第三十六話 太郎松が入門しました
終局直後から宗歩はずっと考えていた。
太郎松が何かに取り憑かれたかのように指していたこと。
自分もその雰囲気に飲み込まれ、何者かに語られたこと。
(これは……まさか、ひょっとして――)
昔、宗歩は「棋才」にも様々な種類や特徴があると師匠に教わったことがある。
「早熟」「晩成」「早見え早指し」「長考派」「受け師」「攻めっ気」「戦略家」「発明家」「本格派」「異能派」「分析派」「妖刀」「剃刀」「光速の寄せ」「捌きの達人」など名付けられた異名は数々あった――
太郎松が棋才「早熟」を有していることは、将棋を覚えてすぐに棋力が向上したことから見てもほぼ間違いないだろう。
だが、稀に一人の将棋指しが複数の「棋才」を所持する場合があるらしい。
(太郎松に囁きかけた本能の正体——それは棋才「真剣師」だ)
真剣師とは、将棋や囲碁、双六を賭け事にして生計を立てる者をいう。
数多ある棋才の中でもひと際異彩を放つ「真剣師」——
棋才「真剣師」は賭けられたものが大きいほどその能力を発揮する特性がある。
そして「真剣師」の将棋はとにかく勝負に辛い。
盤上だけでなく番外戦術も含めて勝負に徹し、脅威となる相手には劣等感や心の傷まで植え付けようとする。
眠っていた太郎松の「真剣師」が天野宗歩という稀代の天才を前に覚醒し、さらに宗歩にまで影響を与えてきたと、宗歩は考えていた。
「十番勝負よ。私に一回でもあんたが勝てたら。そっちの勝ちでいいわ」
「なんだと……」
終局から時間が経ち、宗歩の心も少しずつ落ち着いてきた。
(「真剣師」は恐ろしい棋才。しかも私に影響を与えるほど強烈なもの)
このまま「真剣師」を制御できない太郎松を放っておけば、いつか真剣勝負で身を滅ぼすことになるだろう。
それはまるで自らの魂が発する業火に包まれて焼かれ死ぬかのようだ。
(さっきの対局で太郎松が頓死したことから見て、「真剣師」はまだ完全に覚醒していないはず……)
太郎松が生き残るためには、自分の手でこの「真剣師」を制御するほかない。
(だからこそ、私がここで彼を打ちのめす——)
荒ぶり燃え盛る魂に「敗北感」という冷や水をかぶせることで力を弱らせ、その隙に制御を試みる。
そのためにもまずは、太郎松に圧倒的な勝利を目指す必要があった。
(負ければ、私は「真剣師」に飲み込まれて廃人になるかもしれない……)
(それでもいい。私は……彼を救う!)
――弐――
大塩平八郎が理解してくれて、残りの対局も洗心洞で行われることが決定した。
全部で九局。早指しで進めても決着はおそらく明け方頃になるだろう。
「水無瀬お姉ちゃん、私ここに残ってみんなの夕餉作るわ」
玉枝が真剣な顔で水無瀬に懇願した。
この子はきっと真剣勝負に臨む太郎松の力になりたいのだろう。
水無瀬はそんな健気な妹の気持ちを汲み取って、
「そうね。たしかに女手も必要ね。私はお店の準備があるから錦旗と屋敷に戻ります。皆さんのことどうかよろしくね。頼みましたよ」
そう言って水無瀬が玉枝の肩に手を当てると、彼女は黙ってうなづいた。
第二戦目は、終盤に入る直前に太郎松に見落としがあり、百二十九手で宗歩の勝ちとなった。
「くそぉぉ! もう一回だ!」
太郎松が悔しさのあまり大声で吠える。
目覚め始めた本能の赴くまま勝負に徹しているのか周りが見えていないようだ。
(ハァハァ。太郎松の見落としがなかったら危なかった……)
第三戦目は百五十一手、第四戦目は百十九手でいずれも相当きわどい勝負だったが、辛くも宗歩が勝ちをもぎ取った。
「グゥ、オノレ。まだまだぁ!」
「絶対に……絶対に負けられないのよ……」
四戦目が終わったあたりから、宗歩の顔色が一気に悪くなっていた。
対局中もたびたび席を立って
「ぐえぇぇ。うぅぅ」
宗歩は厠の中で胃の腑の中のものをすべて吐いた。
ふらふらと座席に戻ってからも激しい咳とえずきが止まらない。
度重なる真剣勝負に疲労と緊張が頂点に達し、心よりも体が先に悲鳴を上げているのだろう。
この時点で、日付けが変わる。
講堂には大塩平八郎、東伯齋、荘次郎、寅吉が勝負の行方をじっと見守っていた。
「お待たせしました! 皆さん夜食ができましたよ」
台所から戻ってきた玉枝が、盤面を睨み続ける宗歩と太郎松の側へと近づく。
「宗歩様、太郎松様、お疲れでしょう。どうぞお召し上がりくださいませ」
と、健気な笑顔を見せつつお盆に並べた握り飯を二人に差し出した。
「……もぐもぐ」
太郎松は玉枝の方を一切振り向かずに黙って握り飯を掴んでほうばる。
(こんな怖い太郎松さん、私見たことないわ……)
「はぁ、はぁ、ありがとう……玉枝さん」
と、宗歩は苦悶の表情の中に微笑みを浮かべて礼を言った。
よほど辛いのか握り飯にはほとんど口につけずに盤上ばかりを見つめている。
(なんでなん? なんでこんな辛い思いしてまで将棋を指さなあかんのや?)
