第四幕目 狐の嫁入り

 ——壱——

 女の姿に戻った宗歩は、太郎松がいる神社を目指し、菱湖と一緒に屋敷を出た。

 屋敷の目の前の大通りを、宗歩が神社に向かって歩いていると、

「ちょ、ちょっとお師匠様! 足! 足!」

「うん……? あらやだ!」


 久しぶりに女の恰好になったからか、ついはやる気持ちを抑えられなかったらしい。

 歩くときに歩幅が大股になって、着物の裾の隙間から白い足が覗いていた。

 単に歩くだけなのにずいぶん勝手が違うものだ、と宗歩はちょっとため息をつく。


 仕方がないので、着物のを取りながらちょこちょこ内股で歩いているが、なんだかそれはそれで変な感じになってしまった。

 しばらくそうやって通行人の多い大通りを歩き続けていると、

「あの、お、お師匠様……」

「うん、今度はなぁに?」

「なんか私達……さっきから見られていませんか?」

「え……?」


 宗歩が周りをぐるりと見渡す——

 往来の男たちがこっちをじろじろと見ていたのだ。


(げげ! ひょっとして私が天野宗歩ってバレちゃってる?!)

 と、焦った宗歩だったが、実はそうではなかったらしい。


 男たちのひそひそ話がこっちまで聞こえてくる。


「……あの娘、えらい美人やな。どこぞの娘さんかいな?」

「ほんまや、めちゃくちゃべっぴんさんやわ」

「おい、お前。ちょっと声かけてみいや」

「え!? よーし! 俺……行って来る!」


 絶世の美少女二人が商都大坂の目抜き通りを闊歩すれば、男の目を引くのは当然のことだった。


(あららら……なんか別の意味で目立ってしまったかも……!?)


 二人が足を止めてたじろいでいると、こっちに若い男がひとり近づいてきた。


「そこの娘さん。よかったら、俺と茶店で回転焼きでも食べませんか?」


 背が高くて若い町人男子が、宗歩と菱湖の前に颯爽と現れた。

 どうやらこちらのことを誘っているらしい。

 洒落た色柄の着流しを着ているものの、雰囲気は爽やかだ。

 なによりも笑顔が眩しすぎる。

 「遊び人」といった感じはほとんどせず、すべてが自然な感じの好青年。

 どこかの由緒ある商家の若旦那かなにかだろう。


「きゃっ! そんな、急に言われても……! でも回転焼きはちょっと食べたいし……少しだけなら付き合ってもいい……かな」

「し、師匠、だめですよ! 僕たち早く神社に行かないと!」


 くねくねと身をよじらせる宗歩を、菱湖が無理やりに引っ張っていこうとする。

 が、宗歩の方が逆に菱湖を引き留めて、「まぁまぁ、菱湖ちゃん。そんなに急がなくてもいいじゃない。それにね。腹ごしらえもちゃんとしとかないとだめよ!」と、意味不明な理由で説得を試みた。


「あのぉ……すみません」


 ——突然、若旦那が宗歩の話をさえぎった。


「え!?」

「あなたじゃなくて……その……そちらの娘さんの方なんですけど……」



 宗歩の目の前が真っ白になった。

 将棋で負けてもここまでくじけることはないかもしれない——


 (は、は、恥ずかしすぎる! でも……、私は負けないよ)


 ぐす。


「あ……あああ、そうでしたか! ほら菱湖ちゃん、あ、な、た、にお誘いよ」と、宗歩が菱湖の背中をぐぐっと押し出した。


「えええ! ちょ、ちょっと待ってください。私はおと——ゴニョゴニョ」

「それは秘密でしょ! 話が余計ややこしくなる!」

 と、二人でくんずほぐれつしていると——

 突如、後ろの方から別の男の声が聞こえてきた。


「あのーそっちの娘さん、俺はあんたのほうが好みやわ。よかったら俺と一緒に付き会って——」

 

(き、来たわ! とうとう私にも春が来た!)


 ひっきりなしのお誘いに、宗歩がぐぐっと握りこぶしを作る。


(ふふふ、見なさいよ太郎松! 荘次郎! 私だってね、こうやってちゃんとモテるのよ!)


