第八章 天野宗歩と市川太郎松

第三十二話 太郎松が破門されました

「私、天野宗歩は、市川太郎松を破門いたしました――」


 その突然の宣言を聞いたのは、小林東伯斎が夕餉をまさに食べようとしていた時のことだった。

 一日の仕事をようやく終えて家族とともに食事を楽しもうとしていたその矢先、居候がのっぴきならない話をしだす。


 (め、飯時になんちゅうこと言うんや……)


 淡々と話す天野宗歩に、小林家の面々は一同息を呑んだ。


 じっと正座している宗歩の目が据わっている。

 沸々とした怒りをあらわにするこんな宗歩を、東伯斎はこれまで見たことがなかった。

 多少激情に駆られやすい性質ではあるが、天然で穏やかな性格こそが宗歩の美点であったはず。


 宗歩の隣に視線を移すと、畳に手をついてわんわんと泣き崩れている渡瀬荘次郎が見えた。

 荘次郎にしても普段から大人しくひ弱で、感情を外には滅多に出さない子。

 一瞬、荘次郎がなにか宗歩に粗相でもしたのかと心配したが、宗歩はさっき荘次郎ではなく「太郎松を破門した」と確かに言っていたはず。


 これはなにか余程のことがあったらしいな――と東伯斎は確信した。


(おい、なんか聞いてるか? 宗歩はん、なんかめっちゃ怒っとるで)


 お櫃からご飯をつごうとしていた水無瀬にこっそりと尋ねてみた。


(い、いえ。私は全く知りませんわ)


 ええい、こうなっては仕方がない。

 東伯斎は意を決して火中の栗を拾うべく、口火を切ることにした。


「そ、それはえらいこっちゃ……。い、一体なにがあったんかな?」


 おそるおそる宗歩に伺うと、

「あの者は――」

 してはならぬことをしてしまったのです、と宗歩は肩を震わせて語りだした。


 ――弐――

 小林家の離れにある座敷では、いつものように宗歩と荘次郎が指導対局をしていた。

 盤上の局面は宗歩の目からすれば、荘次郎の勝ちが見えていた。

 ただし、これから一手も間違えずに指せたらという条件付ではあるが。


 先ほどから苦悶の表情を浮かばせて荘次郎が唸り続けている。

 自分に勝ちがあることをうすうす感づいてはいるが、その道筋に辿りつけない。


(手が――見えていないのだろうな)


 宗歩は荘次郎と毎日のように指導対局を重ねているうちに、その終盤の読みの力に物足りなさを感じて始めていた。

 弟子として取った以上、その成長を望むのが師匠であろう。


 うんうんと唸り続けるものの一向に手が止まった荘次郎に向かって、

「荘次郎さん、今日から毎日私が作った詰め物(詰め将棋)を一題お渡します」

「は、はい……」

「それが解けたら私の部屋まで持って来てくださいね。いいですか。解けるまで決して寝てはいけませんよ」

「はい! わかりました」


 将棋は相手の玉将を詰まさなければ勝つことができない。

 どれだけ優勢を築いたとしても、最後に仕留めそこなえば無に帰する。

 宗歩は、荘次郎に難解な詰め物を解かせて、彼の終盤力を向上させようと考えた。


 指導対局を終えて居間に戻ってきた荘次郎は、早速手渡された詰め物図を睨み始める。

 しばらくの間、思案を続けたが深いため息をついて、そのまま仰向けに倒れてしまった。


「うーん、だめだ……全くわからないよ……」

「菱湖や、大丈夫かえ?」


 同じ部屋で一人でお手玉遊びをしていた錦旗が、心配そうな顔をして近寄ってきた。

 自分のことを以前の名で呼ぶこの小さな家族にまで心配をかけさせてしまったことで、荘次郎の心の中にますます申し訳なさと悔しさが募ってくる。


「錦旗ちゃん……うん、大丈夫。僕がんばるよ」


 荘次郎は、ここで諦めてなるものかと踏ん張って、難解な詰め物に再び真剣に取り組んだ。

 尊敬する師匠が、自分のためを想って言ってくれたこと。

 何よりも天野宗歩自ら考案した詰め物を自分に与えてくださったことが嬉しかった。


 二日経ち、三日経ち、四日が経った――。


 荘次郎は、とうとう寝不足に陥り、疲れきったその顔には目の下に深いクマを刻ませた。

 本格的な将棋の修行がこれほどまでに厳しいものとは、想像だにしていなかった。

 これまでも養父の東伯斎から棋道の手ほどきや心構えを受けてきたはずだった。

 将棋で飯を食うということがどれほど厳しいことか自分でも良く心得ていたつもりだった。


(自分には将棋の才能がないんだろうか……)


