第三十四話 太郎松が天狗になりました

「と、まぁそういうわけで私は太郎松を破門したのです」


 一部始終を語り終えた天野宗歩は目をつむり黙ってしまった。

 全てを話したことで落ち着いたのだろうか。肩の震えはもう止まっていた。

 それまで宗歩の話をじっと聞いていた東伯齋が重い口を開く。


「そんなことがあったんかいな」

「ええ、他人の修行を邪魔するなんて彼には失望しました」

「けど……いきなり破門はちときついなぁ」

「……え?」

「太郎松はんも悪気があってのことやないやろう。宗歩はんと荘次郎のことを心配したからこそのことやないか。それを破門にするのは少々目覚めが悪いわなぁ」

「それはそうですが……しかし——」


 宗歩が何かを反駁しようとしたが、東伯齋は即座に手でそれを遮った。


「まぁ、最後は宗歩はんの決めることやからな。とりあえず先にみんなでご飯食べよか」


 東伯齋はそれだけを告げて、水無瀬がずっと持ち続けていた茶碗に手を伸ばす。

 これ以上ここで話し合っても仕方がないということだろう。


「……」


 釈然としない宗歩はまだじっと東伯齋を見つめていた。

 だが、何かを堪えるかのように湯呑を掴んで茶をぐいっと飲み込んだ。

 水無瀬は慌てて東伯齋に茶碗を渡して、

「そうですわね。さぁ荘次郎さんももう泣きやんで。みんなでご飯をいただきましょうね」と泣き崩れていた荘次郎の肩を抱き起こしてあげた。


「は、はい……ごめんなさい」


 その日の夕餉の雰囲気は、とても暗いものだった——


 ——弐——

 宗歩は離れの自室に戻って風呂に入る準備をしていた。

 体に纏わりつく嫌な感じを湯に入ってサッパリしたかったのだ。

 普段は、男装を解き女の姿に戻って市中の銭湯に足を運ぶことが多い。

 銭湯に行くときの宗歩は、ポニーテールに纏めている黒髪をほどいてはらりと下ろし、肩の下まで揃う髪を自分でまげを結う。

 髷にかんざしを指し、藍色の小袖に着替えてしまえば、「将棋指しの天野宗歩」から「町娘の天野留」にいつでも戻ることができた。

 だが、体調が悪かったり忙しいときは、あらかじめ断って小林家の家風呂を利用させてもらう。

 今日は、その家風呂を使わせてもらうことにした——


 宗歩は、湯船に浸かりながらいろいろなことを考えた。

 大坂にやって来てからもう九ヶ月ほどが経っていた。


(そろそろどこかに家を借りることにしよう―—)


 東伯齋は家が寂しくなるからいつまでも居てくれたら良いと言ってくれる。

 が、そういう訳にもいかないだろう。

 日に日に宗歩のもとを訪れる在野棋士や有力者は増えている。

 染物屋の大広間を毎回借りるのだって、商売の邪魔にならないわけがない。

 内弟子の荘次郎や寅吉の住居だって必要だし、できれば稽古場も用意して収入を少しでも増やしておきたい。


(それにしても上方は将棋家の知名度が思ってたより低いわね。まだまだ地道に普及活動をしていかなくちゃ……)


 地元江戸では「麒麟児」として熱狂的な信奉者も多い宗歩だったが、上方ではまだまだ期待の新人扱いに過ぎない。


 もともとは棋力向上の修行の旅に出た宗歩だったが、今は思うところがあって名人に並ぶ天下無双の将棋指しになることを目指している。

 そのためには京都の大橋柳雪と手を組み、自分が大坂を押さえることで近畿周辺の在野棋士を睥睨できるのではないかと考えていた。


(今後は西国の在野棋士と相まみえることも避けられないし……)


 四国の「剣聖」四宮金吾、中国の「鬼火」香川栄松、九州の「魔王」深野宇兵衛——


(彼らを一挙に叩く方法があればよいのだけれど……)


 宗歩たったひとりでやれることなどたかが知れている。

 将棋家のように複数で事にあたらなければならない時期に来ていた。


(江戸の将棋家にも世代交代の動きがあるようだし、一度師匠にもきちんと話を通さないと、後に禍根が残ってしまうわ)


 宗歩の目の前には——そびえ立つ山のように課題が積まれている。

 

(柳雪様、元気にしてるかな……会いたいな。思い切って会いに行こうかな……)


 ちゃぷん


 風呂の中に顔を沈める。


 突然——


 ガブォバブボゴブクバヴボ―――!

(太郎松のバカヤロー―――!)


 湯の中で思いっきり叫んだ。


(なにが師匠だ。自由闊達とか言っておきながら太郎松のことを全然認めてなかったのは自分じゃないか……)


