第三十五話 太郎松が覚醒しました

 ――壱――

『将棋対決 天野宗歩五段と将棋天狗 洗心洞於』


 大塩平八郎の私邸を改築し、塾生に教授するための講堂と宿舎を備え付けたこの「洗心洞」の門前には、人目を引くように大きな引き札が張られていた。

 大坂城の北にある天満――青物市場がずらりと立ち並ぶことで有名なこの地域の外れに大塩平八郎の私塾、洗心洞はあった。

 普段は「陽明学」を教授するこの私塾が、月に一度だけ余興として寄席などの興行会場へと様変わりする。

 ここに目をつけた小林東伯斎が、数年前から将棋の普及活動の一環として催し物を行っていた。


 対決当日――

 天野宗歩は将棋天狗の果し状に指定された「お昼ごろ」に洗心洞へと到着した。

 小林家の屋敷から連れ立って歩いてきた二番弟子の渡瀬荘次郎が、早速講堂の様子を覗きに伺った。

 中は既に見物客がぞろぞろと集まりだし、観客席は大変な盛況のようだ。


「すごい人ですね。さすがは宗歩様、大変な人気者でございますよ!」


 荘次郎は宗歩の人気の高さにいたく感心したようで、はぁっとため息をついた。

 少女のように可憐な顔のこの美少年は、師匠の天野宗歩を心から信奉している。

 特に詰め物の件があってから、師匠の将棋に対する熱い思いが彼の骨身に染み過ぎたのか、その忠誠心は一層高くなり、それはまるで仏陀に付き従った仏弟子のようだった。

 おそらく、宗歩の言うことならば彼は何にでも従うのだろう。


「ほんとデゲスネ。こりゃまた驚きデゲスネ」


 三番弟子の平居寅吉も興行に参加するのが「将棋相撲」以来なので、非常に興奮している。

 阿蘭陀オランダ人としてこの国に漂着した彼もまた、すでに大坂の生活に馴染みつつあり、将棋の修行にも小林家の商いの手伝いにも日々精進している。

 関西弁を耳にしてしまったせいであろうか、ところどころ言葉遣いがおかしくなったしまったことと、時折小林家の面々が彼の母国のことを尋ねると、「それは禁則事項デゲス」と謎の言葉を発して皆を困惑させること以外、概ねうまくやっていると言えるだろう。


「ほんまに。宗歩はんにはいっつも儲けさせてもらってますわ。おおきに、おおきに」


 小林東伯斎も見込んでいた興行収入が大幅に増えてホクホク顔だ。

 将棋家に反旗を翻した大坂の在野棋士として孤軍奮闘していた彼も、今や天野宗歩一門の支援者パトロンとして定着している。


(宗歩はんも、どっかでおなごっちゅうことを暴露したほうが、もっと人気出るのになぁ……将棋好きのおっさんが、わんさかあの子に群がってきよるで)


 商売柄、上方だけでなく西国の商人や有力者にも顔が効くようで、天野宗歩というこのうら若き天才を今後どのように支援プロデュースするのか虎視眈々とほくそ笑んでいた。


 ところが、天野宗歩だけはここに至って一抹の寂しさを感じていた。

 一番弟子だった市川太郎松が今ここにいないからだ。

 彼が突然いなくなって初めてその存在の大きさに気がついたのだろうか。

 幼いころから兄のように慕っていた太郎松。

 宗歩が将棋家に入門してからも何かと心を砕いてくれた太郎松。

 宗歩は、太郎松に対して今までに抱くことが無かった感情が心の中に芽生えつつあることに気がついた。


(太郎松がいないとこんなに寂しいものなんだなぁ。ちゃんと謝って仲直りしなきゃ……)


「おい」


 そのとき突然――

 宗歩の後ろから低く野太い声が聞こえてきた。

 が、宗歩は全くその声に気づいていない。


(この前の破門騒動だって、私の体を気遣ってくれてのこと……。はっ! ひょっとして太郎松は……私のことを……)


「おーい」


 宗歩は甘くてとろけそうな妄想に浸りきっている。


(だ、だめよ、太郎松。あなたは弟子であって、私は師匠なのよ。それに私には大橋柳雪様という心に決めたお方がいるのよ!)