——お前が解けるまで私も寝ないよ


 師の言葉が、宗次朗の肩に重くのしかかってきて、一層焦りを募らせる。

 

(自分が辛いのは何とか我慢できる。でも師匠のやつれた顔を見ると……忍びない)

 

 宗次朗の心の中が少しずつ影り始めた。

 

 ――参――

 昼間から母屋の縁側でうつらうつらとしながらも荘次郎は詰め物を諦めずに解き続けていた。

 そこに、店の用事で出かけていた太郎松が偶然帰ってきた。


「おう、荘次郎じゃねぇか、……何してんだお前。って、なんだかやつれてねぇか?」

「あ、太郎松様。いえ……これしきのこと大丈夫です」

「おいおい大丈夫って感じじゃねぇぞ。目はうつろだし顔色も悪いじゃねぇか」

「本当に大丈夫なんです!」

 

 そう言って、荘次郎は縁側から走り去っていってしまった――



 その夜、屋敷の離れの自室で、棋譜並べをしていた宗歩に太郎松が声を掛けた。


「おい、宗歩よ」


 宗歩が不意に声を掛けられて、きょとんとした顔をしている。


「どうしたの?」

「今日の昼間のことなんだけどよ、荘次郎の様子が少しおかしかったんだ……ってお前もなんだその顔!」


 暗がりで良く解らなかったが、宗歩の顔をよく見ると、その顔はやつれ切っており、表情からは疲労困憊の色が見えていた。


「ああ……大丈夫だ。問題ない」

「問題ないって顔じゃねぇぞ。なんかの病かもしれねぇし、医者に看てもらったほうがいいんじゃねぇか?」

「ああ、少し寝不足なだけだから。心配してありがとう」

「そうか……あんまり無理すんじゃねぇぞ」

 

 そう言いながらも、太郎松はこれは二人の間に何か隠し事があるなと推測した。


 荘次郎は夜中まで詰め物に取り組んだあと、明け方頃になってようやく宗歩の部屋に持ってくる。

 宗歩がその答えを確認し「よし、解けている」と言われて、荘次郎ははじめて床につけた。

 しかし、宗歩の方は日中も多忙だからそのまま眠ることが許されない。

 最新の定跡研究、在野棋士や有力者との交際、寅吉など他の門人への指導など、なすべきことは山ほどあった。


(周りからは「先生」なんて呼ばれているけれど、自分なんてまだまだ大したことないわ)


 独立し、弟子を取るということがこれほど大変なことかと、宗歩にしても思い知らされていたのだ。

 一瞬、師匠の大橋宗桂の顔が頭によぎった――

 将棋家を託された師匠が、多忙の中でも自分を指導してくれた有難さが、今になってなによりも骨身に染みる……。


(黙って弟子を取ったこと、師匠にちゃんと謝りにいかなきゃな……)



 翌朝のこと、太郎松が縁側に座っている荘次郎を再び問い詰めた。


「おい、荘次郎」

「は、はい!」

「お前最近様子がおかしいぞ。なんか隠してないか?」

「い、いえ、隠しごとなどございません」

「じゃあ、何で宗歩もお前もそんなにやつれきっているんだよ」

「いえ……そ、それは、この……」

「なんか明け方に宗歩の部屋に入っていくし……はっ! お、お前ら……ま、まさか……」


 二人を怪しんだ太郎松は、実は昨晩寝ずに宗歩の様子を見張っていた。

 すると明け方に、母屋から荘次郎がコソコソやってきて宗歩の部屋へと入っていき、しばらく経つと頬を紅潮させて出てくる荘次郎を目撃していたのだ。


「ち、違います! 誤解ですよ、太郎松様!」

「師匠の立場を利用して弟子とそんな淫らなことを! ええい、あいつめ許さんぞぉ!」

 

なぜか宗歩の方が荘次郎を手篭てごめにしたと勝手に決め付けている。

  

