとは正反対の位置に、玉枝が一人で立っている。

 お社の影に隠れて何かを見ているようだった。


「そっとしておいてやろう。わっちは森の中で七草を拾いたい」

「ナナクサ? はてそれは何デスカ?」

「明日、朝餉のお粥に入れて食うのじゃ。そうすれば今年一年家族が病にかからんようになる」

「なるほど、それは良さそうでゲスネ。ワカリマシタ。それじゃあ、ナナクサを探しまショウ!」


 そう言って、二人は誰もいない鎮守の森へと消えていった……。


 ――弐――

 荘次郎の目の前を、宗歩がすたすたと歩いている。

 大広間を出てから廊下を歩き、屋敷の離れへと続く裏庭に出た。

 荘次郎が庭の端っこに目をやると、錦旗と寅吉が肩車をしているのが見えた。


(あの二人、最近仲いいな。まるで親子みたい)


 宗歩は太郎松と一緒に、屋敷の離れに住んでいる。

 荘次郎も宗歩の自室に入るのは、実は今回が初めてだった。

 だからか、ちょっとだけ緊張する。


 尊敬する師匠の自室、それも二人きり——

 

 宗歩が実は女性であることは、つい先日東伯齋から伺ったばかりだった。

 それを聞いても特に驚きはしなかった。

 自分も性を偽ってここまで生きていたからかもしれない。

 ただ、そんなことをする彼女に、不思議と運命めいたものを感じてしまった。

 男なのに女として育てられた自分と、女なのに男として生きてきた宗歩——

  

 平らな自分の胸を触ると、鼓動が高まっていくのが良くわかった。

 

 「さぁ、遠慮なく入ってくれ」


 宗歩が部屋の襖を開けながらそう言う。

 彼女の手招きに誘われて、荘次郎は部屋の中へと入っていく。


 中をぐるりと見回すと、四畳半くらいの広さしかなかった。

 部屋には文机と行李(収納箱)、それに将棋盤。

 他に何冊かの和綴本と畳まれた布団があるだけだった。

 

 物がほとんどないから、意外と広く感じる。


(ここが宗歩様のお部屋か。殺風景でなんにもないな……)


「ま、まぁ、そこらへんに適当に座ってくれ」

「はい。失礼いたします」

「じゃあとりあえず一局だけ指そうか」

「よろしくお願いします」

 

 対局中の宗歩の様子が、明らかに普段と違っておかしかった。

 何かを気にしている素振りで、ずっとそわそわしているのだ。

 きっと、太郎松と玉枝のことでも考えているのだろう。


「あの、お師匠様、どうかなされましたか?」

「うん? いや……何でもない。えい、王手飛車!」

 と、宗歩は持ち駒の角を中央に放つ。

 