 自己嫌悪に包まれて泣きそうになったがぐっと堪えて我慢した。

 もう自分は子供ではないのだから。


 外から鈴虫の鳴く音が聞こえてきた。

 もう初秋である。


 ——参——

 湯からあがって寝間着に着替え、自室に戻って櫛で髪を解いていると、「すみません、宗歩様」と外から女の声がかすかに聞こえた。


「はい。なんでしょうか」


 寝間の障子を少し開けると、そこには男物の下駄を履いた水無瀬が立っていた。


「宗歩様、お話しをしてもよろしいでしょうか」

「ええ、構いませんよ」


 宗歩は水無瀬に自室に入ってもらい、座布団をそっと差し出す。

 水無瀬が一人で宗歩のところやって来るなんてこれまでで始めてのことだ。

 一体何の用だろうか。

 水無瀬も風呂から出たばかりなのか顔は紅潮し、肌が火照って少し汗ばんでいる。

 洗い髪に浴衣姿なのがしどけなくて女の自分から見ても相当色っぽい。


「今日のお話、私びっくりしました」


 水無瀬が目を落としながら静かに口を開きはじめる。


「ええ……すみませんでした。いきなりあんな話をしてしまって……」

「いえ、荘次郎もぐっすり寝ていますわ。よっぽど疲れてたみたい」

「すみません。私の指導が不甲斐なかったせいで……」

「宗歩様」

「は、はい?」

「最近少し……頑張りすぎてませんか?」

「え?」

「私は、将棋のことはあまりよく分かりません。けれど、これでも三人の妹の姉です。あなたも私にとっては……その『妹』のようなもの……なのですよ」

「な! なぜ……それを?」

「ふふ、それは私も女ですから。一緒に暮らしていればいろいろと分かりますわ。東伯齋様も承知しております。でもあの人は、『何か深い事情がおありなんやろう。男でも女でも構わへん。宗歩はんは宗歩はんやさかい』といって、知らんぷりしていますわ」

「そうでしたか……。今まで黙っていて申し訳ございませんでした。私は故あって……、男の恰好をして生きているのです」

「そんなこと気にしないでください。うちにも男の子なのに女の格好していた子がいましたから。うふふ」


 そう言って水無瀬が微笑んだ。それにつられて宗歩もクスリと笑う。


「太郎松さんのこと……」

「ええ、私も東伯齋殿に言われて考え直しました。やはり破門は言い過ぎました。太郎松を許そうと思います」

「そうですか。でもそんなに慌てなくても良いと思います」

「え? どういうことでしょうか」

「宗歩様と太郎松さんは長いお付き合い。これまでだってたくさん喧嘩もしてこられたのでしょう」


(そうだ、幼いころいつも私たちは喧嘩をしてた。将棋に負けた私があいつに噛みついたこともあったっけ)


「そ、それはそうですが……」

「きっと今回のことは二人の中でとても大事なことのように思うのです。時間が立てばきっと仲直りもできますわ」

「な、仲直りですか? 師弟だから「許す」では?」

「いいえ、仲直りですわ」


 仲直りなんですと言い続ける水無瀬がおかしくって宗歩はまた笑ってしまった。


(いつも喧嘩したときに笑って許してくれたのは太郎松だった。私はそれに甘えていたんだな。これじゃぁどっちが師匠だか)


 ——四――

 二日後の朝、小林家の屋敷に一通の文が届いた。


『果たし状——天野宗歩様へ将棋天狗より』


 こういった類の手紙はたまに宗歩のもとへ届いた。

 天野宗歩に土をつけることで名を一挙に上げたい者が意外とこの世の中には多い。

 今回もそういった者の一人だろうと宗歩は考えた。


 文を開くとそこにはとてつもなく汚い字で、

「我こそは将棋天狗なり。逆賊天野宗歩を天誅いたします。一週間後の九月二十日のお昼ぐらいに天満の洗心洞で待っていろよ。絶対にです。」

 とだけ書かれてていた。


 なかなか過激な内容である。

「お昼ぐらい」という時間指定が少々曖昧過ぎるが……。

「天誅」と書いてあるからそもそも将棋の対局ですらなく、殺されるのかもしれない。そうなるともはやこれは脅迫状だ。

 ただ、この果たし状に危険がないことが宗歩には分かっていた。

 果し合いの場所が洗心洞だからだ。

 洗心洞は元大坂町奉行所与力の大塩平八郎が経営する私塾である。

 あの大塩平八郎が協力するということはなにか道理にかなった話なのだろう。


 宗歩は、この文を東伯齋にも見せた。

「天誅とは、穏やかやないな」

「ええ、そうですね」

「どうするんや?」

「とりあえず、洗心洞に行って話を聞いてきます」

「そうか」


「ごめんください——」


 玄関から突然声がした。


 様子を見に行った東伯齋が座敷に戻ってくると、その後ろに巨漢の侍が一緒に付いて部屋に入ってきた。

 座って待っていた宗歩が見上げると、

「お久しぶりですな、天野先生」と巨漢の侍が見おろした。

「これは! 大塩平八郎先生! 今しがたお屋敷へお伺いさせていただくつもりでした」


 宗歩は武家に対する礼を示すため慌ててその場で平伏する。


「はっはっは、そんな気をつかわずに。某のところにというのは、あの文のことででしょう?」

「左様でございます。大塩先生ならばこの件について何かご存知なのかと」

「ふふ、実は拙者もその件で参った次第」

「左様でございますか」


 話によれば、昨日とある在野棋士から洗心洞を使わせてほしいと願いがあった。

 その者は以前に洗心洞で興行をした縁を頼ってきたらしい。

 相手が天野宗歩ということで一応了承したが、やはり自分の目でも真偽を確かめようとわざわざ天満から宗歩のもとへやって来たとのこと。


「お心あたりはございますかな?」

「将棋天狗と言えば、京都でそのような輩と対局したことがございますが、その者でしょうか」

「ふむ。かもしれませんな」

「いずれにせよ。将棋の対局ということであれば受けて立つ所存でございます」

「相判りました。では私の道場を提供いたしましょう。東伯齋殿、大変申し訳ないがこの日に予定していた将棋の興行はなしということで」


 すると東伯齋がわざとらしく「しまった」という顔をして、

「あちゃぁ。もう切符を販売してもてますわ。しょうがないから演目を変えましょか」


 こうして、天野宗歩と将棋天狗の興行が決定した——

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