第三十三話 太郎松が独立しました

 突如、小林家の屋敷を飛び出してしまった市川太郎松。

 江戸っ子よろしく勢いよく飛び出したはいいもの、行く当てなぞどこにもなかった。

 すでに夜も更けて、辺りは暗闇の真っ只中である。

 しかたがないから、太郎松はひとまず近所の神社のお社の脇で一夜を明かすことにする。

 夜中に身を明かすべき提灯も持たずに出歩けば、盗賊と間違えられて斬られても文句の言えない時代である。


 太郎松は昼過ぎまでそこで寝て、起きて、またあてどなく歩くことにした。

 そんな彼がようやく辿り着いたのが、難波新地の外れであった。

 遊郭や芝居小屋など庶民の娯楽が集約した一大歓楽街テーマパーク

 そこから一歩でも南へ外れてしまえば、だだっ広い農村地帯が広がっている。

 その境界線上にある寂れた小路地の上で、彼はぽつねんと佇むばかり。


(さてと、とりあえず腹が減ったな。飯屋でも探すか……)


 ふらふらと物見がちに辺りを歩いていると、彼は表長屋に一軒の小料理屋を見つけた。

 軒先には使い古されて無造作に毛羽立った縄暖簾が、だらりとぶら下がっている。

 はっきりいって商売をする気があまり感じられないような店構えである。

 普段ならば到底入る気にもならなかったのだが、なぜか今日はそれががいやに目についたのだ。

 太郎松は暖簾をくぐり店の中へと足を運ぶ。

 中は意外にも広かった。

 ひっくり返した醤油樽を土間に雑然と並べ、その上に木の板を置いただけの簡素なしつらえ。


 愛想のない店主がこっちを一瞥して、すぐに目を逸らす。 

 飯時にはまだ早いこんな時間だ。

 見慣れぬ客がやってきて、正直言って鬱陶しいのだろう。


「……らっしゃい」

「親父、飯くれ。あと酒もな」

「……」


 飯、菜物、汁、漬物、酒


 太郎松が樽にどしりと腰をかけて、白飯を口に放り込んでいると、店の奥の座敷から男たちの声が漏れ聞こえてきた。


「なんやねん、ここで引き下がったら男ちゃうで!」

「そ、そんなんゆうても、この銭だけはかかぁに渡さんと……」

「そんなもん、なんとかなるて。ほら相手さんも飛車角だけやのうて香車まで落としてくれる言うてるやん」


 どうやら賭け将棋の手合いの話をしているのだろう。

 場末の酒場や飯屋では、たまに見かける光景であった。


「うぅーん、でも……この銭まで失ってもうたら、わし……。もう堪忍してください」

「次勝ったらええんやて。なぁ、次さえ勝てば負けた分が全部戻ってくんねんで?」

「せやけど……もし負けてしもたら、それこそぱぁになってしまいますよってに」


 太郎松がふぅっと溜息をつきながら振り向いて店の奥を見る。

 すると、気の弱そうなおっさんが大男と小男二人に説得されていた。


 弱い者を食い物にする、これもまたよくある話。

 太郎松は、弱い奴が悪いんだと考えている。

 弱いくせに不相応な欲を出すから、身を滅ぼすことになるのだ。

 自業自得以外の何物でもない。


「わかった! そこまで言うなら倍増しにしたろ。相手さんの掛け金にわいも同じ分だけ載せたるわ。それでええやろ?」

「よ、四枚落ちで、ば、倍増しでっか……ごくり」


(あ、あいつ、引っ掛かりやがった)


「よっしゃ、決まりや! もう無しはあかんで」

「ああっ! ううぅ……はい」


 気の弱いおっさんの方は左官屋の職人だろう。

 太郎松の親父と同じような格好しているのだ。

 それがなぜか彼の気持ちをささくれ立てていた。

 一方、二人の男たちは派手な色で染めた着流しを着ている。

 察するにとてもまともな商売をしている風体じゃあない。

 恐らくは博徒か、はたまた町人くずれの侠客というところだろう。


(あのおっさん、絶対負けるな……)