 ちなみに大橋柳雪には生涯を誓い合った愛すべき恋人がいるので、宗歩をそういう風に見たことは過去に一度も、断じて無い。


「……おいぃぃ! いい加減気づけよ!」


 くねくねしながら悶える宗歩とそれを微笑ましく見守る門弟たちに、後ろから男が叫んだ。


「はっ! な、なんでしょう……か?」


 ようやく宗歩が振り向いたその先には、天狗のお面を被った男が一人佇んでいた。


 将棋天狗だ——


「まったく、何回呼べば気がつくんだよ……」


 宗歩は、この将棋天狗の正体が誰なのか一瞬で分かった。

 そして今までの甘くてとろけそうな妄想が吹き飛んで、ただただ愕然とした。

 声、背格好、立ち居振る舞い……顔など見なくとも即座にこいつが誰だか分かる。

 宗歩は、なんだかむしょうに腹が立ち始めた。

 目の前の男に恋慕の情を不覚にも沸かせてしまった己に対しても、そしてあの阿保丸出しの果し状を自分に送りつけてきたこの能天気な男に対しても——


 呆れ顔のまま黙っている宗歩に、天狗男は両腕を組みながら、

「くほほ、待っていたぞ! 天野宗歩よ。俺様は将棋てん——」

「あんた、太郎松でしょ」

「……ち、違う!」

「はぁ……。あんた……いったいこんなとこで何やってるのよ?」

「だ、だから違うと申しておるだろうが! お、俺様は正義の味方、将棋天狗様だ。悪の手先、天野宗歩を退治しにまいっ……いでででで!」

「もういい。ほらいくわよ」

「いでででで!」


 将棋天狗(もとい市川太郎松)の左耳をぐしゃりと容赦なく握り潰しながら、ずかずかと洗心洞の講堂へ引っ張っていく天野宗歩であった。


(まったく……大塩先生も東伯齋殿もみんな最初からグルだったってわけね! )


 ――弐――

 定刻となり興行がいよいよ始まった。


「それでは、ご登場いただきましょう! あの将棋家の「麒麟児」天野宗歩五段と、将棋天狗さんです! どうぞぉ!」


 司会者に紹介されて、天野宗歩とお面を被った将棋天狗が講堂に入場してきた。


 むすっとした顔の宗歩が、将棋天狗の脇をバレないようにコツンと小突く。

 小突かれた将棋天狗が、お面をゆっくりと上げた。


 そこには——左のほっぺたを真っ赤に腫らし涙目になった市川太郎松がいた。


「て、訂正いたします。将棋天狗こと市川太郎松四段です!」

  

 わぁっと歓声が上がる観客席の方を宗歩が見渡すと、水無瀬、玉枝、錦旗が座っていた。きっと応援に来てくれたのだろう。


「うそやん。あれ太郎松さんやんか!」と玉枝が素直に驚く。

「本当ね。将棋天狗は太郎松さんだったのね」と水無瀬が白々しく感心する。

「わっちは最初から気づいておったぞ」と錦旗が呆れている。


 宗歩と太郎松は、観客に取り囲まれるように中央に配置された将棋盤に正座する。

 宗歩が駒をパチパチと初期位置に並べながら、

「香落ちだ」

「なんだと! 俺とお前じゃ一段しか違わねぇんだ。平手だろうが!」

「私が万が一でも負けたら……何でもお前の言うことを聞いてやるよ」

「ふん、後悔するなよ」


 互いに盤上に視線を落とし、呼吸を深く重ね合わせていく。

 盤上没我——


『よろしくお願いします』


「麒麟児」天野宗歩と「天衣無縫」市川太郎松の死闘が始まった——。


 △上手:天野宗歩(左香落ち)

 ▲下手:市川太郎松


 △3四歩▲7六歩△4四歩▲2六歩△3五歩▲2五歩△3三角▲4八銀△3二飛


 戦型は、宗歩が香落ち定跡に従って飛車を3筋に振る。

 三間飛車だ——

 左香車がない分、飛車の力で不足を補う意図だ。

 これに対して太郎松は、飛車を2筋に待機させる居飛車戦法を採用した。

 こうなると互いの攻め駒が2筋と3筋に集中することになる。

 取られたら負けとなる自分の玉将を、最前線となる2筋、3筋方面から遠ざけるように、6筋から8筋方面へ退避させていくのが定跡である。

 玉将が最前線にいたまま流れ弾に当たっては命取りになるからだ。


 両軍が戦線を拡大させ、睨み合いの膠着状態となった。

 もはや膨れ切った紙風船のように破裂寸前の状態だ。

 どちらかが発砲すればあとは全軍躍動するのみ。


 二十二手目——

 ▲4五歩と太郎松が仕掛ける格好となって、とうとう戦火の口火が切って落とされた。


(さぁ宗歩よ。どうする?)