夜食休憩が終わってから、二人は厠に行くとき以外盤面から目を離さなかった。
第五戦目、八十九手で宗歩が勝った。
これまでと打って変わって太郎松に良いところのない将棋だった。
これで五連敗となり、太郎松の顔から闘争心が消え憔悴の色が浮かんでいる。
勝負の流れががらっと変わった——
宗歩が太郎松の「勝負師」を徐々に抑え込み始めたのだ。
(俺はもう宗歩に勝てないのか。結局この程度なのか)
(なんとかこのままの勢いで……いけるか……)
宗歩は勢いづいたまま、第六戦目は百三十一手、第七戦目は九十七手、第八戦目は八十七手と立て続けに連勝する。
そして、とうとう第九戦目も百三十一手で宗歩が勝利した。
何度挑戦しても勝てないほどの棋力差を「手合違い」という。
第九戦目まで香車を落とした宗歩がすべて勝ったということは、そもそも宗歩と太郎松の実力は手合違いということを意味していた。
ふいに太郎松が講堂から外を眺める。
すでに空は明るくなっており、朝を迎えていた。
気づけば太郎松の心の中も目の前の青空のように静かに澄み渡っていた——
最後の一戦だけは太郎松が勝った。
第一局目と途中まで同じ展開だったが、その後二転三転する熱戦を、最後の最後で太郎松が勝負を制したのだ。
目先の勝負に囚われない「真の天衣無縫」と言うべき太郎松らしい将棋だった。
「負けました……」
精も根も尽き果てた顔の宗歩が、太郎松に頭を下げた。
「宗歩……」
名を呼ばれた宗歩は、覚悟を決めて太郎松の顔を見上げた。
しかし、そこには「真剣師」に取り憑かれた険しい顔の太郎松はいなかった。
宗歩が昔から知っている穏やかで優しいあの太郎松がいたのだ——
「ありがとうございまし……」
と、太郎松が宗歩に頭を下げようとした瞬間――
バタンッ!
「お、おい! だ、だいじょうぶか太郎松!」
突然盤面に突っ伏した太郎松を見て、宗歩が悲鳴を上げる。
「太郎松さん!」と玉枝もすぐに駆け寄った。
「zzzZ、ぐぅ。すぴー」
「こ、こいつ。ね、眠っているのか?」
「はぁーほんまびっくりしたわぁ。もぉ。」
――参――
ばったりと昏睡してから暫くして太郎松の目がようやく覚めた。
どうやら対局中の詳しい内容ははっきりと覚えてないらしい。
だが心の中にあったもやもやが、今は消えてすっきりしているそうだ。
洗心洞の内庭を眺めながら縁側に宗歩と太郎松が並んで座っている。
その後ろの客間には他の者が二人を静かに見守っていた。
「あのさ……、太郎松」
「なんだ?」
宗歩が太郎松に優しく微笑みながら、
「将棋で頑張っている者に、将棋は決して悪いようにはしないんだぞ」
「……」
「他人の才能を妬ましく思ったりするのは仕方がない」
「……」
「でもそんな弱い自分ともなんとか折り合いをつけて、腐らずに努力を積み重ねる大切さをお前には分かって欲しいんだ」
「……ああ、そうだな。本当に……お前の言うとおりだよ」
太郎松がそうだな、そうだなと何度もうなづきながら一筋の涙を流した。
「太郎松、私はね。名人になりたくて将棋家に入門したんだ。太郎松が私に教えてくれたのだろう?」
「ああ……覚えているぜ。将棋が一番強いのは名人ってやつか」
「そうだ。私には将棋しかない。だから私は一番強くなりたいというごく単純な理由で名人を目指したんだ。だけど、名人とはそもそも一体何なんだ?」
「……」
「名人は強いだけの存在じゃない。もちろん将棋家を守るための存在でもない。ましてや誰かに褒められるためになるものでもない。」
「じゃあ名人てのは……お前にとってなんなんだ?」
「私にとっての名人とは——」
——次の世に将棋を残すべき使命を負った者だ。
「将棋を次の世に残す?」
「民のいない国に領主がいる意味がないように、将棋を指す者がいない国に名人もまた存在する意味がないんだよ」