「はいはーい! …………って……」


 宗歩が意気揚々と声のした方を振り向くと——


 そこには——布袋ほていさんがいた。


 いや、布袋さんではなかった。人間だった。

 だが、男の背は低く、縁起の良さそうな真っ赤な十徳(着物の一種)に身を包んでいる。

 頭頂はつるりと綺麗に禿げ上がっていて、いっそ清々しい。

 下っ腹がでっぷりんとはちきれんばかりに膨らんでいて、残念なくらいだらしがない。

 

 (ああ……そうだ。これはやっぱり布袋さんなのだ)


 (布袋神が、憐れなこの私の前にたった今ご降臨召されたに違いない)


  ……………


 (……いや違う。ただのおっさんだ、これは)


 ぐす(泣)


 軽く四十は超えている中年らしい顔は、ぎとぎとにあぶらぎっていた。

 真冬なのに額から汗がちょろりと垂れている。

 開いているのか閉じているのかよく分からないくらい細い目で、宗歩の全身を下から上へ何度も嘗め回すように見ていた。

 

(ううう……。失礼だけど正直言って気持ち悪い。よし断ろう!)


 ふと宗歩が横を見ると、菱湖がさきほどの好青年と仲良くお喋りをしていた。


 ああ、なんということだろう。

 菱湖は、軽く流し目を使いながら好青年に微笑さえ振り撒いているのだ。


(あ、あ、あいつめぇ! 意外と楽しんでいるじゃないの!)


 そんな菱湖を見て無性に悔しくなったのか羨ましくなったのか、宗歩はもう一度だけ、本当にもう一度だけ、布袋さんへの自らの可能性を賭けてみることにした。

 

 血迷ったと言われれば、そうかもしれない。

 色惚けとののしられれば、もはや否定せぬ。


 だがしかし——

 一見悪手と見えた手が、その実意外と好手になったりするのだ。

 絶体絶命と思われた局面で、起死回生の逆転を生むことだってこれまで何度もあったはず。

 宗歩は今までの血のにじむような経験で確信していたのだ。


 将棋こそ我が人生なり——


(私は引かない!)


 我が人生こそ将棋なり——


(私は媚びない!)


「麒麟児」の名に恥じぬ根性魂が、めらめらと燃えたぎっていた——


(たしかに「袖振り合うも他生の縁」と言うし……。実際、こうやって私のことを「好み!」と言ってくれたのは正直嬉しい。それに意外と布袋さんって包容力があって良いかもしれない……)


宗歩は「そうだ。この人には若い男に備わっていない、大人の包容力と寛容さがあるんだ」と勝手に決めつけた。

そして、もう一度だけ精一杯の勇気を出して布袋さんをちらちと見た。


 布袋さんは、終始黙ってにやにやしていた。


(ひぃぃ! だめだぁ。いくらなんでもこの人は生理的に無理だ……)


「あの、ごめんなさい。私達これから行くとこあるんで……」

 