 王手と飛車取りを狙う大技だった……はず。


「……」

「うん、どうした? 荘次郎、ひょっとして降参か? おいおい将棋というのはな、集中力が一番重要なんだぞ。「玲瓏れいろう」と言う言葉があってだな——」

「あの……」

「!?」


 荘次郎の指さす方向を見ると、宗歩の王将が荘次郎の角道に入っていた。

 先に王手をかけられていたのは宗歩の方。

 つまり王手放置―—痛恨の反則負けである。


「ぐはぁ! ま、参りました……」

「あ、ありがとうございました……」


 宗歩は生まれて初めて反則負けをしたらしく、茫然自失になっている。

 将棋家でこのような反則負けをしていたらきっと切腹ものだっただろう。


「あの……お師匠様。ひょっとしてさっきのこと……」

「うん……そうなんだ。荘次郎、お前もその……一緒に来てくれないだろうか?」


 東伯齋にはああして約束したはものの、やはり一人で行くのが不安だったのだ。

 だがこんな風に宗歩に頼られることを、荘次郎は何よりも嬉しく思う。


「それは一向に構いませんが——」

「ほんと!? ああ良かった。じゃあ、さっそく着替えの準備をしましょう」


 胸のつっかえが取れて宗歩は安心したのか、言葉使いが女言葉に代わってしまっている。


「え……と、着替えの準備ですか? この格好でなくて?」

「そうよ、この格好じゃ二人にすぐにばれてしまうわよ。荘次郎も変装して行くことにしましょう」

「ええぇ。ほんとですかぁ」


 荘次郎は女の恰好に戻るのは嫌いじゃなかった。むしろ落ち着くから好きだった。

 だが、外を出歩くと男達の視線から伝わる何かを感じてしまい、それが妙に恥ずかしかったのだ。


「いいじゃない、せっかく出かけるんだし。私もたまには女に戻って出歩きたいのよ」

「はぁ、そうですか……」


 そういうわけで、二人は着替えの準備をすることにした。

 宗歩は男装を解いて、荘次郎は女装をして、町娘の姿になるために――


 早速、宗歩が馬の尻尾のように一つに括っていた髪を解き始めた。

 縛っていた紐を解くと、はらりと黒く美しい髪がたれ落ちてきた。

 それまで着ていた渋茶色の小袖と灰色の袴を一気に脱ぎ捨てて、さらしと腰巻だけの姿になる。

 そのまま、胸に巻きつけていたさらしも緩めて、くるくると回しながら外していくと、白く透き通った玉のような肌が露わになった。

 そうして上半身が全部露出したところで、宗歩はあることに気が付いた。

 

 荘次郎がそこに立っていることに――


(し、しまった……! 自分の部屋だからいつものようにぽんぽん脱いじゃってた……)


 「ちょ、ちょっと師匠! 私の前で全部脱がないで下さいよ!」


 荘次郎が、慌てて手で目を隠しながら、背を向けてしゃがんだ。

 顔だけでなく耳まで真っ赤になっている。


 「……見た?」

 「いえ……み、見ておりません……」

 「うそ。見たでしょ」

 「……はい」

 「……弟子に裸を見られるなんて……、師匠として一生の不覚だわ!」


 そう嘆きながら宗歩は、上半身素っ裸のままその場に崩れ落ちる。

 それを聞いた荘次郎は、どちらかというと弟子に裸を見られるよりも、将棋で反則負けする方がよっぽど不覚なんじゃないかと思った。

 思ったのだが、もう突っ込まないことにした。


 「あの……、じゃぁ僕も自分の部屋で着替えてきますね……」


 そう言って、荘次郎はそそくさと襖を開けて部屋を出ていこうとする。


 「う、うん、よろしくね。また後でね……」

 (な、なんだろう。この気まずさは……。なんか私があの子に拒まれたみたいになってない!?)


 傍から見ると、自分から裸になったにもかかわらず、男にそのまま去られてしまうというなかなか厳しいこの状況下に、宗歩は言いようのない敗北感すら感じしまっていた。


 (ま、まぁとりあえず着替えを続けないと……)


 荘次郎が去った後も宗歩は気を取り直して、文机の引き出しから髪結い道具を取り出した。

 そして、銀杏返しの髪型に結い始める。

 自分ひとりで髪を結うのはなかなかコツがいる。

 最初はかなり手こずったが、何度も繰り返していくうちに次第に慣れてきた。

 

 手鏡を見ながら薄く紅を口に引いて、頭にかんざしをさす。

 次に竹行李に仕舞っていた江戸紫色の女物の小袖に着替え始めた。

 長襦袢を身に付け、その上から小袖をはおって腕を通す。

 腰紐を締めつつ着物のしわを調節し、最後に帯を締めた。

 

 もはやそこには将棋指し天野宗歩はいなかった。


 町人の娘、天野留だ——


 この格好ならば街中でも天野宗歩とばれないし、太郎松や玉枝に気づかれにくいだろう。

 

 宗歩が暫くそのまま待っていると、

 「師匠、お待たせしました」


 部屋の襖が開かれ、そこに桜色の小袖を身にまとった絶世の美少女が立っていた。

 

 荘次郎改め、三女の菱湖だ——


(うそ……男の子なのにこの子可愛いすぎでしょ。こんなのって反則だわ)


「あの、どうかされましたか?」

「ううん、ちょっと神様に恨み言を言ってただけ」

「そ、そうですか……」

「さてそれじゃあ行きましょうか。実はね、居場所は検討ついているのよ」

「え!? そうなんですか」


 それを聞いて菱湖はちょっとだけほっとした。

 この格好で市中を歩き回ることにはならなそうだったからだ。


「だって、この前太郎松が自分で言ってたのよ。『近所の稲荷神社に行って来る』って」

「なるほど神社ですか。それにしても太郎松さん、神社でお参りでもしてるんでしょうかね?」

「まさか! あいつが神様になんか祈るわけないでしょ。きっと今頃玉枝さんと……きーっ!」


 突然、宗歩が天を向いて叫び出す。


「し、師匠!? お、落ち着いて下さい!」

「胸か、結局男はみんな巨乳が好きなのか! でもな……、私だってそんなに小さくないんだぞぉぉぉ!」


 菱湖はため息をつきながら、心底思った。

 そういう問題じゃあないだろうと。

                               (第四幕へ)

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