 宗歩がこの仕掛けに△同歩と取れば▲1一角成と太郎松陣営に「馬」ができる。

 ただし、その地点には最初から香車がいないため「空成り」となる。

 これをどう見るかは相当難しい。

 強力な「馬」が作れたと見れば好手と言えるが、香車を取れないのだから有効打にならないと評価もできよう。

 いずれにせよ宗歩はこの損得を読み切ったうえで、「馬」を作らせるかどうか決断することを迫られていた。


 二十三手目——

 宗歩の応手は……△同歩!


(上等じゃない。かかってきなさい)


 宗歩は真っ向勝負から逃げないという姿勢を見せ、わざと太郎松に「馬」を作らせた。


 局面が十手ほど進む中で太郎松の「馬」が宗歩の「角」と交換され、互いの駒台に「角」が乗り合う形となった。


 その刹那——


 バチィィン!


 三十五手目——

 宗歩が駒台の「角」を4六の地点に激しく打ち込んだ。


 飛車と香車の両取り——。


(どうするの? あなた、これで香車損よ)


 両取りを掛けられた側は、応手を違えると一気に敗勢に陥ることが多い。


 太郎松はこの両取りを見て、「うーん」と獣のように唸った。

 そのとき、太郎松の心中にどす黒い何かが潜んでいた。

 胸の奥底から太郎松に暗く囁きかけてくるその存在が徐々に姿を見せる——


 ——お前はこれでいいのか? 天野宗歩に負け続ける人生でいいのか?

 ——こいつに勝ちたくはないか? 勝ちたいと思うなら……

 ——オレヲカイホウシロ!


 そのとき太郎松の中で何かが壊れる音がした。


(コロセ、コイツヲクイチギレ……)


 三十六手目、太郎松は▲2六飛と飛車を交わして香車を見捨てた。

 宗歩は香車を取りつつ馬を作った。

 その合間に太郎松はさっと右桂を3七の地点へ逃がす。


(ククク……コロセ)


 ダン!


 四十二手目▲4五桂!


 飛車取りと桂馬成の両狙い——


(ふん……、なかなかやるじゃないの)


 今度は、宗歩が両狙いの応手を考える番だ。

 確かに中央の5筋に成桂を作られるのは厳しいが、飛車を取られれば一巻の終わり。

 今後は戦場が中央方面へと移ることになる。

 宗歩の王将の位置は7筋——結構前線に近くなる。


(よし! 全軍を中央5筋に集結させるわ! ここで迎え撃つ!)


(こっからが勝負だぜ。天野宗歩よぉ!)


(かかってきなさい。市川太郎松!)


 四十三手目から△3四飛▲5三桂成△3二銀▲3五歩△同飛と激しい応酬が続く。


 ダン!

 そのとき、太郎松の指が鞭のようにしなった。


 四十八手目▲5六飛車!


 盤面中央の五筋にいよいよ大駒「飛車」を展開させる。


(このまま、全軍中央突破する! 俺に続けぇ!)


(来たわ! そんなのやらせない!)


 バチィィィィィ!

 宗歩の細い腕がしなやかに伸び上がり、そのまま一気に盤上に振り下ろされた。

 

 四十九手目△5五飛車!


 宗歩の「飛車」が太郎松の「飛車」の目の前に立ち塞がる。

 両陣営の猛将同士の一騎打ちだ。


 そのときである——


「クホホ。エモノガカカッタナ」


 太郎松が目を見開き、はっきりとそう言った。

 それはもはや太郎松の声、いや、そもそも人の声ですらなかった——


「い、今のなに?」


 ダン!

 五十手目▲2二歩打ち!


 宗歩の死角から手裏剣の「歩」がいきなり飛んできた。


「ぐは!」


 直線的な中央突破を見せてからの不意打ち――

 宗歩が苦悶の表情を見せて、一瞬手が止まる。

 五十一手目、小考した宗歩は苦し紛れに△3三桂と逃がそうとする。


(くっ! これが太郎松の狙いだったのか。不覚!)