私はそれを大橋柳雪様、小林東伯齋殿、大塩平八郎先生と交流する中で学んだよ、と宗歩は言った。
「王が民を守るために存在するように、名人も将棋を指す者を守るために存在すべきなんだ」
宗歩の声が徐々に熱を帯びてくる。
「ところがいつの間にか名人は将棋家を守るだけの存在になってしまった」
大橋柳雪は、既得権益となった将棋家を守る名人に意味はないと宗歩に教えた。
「飢饉や政治腐敗のせいでこれからは暗く厳しい時代になる。私たち将棋指しがやらなければいけないことは、そんなときだからこそ将棋の楽しさを伝えることなんだ。そこには名人とか将棋家なんてものは必要ないんだよ」
東伯齋は、将棋が強いだけの名人になんの意味もないことを宗歩に教えた。
「私は——」
宗歩がみんなの方を振り向いて、一気に声を上げる。
「天下無双の将棋指しとなり、将棋の魅力を世の人々に知らしめ、将棋そのものを次の世に残したい」
知行合一。
大塩平八郎は、理想を説くだけでなく実行に移すことの大切さを宗歩に教えた。
「私は名人にならなくとも『次の時代に将棋を残す者』になりたい」
「ようゆうた!」
東伯齋や他のみんなが宗歩に拍手をする。
宗歩が少し照れながら太郎松を見て、
「太郎松……、私の夢を……その……手伝ってくれないだろうか?」
「俺は……またお前と一緒に将棋を指してもいいのか?」
「ああ! もちろんだとも!」
宗歩と太郎松がしっかりと互いに手を握り合う。
仲直りの印だ——
宗歩も太郎松と一緒に泣いている。
後ろで見守っていたみんなももらい泣きをしていた。
「みんな、またよろしくな! 宗歩門下筆頭の名に恥じぬよう俺はがんばるよ!」
――沈黙
「……何を言っているんだ、太郎松?」
「え?」
「弟子の序列は入門順というのが習わしだろう? お前は『三番』弟子だぞ」
破門の取り消しではなく、再入門だからというのが宗歩の理屈らしい。
「太郎松サン、ワタシのことアニキと呼んでくれていいデゲスヨ」と二番弟子の寅吉がにやつきながら言う。
「ぼ、僕のことも『お兄ちゃん』って呼んでください!」と弟子筆頭に自動昇格した荘次郎も言う。
「……」
こうして、市川太郎松は天野門下に再び入門をした!
将棋指しが死ぬ直前に指した対局のことを「絶局」と言う。
後年の天野宗歩は、病死する約二か月前にこの「絶局」を指している。
記録ではたった二十七手で指し掛けとなってしまったその絶局の対局相手こそ——
市川太郎松との香落戦である——
――弐――
数日後の小林家の客間——
宗歩と太郎松が将棋盤を前にして、なにやら難しい議論をしているようだ。
「太郎松、そこは攻めるべきだったな」
「いや宗歩よ、ここは守るべき局面だろう」
あれから仲直りをした二人は、こうして毎日のように将棋を指していた。
あーでもない、こーでもないと互いの指し手を評論しあうその姿は、まるで付き合い始めた恋人のようでもあり、幼かった頃の二人に戻ったかのようでもあった。
「うーん……、ここで守るのは私はちょっとおかしいと思うんだけどなぁ」
「いやいや、守る一手だって」
「でもね、ここで受けてたら端を破られてそのままジリ貧になるだけじゃない?」
「そんなことないぜ。絶対に受けきれるって」
「……一体どういう理屈でそうなるのよ。あんた、定跡ちゃんと勉強してるの?」
「はぁ? 理屈とか定跡なんかじゃねぇよ。俺の本能がそう囁くのさ!」
「本能じゃわからんでしょうがぁ! ちゃんと指し手を具体的に言ってよね!」
「うっせぇなぁ! そんなもん分からんわ! 直観だよ、お、れ、の直観!」
「……太郎松……」
「……なんだ?」
「あんた、やっぱり破門よ!!」
横で見ていた荘次郎と寅吉が、やれやれと両手を上げて溜息をついた。
(第八章 完)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます