第零話 プロローグ

「御問合せの儀、例へば宗英は雪の白きが如く、宗歩は紅の赤きが如し――

 第十一代大橋宗桂」



 最初の記憶はずっと泣いているところ。


 ――おや、どうして泣いてるの?


 誰かにそう聞かれたけれど悲しすぎて答えられない。


 ――お母さんはどこ? ねぇ、あんた見慣れない子だね。一体どこの子だい?


 緋色の着物を着た優しそうな女の人が、心配そうに聞いてくれた。


 ――お母さんは……いません。


 ひとしきり泣いた後、私はやっとそれだけを答えることができた。


 ——いませんって……。じゃあ、あんた捨て子かい?


 ――ち、違います! わたしの……おうちは……あそこです。


 私はそう言って、通りの先にある大きな屋敷を指さした。


 そこには、武家屋敷と見間違えるほどに立派な白亜の家屋が佇んでいたのだ。


 ――あそこは……、将棋の大橋先生のお屋敷じゃないか。するとあんたは……


 師匠との指導対局に負けた私は、そうやっていつも独りで泣き続けた。


 師匠は絶対に迎えになんか来てくれない――

 だから、自分で立ち上がってあそこへ戻るしか、ないのだ。


 江戸幕末の動乱期、後世「幕末の棋聖」 と讃えられた一人の天才棋士がいた。

 八段までしか許されない時代に「実力十三段」と評されたにもかかわらず、ついに「名人」になれなかった謎多き孤高の棋士――


 その者の名を、天野宗歩あまのそうふという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る