第一章 大橋柳雪

第壱話 再会①

 ――壱――

 天保四年(1833年)六月。


 雨が積み上がっていた。


 全国で大雨が二ヶ月以上も降り続いていた。

 増水した川という川が氾濫し、家屋や田畑が水に流され、そのまま村が壊滅する。

 その中でも奥州の被害は凄まじかった。

 困窮を極めた村人がやむおえず身内を殺し、屍肉を喰らう。

 そういった惨状が、江戸にまでとどいていた。

 老中を始めとする幕閣たちは、五十年前にも同じようなことが起きたことを知っていた。なぜなら幕府の歴史とは、飢饉との闘いの歴史だったからだ。


 だから――彼らは知っていたのだ。


 この長く続く雨が止んだあとに、今度は山から冷たい風が吹きつけることを。

 それは、微かに生き残った田畑に何ヶ月もの間吹き続ける。

 農民たちがせっかく植えた作物はもう育たないことがすでに見えていた。


 だが――それを知っているということと、それに対して行動ができることはそもそも違う。


 飢饉への対策を徹底した老中松平定信による「寛政の改革」。

 既に四十年もの時が流れ過ぎ、質素倹約を是としたその精神は風化の一途をたどっていた。

 

 このままでは間違いなく、未曾有の大飢饉がやって来る。


 幕府や全国諸藩の備蓄米は、おそらくあっという間に尽きるだろう。

 

 そう。世に言う、「天保の大飢饉」の始まりである――

 

 この飢饉こそが、二百五十年続いた徳川将軍家の盤石の礎に、決定的な亀裂を生むことを、今はまだ誰も知らない。


 ――弐――

 いっこうにやむ気配のない雨に打たれながら、天野宗歩は足取りを少しずつ早めていった。

 朝から降り始めた雨が、徐々に強くなってきたからだ。


(まずいな……。急がなければ)


 上方の中心地である京の都から鴨川に沿ってしばらく南下したところ。

 そこに伏見ふしみがある。

 宗歩は、将棋の武者修行のために、故郷の江戸から東海道を歩き続け、はるばるこの京までこのやってきた。

 だが、この旅もあと僅かだ。

 

 宗歩はすれ違う往来の人々から、江戸と上方の違いに気がついた。

 話し言葉が違うのだ——。

 抑揚があってテンポもある、まるで唄でも歌っているかのようだ。

 生まれたときから江戸しか知らない宗歩にとって、この旅は何もかもが新鮮だった。

 そんな旅ももうすぐ終わると思うと少々寂しくも感じる。


柳雪りゅうせつ様、お元気だろうか……」


 降りしきる雨の中をしばらく走り続けたあとようやく伏見に入る。

 直違橋すじかいばしを渡った深草寺内町の中に宗歩の目指す屋敷が見つかった。

 その屋敷は、母屋と庭を合わせてもそれほど広くはないが、植木も手入れされており、静謐せいひつな印象を受けた。


 宗歩が門の前に立ち、「御免ください」と声を張って暫く待っていると、静かに門が開いた。


 門の奥に、一人の男が立っていた——

 

 総髪の髪は漆黒で背中まで長く、瞳は氷のように透き通っている。

 唇だけがほのかに紅い。美丈夫である。

 確か齢四十に届くかどうかだったはずだが、全くそうは見えないほど瑞々みずみずしい。


 この男の名は、大橋柳雪という——

 将棋家元の一つ「大橋分家」出身で、段位は通常の棋士にとって最高位の七段。

 そして、幼少のころから天野宗歩が、「将棋の技術上の師」として師事し続けた男でもあった。


「お久しぶりですね。宗歩さん。よく来てくださいました」


 顔を明るくした柳雪がそう言って、宗歩に微笑みかけた。


(ああ良かった、柳雪様はお変わりなかった)

 

 将棋家元の出身でなかった宗歩にとって、その修行時代は天才ゆえに風当たりも相当強く、辛く厳しいことも多かった。

 そんなときでも何かと心を砕き、事あるごとに宗歩を庇護してくれたのが、この大橋柳雪七段だった。

 将棋の手ほどきも数え切れないほど受けていた宗歩にとって、柳雪は父でありまた兄のような存在でもあった。

 そんな宗歩が久しぶりに柳雪に会ったことへの気恥ずかしさからか、何も言えずにもじもじしていると、

「まぁずぶ濡れではないですか。風邪を引いてしまいますよ」


 柳雪は、雨に濡れきった宗歩の姿を見て慌てながら、屋敷へと招き入れてくれた。


「すぐに着替えを持ってこさせましょう。おーい」


 柳雪が玄関口から呼ぶと若い女中が一人駆け付けてきた。


「はーい」


(この人はいつだって優しいなぁ。あんなことがあったというのに……)