 香車をわざと見捨て、桂馬を跳ねて駒を自然に中央方面へ転回すると見せかけて、見落としやすい辺境の2筋に伏兵の「歩」を放ち宗歩の陣形を内から瓦解させる。


 こんな構想を本能と直感だけで一瞬にして手繰り寄せてくる。


 まさに天衣無縫とはこのことか——


 五十一手目▲3七歩打ちにより宗歩の「馬」が完全に封印される。

 これで援軍を断たれた中央の「飛車」が完全に孤立してしまった——

 このときの太郎松は一種の発狂状態にあったと言える。

 心の中で囁く本能の声にただ従いながら指すのみ。


(ウマヲフウジコメタゾ。ツギハヒシャヲトラエヨ)


 五十二手目宗歩の方から△5六飛とやむを得ず飛車を切っていく。


(う、嘘でしょ! 私のほうが押されている……の?)


 五十五手目▲8六角


「遠見の角に好手あり」

 至言である——

 宗歩本陣に余裕で届く好位置に巨大な砲台が設置されたようなものだ。


(な、なによこの手……落ち着け! 読め、読むんだ私。このままじゃ……私は負ける!)


 宗歩が読む。読む。読む。読む。読む。読む。読む。

 その間、宗歩は頭の中で何度も太郎松に惨殺される。

 だめだ。全部自分が詰まされるイメージしか湧いてこない。

 このまま、宗歩が手をこまねいていると、▲6三成桂と王手をかけて、その隙に虎の子の金将を召し取りながら「馬」を成り込んで突破する狙いだ。


 本陣の崩壊は『即死』を意味する。

 それだけは何とかして防ごうと宗歩は、六十一手目△5一飛となけなしの「飛車」を自陣に投下し、なんとか集中砲火を持ちこたえようとする。

 すでにここまで三十手ほど守勢に回り続けているため、宗歩に精神疲労が出てきた。

 将棋は守る側の方が神経を摩耗する。一手も間違えられないからだ。


(くぅ! これで凌げるか?)


 それでも不気味な笑みを浮かべながら太郎松は、▲4一歩成△同金▲2一歩成と立て続けに歩を成り捨てていく。


(クホホ、カッタゾ! 俺は宗歩に勝つ!)


 宗歩は、玉頭から散弾銃のように降ってくる攻撃を何とか防ぐため、六十五手目△6四香打ちと歩以外の最後の持ち駒を投下した。


 これを見て――太郎松が長考に沈む。


 観客も固唾を飲んで見守っていた。

 もはや歓声や野次を発する者などここにいなかった。


(速く攻めるのがいいかなぁ、ゆっくり攻めるのがいいかなぁ。自玉は金銀4枚の堅陣だ。ウーン、コノママジットシテルノ、ナンカ気持チ悪イナァァァ)


 六十六手目▲6三成桂と太郎松、桂馬をタダで捨てる。宗歩△同玉。


 七十手目▲6四角とさらに太郎松は角をズバッと切り捨てる。宗歩△同玉。


 七十二手目▲6六香△6五歩▲同香△同玉。


 宗歩の王将が四肢を縄で縛られ、吊るし上げを食らう。

 どんどん盤面中央へと吊り上げられていく……。

 そうして、とうとう太郎松の玉将の目の前まで引っ張り出された。


(クホホ、コイツコロス、イマナラコロセルゾ)


 そのとき太郎松の全身が自然に震え上がり、目がくわっと見開いた——


 ダン!


 七十八手目▲5一飛成!


 太郎松は飛車交換をして一気に攻め立てた。


 七十九手目△同金▲5五飛△6四玉、再びの▲5一飛成!


 とうとう太郎松は最強の駒「竜」を手に入れた。

 暴風雨のように暴れるこの「竜」をもう誰も抑えることはできない。

 ここで、宗歩は腹をくくり覚悟を決めることにした。

 まともに攻め合えば、まず勝てない。

 だから無理に暴れず、自分の首を太郎松に預けることにした。


(勝った! 俺は宗歩に勝ったぞ!)


 八十三手目△5二金▲6一龍△6二馬


(なんだ? 馬を引いて粘るのか。しゃらくせぇ。全部受けきって見せるってか)


 唯一の攻め駒だった馬を犠牲にしてなんとか「竜」を消す。

 その代償として本陣が崩壊した。

 宗歩はその後も丁寧に攻めを受け続け、かわし続ける。

 だが、宗歩にはもはや反撃を仕掛ける気力が残っていなかった。


(どうしてこうなったんだろう。何が悪かったんだろう)


 宗歩がぼんやりと盤面を眺めている。

 太郎松は宗歩の玉の方ばかり見ているようだ。


(くそう、なかなか決め手を掛けさせねぇな)


 その時、宗歩の目の前に嘘のような一筋の道が盤上に示されつつあった。


(うん……太郎松の玉将が……あれ、これって?)