 太郎松は、江戸にいた頃の賭け将棋を思い出した。

 銭を賭けて将棋を指すこと自体、彼は嫌いではなかった。

 なぜなら、そこには真剣勝負が必ず生まれるからだ。

 だが、銭を得るためそのためだけに将棋を道具にするようなことはどうしても許せなかった。

 なんだか将棋を食い物にしているようで、耐えられないのだ。


 飯を一気にかき込んだ太郎松は、徳利に入った酒を一気飲みす。そうして奥座敷の様子が見えるところまで音を立てずにそっと近寄った。


 大男は、四枚落ちを指し慣れているようで、どんどん攻めている。

 駒を落とす上手うわてはまず守勢に回ることが定跡。

 なんせ、最初から戦力が少ないのだから攻めても切れることが見えている。


 だが、初心者を相手にする場合だけは、無茶苦茶に攻めたほうが良い。

 どこかで必ず受け間違うからだ——


 冷静に考えれば筋の通らない攻めのはず。

 だが、下手は上級者が指す手をまず信用する。

 表情を変えず、間髪入れず、淡々と指せば、その手が相手には好手に見えてくる。


 初めから勝負がついているのだ。

 将棋盤を前に生身の人間が座れば、それは立派な勝負事。

 決して盤面だけで決着がつくわけではない。

 はったり、ブラフ、猫だまし、相手が仕掛けてくるさまざまな搦め手に動じない強靭な精神力が求められる。


「ああ、なんで……」

「あちゃぁー、大事な駒取られてしもた! 旦那しっかりきばりなはれ!」

「く、くそぉ……」


 もう一つ、駒落ち対局で初心者が陥りやすい心理がある。

 駒を落としてもらった下手は、まず戦力的に圧倒的優位に立つ。


 その優位こそが仇! まさに勝負の仇となる。


 歩一枚でも奪われることが惜しくなり、当初の優位を維持しようと手が伸びなくなる。

 歩を取られ、香を取られ、銀を取られ、角を取られたあたりで、すでに敗勢に回っていると悲観してしまう。

「優位が崩れたところで互角に戻っただけ」とは絶対に考えられない。

 客観的にみればまだ飛車が残っているから十分勝機はあるはずなのに。


 将棋は、生身の人間同士が指す勝負事——

 盤上心理こそ勝負事の本質。

 手練れの棋客ほど、人の心の弱さを容赦なく突いてくる。


 勝負がついた——


「ううぅ、なんでや……四枚も落としてるのになんで……勝たれへんのや」

「あちゃー、おっさんなんで負けてしもたんや。もったいない。せっかくの好機やったのになぁ」


 小男が、にたぁりと笑いながらおっさんの肩に手を掛けた。

 真綿で相手の首を絞めるように少しずつ追い詰めていくつもりなのだ。


「……す、すまねぇ! この銭だけは……堪忍してくれ!」


 突然、おっさんが土下座をして額を地面に擦り付けながら謝りだした。


(あ、これはまずい展開だ)


 小男が自分の耳に手を当てて、

「はぁ?」

「この銭を全部取られたら……俺ら家族は路頭に迷う。長屋の家賃も払われへん。明日から食うに困ってしまうわ。このとおりや堪忍してください!」

「……ふざけんな! どあほぉがぁぁぁ!」


 さっきまで笑顔の小男が豹変した。


「・・・へ?」

「お前が勝手に勝負に乗ったからやないか! 負けたお前が悪いんやど。こっちはなんもイカサマしてへんでぇ。正々堂々あんたと勝負をして、何とか勝ったからこその話をしとるんちゃうんかい。ああぁーん?」

「うう……そ、それは」

「それに儂らの後ろには怖い人もようけおるんやで。銭を失のうて、さらに痛い思いまでしたらあんたの家族も泣くよ。なぁ旦那、せやろ」

「はぁぁん……」


 おっさんが、がっくりと肩を落としてうな垂れた。

 とうとう観念したのか言葉も出ないようだ。


(やれやれ、見ちゃいられねぇ)