 身の危険を感じた宗歩が、表面上だけでも申し訳なさそうにして、やんわり断りを入れる。

 宗歩は、その返事も待たないうちに菱湖の手を無理やり引いて、脱兎のごとくその場を走り去った。

 もはや生足がすっかりはみ出していることなど一向に構わずに——



 ——弐——

 すっかり意気消沈してしまった宗歩は、菱湖の手を引きつつとぼとぼと神社に向かって歩いていた。


「はぁ、どうして菱湖ちゃんだけあんないい男が寄ってくるのかしら」

「そ、そんなことないで——」

「いや、ある! 悔しいけど可愛すぎるのよね。でもなんでだろう、将棋で年上の殿方ばかり相手してたからかなぁ……」


 乙女の悩みは尽きない。

 だがその悩みが解決する前に、二人の足のほうが先に稲荷神社に辿り着いた。

 宗歩はその足を止めずにそのまま境内へと進んでいく。


 狐の神を祭るこのやしろは、境内こそ広くはないが、静謐な空気に包まれていて厳かな雰囲気を十分に保っている。

 南の正面から鳥居をくぐると、石砂利の敷かれた参道がお社まで一直線に引かれていた。

 その参道の突き当りには、ご神体が祭られたお社と赤い前掛けをした狐の石像が二体設置されていた。

 秋祭りになると、狐の石像が提灯の灯に照らされてとても幻想的に映るのだ。

 お社の前には古くなってしまった賽銭箱がぽつんと置かれていた。

 その東側には鎮守の森が奥の方までずっと広がっている。

 宗歩がその森の反対側に目を向ける。

 そこには二人の男女がお社の影に隠れるようにして佇んでいた。


 「あ、太郎松と玉枝さんだわ! やっぱり二人でここにいたのね!」

 と宗歩が先手必勝とばかりに電光石火の早さで二人を見つけ出した。


 「本当ですね。二人で一体何してるんでしょう?」


 太郎松は、お社の木壁に背もたれながら何かを手に取って見ている。

 玉枝の方は、太郎松に一生懸命何か話しかけているようだ。


 「うーん、ここからじゃよくわからないわね。とりあえず近くに行ってみましょう!」


 そう言って宗歩は、こそこそと境内の茂みの中へと入り込む。

 二人に姿が見られないようにさっさと隠れてしまった。

 

 「よし、ここからなら二人の動きをしっかり見張れるわ。菱湖ちゃんもこっちに来なさい。そこにいると見つかっちゃうわよ」


 たしかにここに突っ立っていれば太郎松と玉枝からもはっきり見えてしまう。

 菱湖も、できるだけ音を立てないよう宗歩の側へと近寄ってきた。

 それでもなお二人の話し声はここまで全く聞こえてこない。


「うーん、何話してるのかなぁ?」と宗歩が首を傾げる。

「さっきから玉枝お姉ちゃんが、太郎松さんに話しかけているみたいです」


 しばらく二人の声を拾い取るように耳を澄ましていると——


「太郎松さん!」


 突然、玉枝の叫び声が聞こえてきた。

 慌てて二人を見ると、玉枝が太郎松の胸に飛び込むようにして抱きついている。


「えぇ!?」


 菱湖が驚きのあまり溜まらず声を上げそうになった。

 が、あわてて両手でその口を塞ぐ。

 

 その瞬間だった——


 太郎松が自分に密着する玉枝の肩に手を掛けたのだ。


 バッ!


 それに呼応するかのように宗歩が茂みからすくっと立ち上がってしまった。

 そんな風にいきなり茂みから人が飛び出してきたのだから、太郎松と玉枝の二人ともが、体をびくっとさせて驚いた。

 

「なんだ宗歩じゃねぇか。驚かせるなよ。お前ここで一体何してるんだ……?」


 困惑顔の太郎松が、訝しげにこちらに質問を投げかけてきた。

 まぁ当然だろう。

 そう思った菱湖は、宗歩が一体どう対応するのかが気になり始める。

 

 (お師匠様、きっと怒り狂っているんだろうな……)

 と思い、宗歩の顔をふと見上げると——


 (えぇ!? 泣いている?)


 美しいその顔は——、鉄仮面のように無表情なままだった。

 だが、そのくりッとした大きい瞳だけが僅かに潤んでいる。

 潤んだものがツーっと溢れ出す。

 一筋の涙が静かに頬の上を流れてきた。


 その瞬間だった——


「この……乳くり野郎がぁー!」


 ダッ!


 太郎松と玉枝にとっては完全に意味不明な叫びに聞こえる。

 叫んだ宗歩が、太郎松とは反対側に脱兎のごとく駆け出していく。


「お、お師匠様待ってください! 僕を置いてかないで!」


 慌てて菱湖も宗歩を追いかけようとするが、久しぶりに着た着物なので足元が絡まってしまう。

 それでも前を走る宗歩を、なんとか必死に追いかけていると——


 カキン!


 どこかで金属音がした。

 荘次郎が立ち止まって辺りを見回すと、宗歩の頭に挿さっていたかんざしが石畳みの上に落ちているではないか。

 どうやら、がむしゃらに走っているうちに宗歩の頭から不意に外れてしまったらしい。

 菱湖がそれに気を取られているうちに、気づけば宗歩の姿がぱったりと消えてしまっていた。


(お師匠様……)


 しかたがないので、菱湖は簪を拾おうと石畳みの方へと向かう——


「おい、荘次郎」


 声のする方を振り返ると——


「!!」

 

 菱湖の真後ろに、太郎松と玉枝が立っていたのだ。


「あわわわ……」


 菱湖の顔面が一瞬で蒼白になる。


(ま、まずいぞ。東伯齋様から二人に絶対に見つかるなって言われてたのに……)


                               (第五幕へ)

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