 

 大橋柳雪は、 かつて名人にまで手が届く所にいた者だった。

 

 名人とはこの世にたった一人しかいない将棋の頂点に立つ存在。

 一度名人が誕生すると、死ぬまで次の名人が現れることはない。


 だが、ある事情により柳雪は名人になることを諦めてしまった。

 今はこうして、江戸の将棋家元から去って京の都で一人隠居をしていた。


 宗歩はそんなことを思いながら、玄関口で駆けつけてきた若い女中から着替えの着物を受け取る。


「いらっしゃいませ。天野宗歩様」

 そう言って、宗歩の顔をまじまじと見てくる。

 女中にしてはいやに艶っぽく、そしてものすごい美人だった。


「ひゃうん!」


 突然、宗歩が飛び上がって奇声を上げた。

 女中が後ろに回り込んできて、宗歩の腰の付近を撫でまわしてきたからだ。


「よろしかったら、お着替え手伝いましょうか? うふふ」

「い、いえ。自分でやりますから!」


 恥ずかしそうな宗歩はそそくさと奥土間の方へ隠れ、濡れた着物を着替えた。


 その後、女中に奥座敷へと案内され、そこに座って待っていた柳雪に改めて挨拶をする。


「ご無沙汰しております、柳雪様」

「本当に久しぶりです。ずいぶんと大人になりましたね。」

「今年で十八になりました」

「そうですか。月日が経つのは早いものです……」

「五段への昇段を伊藤名人に允許いただき、さらに腕を磨くために諸国を巡るお許しもいただきました」

「なるほど。はるばる江戸からの長旅でお疲れでしょう。今日はひとまず休んでください」

「いえ、まずは手始めに柳雪様とお手合わせに参りました」

 

 宗歩が勇んで伝えると、「ふふ、相変わらず単刀直入ですね」と柳雪は愉快そうに笑った。


「よろしい、それではまずは一局指しましょうか」

 

 そう言うと、柳雪は脇に置かれていたかやの将棋盤を二人の前にすっと置いた。

 そうして綺麗な模様の駒袋を取り出しその紐を解き、盤の上にくるりとひっくり返す。


 四〇枚の黄楊つげの将棋駒がじゃらじゃらと振るい落とされ盤上に散らばる——。

 駒の弾ける音を聞くと、宗歩は何とも言えない高揚感に包まれた気持ちになった。

 そして、駒の山から長年使い込まれて飴色に輝いた玉将を掴んだ。


 将棋とは、八十一升の将棋盤の上で、王将、飛車、角行、金将、銀将、桂馬、香車、歩兵の八種の駒を操り、相手方の王将(玉将)を捕縛する盤上遊戯である。特徴は、取った相手の駒を使用できること。

 

「あなたと将棋を指すのも四年ぶりになりますね」

「はい……本当にこの日を待ち望んでいました」


『よろしくお願いします』


 互いに一礼し、深呼吸を重ねる。

 盤上を見てみると、柳雪の陣地には左側の香車が最初から存在しなかった。


 この時代の将棋の対局は、「駒落ち戦」が主流であった。

 駒落ち戦とは、対局者の棋力を示す段位の差によって、上手うわての駒を最初から落とすハンデ戦のことをいう。

 この時点の二人の段位は、大橋柳雪が七段、天野宗歩は五段。

 よって二段差であれば、柳雪が左右どちらかの香車を一枚落とす決まりとなっていた。

 「香車落ち」というのは、駒落ち戦の中でもハンデが最小である。

 ちなみに最大は「十枚落ち」、上手は王将と歩のみで戦うことになる。

 「香車落ち」ということからも、宗歩が柳雪の実力に迫っていることがよくわかる。


 上手の柳雪が駒を落とす代わりに先に指す決まりとなっているため、柳雪は△3四に「歩兵」を進めて角道を開けた。

 将棋の初手としては最も多い着手の一つである。

 

 ここで棋譜の読み方を解説する。

 まず、将棋盤は縦九升、横九升の八十一の升目で構成されている。

 この升目の「縦の列」ことを「筋(すじ)」といい、下手から将棋盤を見て右から1筋、2筋、3筋……と数える

 そして、升目の「横の行」のことを「段(だん)」といい、こちらも下手から将棋盤を見て上から一段、二段、三段……と数えていく。


 ではたとえば、「△3四歩」ならばどう読むか?


「△(上手)が、3筋と四段が交差する升目に、『歩兵』を進めた」という意味となる。


 バチン!


 座敷の中に、二人が指す高い駒音と強く降り続ける雨音だけが響き渡った——

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