 普段なら容赦なく見捨てるはずの太郎松がそっと席を立つ。


「おい」

「あ? なんだお前」

「俺が代打ちをする」

「はぁ?」

「俺がこいつの代わりに指すから、勝ったら銭を全部返してやってくれ」

「いやいや、お前そもそも誰やねん」

「誰でもいいだろう」

「名前も分からん奴と賭け将棋できるかいな」

「将棋……天狗……だ」

「いや……、天狗ちゃうやん。自分」

「な、なんでもいいだろう。我こそは正義の味方、将棋天狗だ」

「……」


(兄さん、どうします? たぶんただのアホでっせ)


(そうだなぁ、条件次第だろうな)


 小男にそう耳打ちして、代わりに大男が口を開き、

「して、そこの御仁。その……将棋……天狗殿か」

「おう」

「天狗殿はいくらを賭けるおつもりかな?」

「こいつが負けたぶんと同じ額だ」

「ちゃんと払えるのか?」

「ほらよ」


 ジャラリ


 金子袋を畳の上に放り投げる太郎松。

 

「ふむ……確かにきっちりあるな。よしいいだろう」

「平手でいいよ」

「……良いのか? 儂は由緒ある伊藤家から二段の允許を貰っているぞ」

「ああ、そうなのか、じゃあ、香車落ちで」

「そうだろう」

 といって、大男が笑いながら自分の左香を落とそうとする。


「いや、そうじゃなくて、こっちが落とすの」

「な、なんだと!」

「よっしゃ始めるぞ、よろしくお願いします」

 と言って、さっさと△7六歩と角道を開けた。


「後悔するぞ……小僧」



 半刻後——


「ま、負けました……」


 大男の開いた口がふさがらない。

 全くの予想外の方向からいきなり切り捨てられたかのような顔をしている。


「ありがとよっと。よし! これで嫁さんに美味いもんでも食わしてやりな」


 太郎松がおっさんの銭袋を茫然としている小男から奪い取り、おっさんに放り投げ返した。


「お、おおきに! ほんまにおおきに!」

「あ、そうだ! あとよ……」

「へ?」

「お前、才能ないからもう賭け将棋はやめろ」

「は、はい……。ありがとうございました」


 そう言って、おっさんはしょげながら店を立ち去って行った。

 大事な銭は手元に戻ってきたものの、「才能がない」と太郎松にバッサリ切られて、どこか物悲しい顔のおっさんであった。


「さて、じゃぁ俺もこれで——」

「待て!」


この場を去ろうとする太郎松を大男が呼び止めた。

突如現れれた謎の男に声を掛ける気になったのはそれほどまでに太郎松が強かったからだ。


「あん?」

「お前……何者だ? この強さただごとではないぞ」

「いやぁ、名乗るほどのもんじゃないから」

「ひょっとして……最近上方で名を挙げている天野宗歩か?」

「は? いやいや違うって、あんなやつと一緒にすんない」

「そうか……、だがこれほどの強さ、あの『麒麟児』と匹敵するのではないか?」

「いや、まぁそりゃ、勝てないことは……ない……かな?」

「なんと! 実はな儂らはここらで昔から将棋の指南をして身を立てていたのだ」


 大男がいきなり太郎松の着流しの袖にしがみつく。


「ところが最近、天野宗歩とかいう江戸の将棋指しが一気に名を上げたせいで見入りが相当厳しくなってしまったのだ。いよいよ道場もたたむしかなくこうして賭け将棋に手を染めるまでに……」


(まぁ、教えを乞うならこんなむさくるしい男より絶対に宗歩だろうなぁ)


(強いし、男でも惚れるくらい美形だし。って女だから当たり前なんだが)


「頼む! 儂たちを助けてくれ!」

「い、いや……なんで俺が?」

「お主は、正義の味方『将棋天狗』殿なのであろう! 悪の手先、天野宗歩を倒してくれ!」と大男が太郎松の袖にぶら下がる。

「頼むよぉ。俺たちを見捨てないでくれよぉ!」


小男まで袖にぶら下がってきた。


「ぐぐ……よぉし! あい分かった。この将棋天狗様が憎き天野宗歩を打ちのめしてやろうじゃねぇか!」


 こうして、市川太郎松は在野棋士として独立することになった。

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