 太郎松、百二十八手目▲5四金打ちと王手をかける。


 宗歩は、全く別のことを考えながら△7三玉とさっとかわす。

 太郎松は▲4四金と宗歩の飛車をタダで取った。

 大駒を駒台に乗せるのもこれで何回目か分からなくなってきた。

 太郎松の方もいよいよ疲れ始めてきたのだ。


 だが、これで宗歩玉は「詰めろ」だ。

「詰めろ」とは次に玉が「詰む」状態を言う。

 要するに「詰み」のリーチだ。

「詰めろ」を掛けられた方は、二つしか対処方法がない。

 詰み筋から逃れるか、先に相手を詰ますかだ。


(とうとう、捕まえたぞ!)


 太郎松には、あと十五手で宗歩の玉が詰むことがはっきりと見えていた。


(ああ、勝った! 俺は……天野宗歩にとうとう勝ったんだ!)


 百三十一手目、宗歩は音を立てず△6九桂成といきなり王手をかけて反撃してきた。


(おいおい玉砕かよ。こっちの囲いは金銀三枚。宗歩には持ち駒が結構あるが、盤上の攻め駒が「角」のみではどうしたって詰まんだろうに)

 と、太郎松はこの手を宗歩の苦し紛れと判断し、時間を掛けずに「同玉」と単に取った。

 このまま取らずに右方面へ逃げればと中央に威張っている「角」が最後に絡んできそうな嫌な予感がしたからだ。


(迷ったら取れ。これが俺の性分だ)


 なぜかこのときなぜか、心の中から囁くあの声が聞こえて来なかった。

 いつもの天真爛漫な市川太郎松に戻っていた。


 にやり——


 宗歩が太郎松の方を見て不敵に笑った。


(え……?)


 実はこの盤面、同玉と取った太郎松が十七手で詰まされる局面だった。

 取らずに右に逃げればまだまだの勝負だったのに。

 にもかかわらず、宗歩の玉を詰ますことで頭がいっぱいの太郎松は、自玉が詰まされる可能性を考慮していなかったのだろう。

 自分の勝ちが見えているときこそ、自玉が詰まされる計算が億劫になるものだ。


「う、うそだろ……あああ」


 頓死である!

 まさかの頓死であった!


「ま、参りました」


 観客がざわつき出す。

 急転直下の終局である。


「あの者でも天野宗歩に負けた……。だめだ! おい、撤収するぞ」

「へ、へい!」


 観客席の後ろからずっと見ていた大男と小男がそそくさと退出していく。


「まぐれだ! この勝負、俺が勝っていたんだ。くそぉ!」

「……」


「さ、さぁ。これで本日の興行は終了です。皆さまありがとうございました!」


 司会に無理やり促されて、ざわついていた観客がぞろぞろと帰っていく。

 通常なら対局者に感想を求めるところだが、あっという間の決着に異様な雰囲気に包まれている。

 なによりも——太郎松の剣幕と宗歩の神妙さに一同が気圧された。


「こんなの……俺のほうが強いんだ。たまたま仕損じただけだ!」

「わかったわよ」

「……え?」

「あと九番やってあげる。」

「なん……だと」

「十番勝負よ。私に一回でもあんたが勝てたら。そっちの勝ちでいいわ」


 この時代、世の趨勢を決める対局は数十番指されることが習わしであった。

 一度の勝ち負けでは真の実力かどうかはっきりしないためである。

 過去の有名な事例では、1637年からの初代伊藤宗看と松本招尊の「三十番指し」、1709年からの大橋宗銀と伊藤印達の「五十七番指し」がある。

 前者は将棋家代表と在野代表の雌雄を決する歴史的対決であり、後者は将棋家の次世代を担う天才少年同士の命を懸けた死闘であった。

 勝った者は栄冠を手に入れ、敗者は将棋の表舞台から去ることになる。


 このとき宗歩は、太郎松の本能を恐れていたのだ。

 この男は——将棋の化け物だ。

 負けに動揺している今こそ……徹底的に打ちのめさないと……いつか私はこの化け物に食われてしまう。

 いつの間にか、宗歩の心の中にもあの暗く囁く者が現れ始めていた。


「叩け。この者を今ここで叩きのめせ!」


 勝負師天野宗歩は、幼少のころから兄のように慕ってきたこの男をここで潰すことを覚悟した。


 勝負師の業は悲しくそして深い——


 こうして、天野宗歩と市川太郎松の「十番指し」が始まった——

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