「だから誤解ですって! 私はただ……詰め物を解いていただけなんです!」

「つ、詰め物?」

「そうです。師匠に言われて詰め物を解いていたのです。解けない限り眠ってはいけないと」

「それはまた、きっつい修行だなぁ……」

「私が解くのが遅いせいで、師匠まで寝不足になってしまって……うう……うぅ」


 荘次郎がいきなりめそめそと泣き出した。

 慌てて太郎松が事情を聴いてみると、荘次郎ももうどうしていいかわからず悩んでいたらしい。


「そうか……よーくわかった。ここは兄弟子の俺に任せておけ」

「え、本当ですか! 太郎松様」

「ああ、ようするにお前たちの寝不足を解消してしまえばいいんだな」


 と言って、太郎松は荘次郎が握り締めていた詰め物図を取り上げた。


「あ! 何をするのですか」

「なーるほどね。ふんふん……おっと、ここに引っ掛けがあるな、あいつめ……っとよし解けた」


 太郎松は、荘次郎が何時間も解けずにいた詰め物を、ものの数分で見事に解いてみせた。


「す、すごい……」

「いや、まぁ。ほら俺、終盤得意だからさ。それにあいつのことも昔から良く知っているし。あいつがどんなこと考えているのか全部わかっているんだよ」


 がははと豪快に笑いながら、太郎松は荘次郎に詰め物をひらりと返す。


「ほら、これで今日は二人ともぐっすりと寝られるぞ」

「本当に、本当にありがとうございました!」


 荘次郎もようやくこれで師匠に休息を取っていただけると安心し、ほっと息を吐いた。



 その晩のことである。

 太郎松の部屋に宗歩が突然入ってきた。


 バン!


 障子が思いっきり開いて、ものすごい音が出た。

 宗歩の顔が鬼のような形相だ。


「太郎松……あんたなんてことしてくれたのよ」

「へ?」

「へ、じゃないわよ! 荘次郎に詰め物の答えを教えたでしょうが!」

「いや、それはお前らが寝不足で困っているだろうから……」

「困ってたんじゃないの! 修行してたの! わかる?」


 ものすごい剣幕で宗歩に詰め寄られ、太郎松の口がぽかんと開く。


(や、やべぇ。こいつ我を忘れて女言葉になってやがる。滅茶苦茶怒ってるわ……)


「荘次郎に答え教えちゃったら何のために修行してるのか分からなくなるでしょう! あんたそんなこともわからないの?」


 いきなり説教を始めだした宗歩の物言いに、さすがの太郎松もカチンと来た。


「お、俺には修行なんてもんが分かるわけ無いさ。本能だけで指してるんだからな」

「本能……あんた、そうやって努力することから逃げているだけじゃないの?」


 宗歩の冷たい言葉が太郎松の心にぐさりと刺さった。

 宗歩が真剣な顔つきで太郎松を見つめる。


「太郎松。ねぇ聞いて。あんたは確かに棋才に恵まれている。手の見え方が尋常じゃないくらい早いのも知っているわ。私は、才能だけでここまで指しこなせている棋士を他に知らない。」


 宗歩の声にどんどん感情が乗ってきて、少しずつ息をつまらせ始める。


「でもね……。荘次郎は違うのよ。あの子はあんたほど手が見えない……。真面目だから努力して少しずつ強くなっているけど……。あの子は今大きな壁にぶち当たっているの」

「大きな壁……?」

「その壁を自分で乗り越えないと何も意味がないでしょう?」


 太郎松は宗歩と荘次郎の間に自分にはわからない何かがあることに気がついた。

 だが、その何かが結局分からずに嫉妬した。


(ああ、俺にはわからないんだよ。最初から強かった俺には努力ってもんがわからないんだ)


「お、俺は壁なんか乗り越えたことがねぇから。もともと最初から強かったし、手が見えちまうんだから仕方がねぇじゃねぇか! くそぉ、俺はただ・・・・お前らがしんどそうだったから助けてやっただけだ!」


 昔、宗歩に感じていた強い劣等感が太郎松の心の中に蘇ってくる。

 長い旅の中でようやく整理できたはずの己の運命が、再び目の前に立ち塞がっているのを見て、彼はひどく狼狽した。


「もういい」

「は?」

「あなたを……破門します」

「……なんだと」

「自分の棋風や才能しか理解できない人は……私の門下に必要ありません」


 太郎松の無邪気さは、ときに人を傷つけ駄目にしてしまう――

 そのことを彼にわかってもらえない、そんな悔しさが宗歩の胸から込み上げてきた。

 気づくと、宗歩の目に大粒の涙が浮かんでいた。


「……本気なんだな」

「……ええ、本気よ」

「わかったよ。じゃあ、これまでだ。あばよ」


 それだけ言って、太郎松は屋敷を去っていった。

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