第壱話 再開②
江戸期の名人は家元制であり、大橋本家、大橋分家、伊藤家が名人位を約二百年間独占してきた。
つまりこの時代、名人を目指す者は将棋家に生まれるか、養子になるかのどちらかしかない。
天野宗歩は文化十三年(1816年)十一月に生まれ、江戸本郷の菊坂町で町民の子として育てられた。
僅か五歳で大橋本家に入門し、十一歳で初段に昇段するなど非凡の棋才を見せつけた宗歩は周囲から『麒麟児』と評され、将来は名人かという噂すら出た。
だが、宗歩の心は霧がかかったように晴れなかった——
将棋は勝ち負けがはっきり決まる技芸である。
他の家元制をとる能楽や茶道と比べて実力差が如実に現れやすい。
物心ついたときから将棋漬けの宗歩は、「家柄や年齢ではなく純粋に強い者こそが一番偉い」と素朴に考えていた。
しかし、現実は違っていた。すべてが世襲の時代である。
さすがに名人となるべき者には相応の実力が求められたが、七段、六段など高段には将棋家の血を引くという理由だけでその地位につく者もいた。
宗歩は、「棋界の重鎮」と評される彼らと対局するにつけ、強い違和感を覚えた。
カチリ!
柳雪の飛車が左辺に回り込む際に自駒と重なり高い音が鳴る。
△3二飛車
「三間飛車」である——
振り飛車の中でも特に軽く早い攻めを重視する戦法だ。
一方で王将は飛車と反対側に位置し、堅陣「美濃囲い」に収まろうとしている。
宗歩が距離を図るために1筋の端歩を詰めた矢先、「遅い」と言わんばかりに柳雪が銀を斜め前に繰り出す。
△3四銀!
柳雪の飛車、角行、銀将、歩が3筋に連なり、宗歩の陣営を一気に攻め潰す体制が整われつつあった。
……さぁどうしますか? 宗歩さん。
柳雪が宗歩の着手をじっと待ち続けている。
互いの動きを牽制し合うような応手が数手続いたあと――
(うん。いける!)
宗歩はぐっとその手に力を込めて飛車を前に浮かせた。
さらに右側の銀も繰り出し、桂馬も前へと跳ねていく。
柳雪の攻めに対して全ての駒で受け切る姿勢を見せたのだ。
「さて……、では行きますよ」、と柳雪が冷静に呟く。
△4五歩
「よし! ここだ!」
タン!
▲同桂
宗歩の右桂がここぞとばかりに一気に跳躍した。
互いの駒達が躍動し始める——
もう止まらない。
柳雪は即座に△8八角成と角交換したうえで歩を突き捨てて攻めを繋げていく。
柳雪の得意とする「
(——くっ!)
宗歩は柳雪の苛烈な攻めを受けながら反撃をうかがっていた。
雨はまだしきりに強く降り続いている。
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